宇都宮(八田宗綱=中原宗綱)の娘である寒河尼は、小山政光の妻になり、宗綱の曾孫にあたる宇都宮頼綱を養子に迎え、頼綱は稲毛重成の娘と妻とする。
その息が宇都宮時綱と横田頼業である。ともに稲毛重成の娘を母とする。
宇都宮頼綱は1259年まで生きていた。
息の宇都宮時綱は1247年の宝治合戦で息の時村・泰親と自害している。
では、有間朝澄は…どうして同年同月同日の宝治元年6月5日に深江蓮忍に相伝することとなったのだろうか。
稲毛重成が1205年い歿しているのだが、その後に九条家から誰か地頭職を派遣されたと思うのだが、それが一代限りとくぎを打たれて派遣された有間朝澄であったのだろうか?
実は有間朝澄の父有間経澄は有間庄を持っていて、そこに日之江城を築城しているそうで、築城は建保時代というのである。(建保は1213年-1219年)
この間に経澄は肥前にいたことになる。
朝澄も共に渡っていた可能性を感じる。
稲毛重成の交換となった肥前高来郡東郷や深江郷をその地で差配する必要があるため、その役目がすぐ近くの有馬氏になったとしても不思議はない。

宝治合戦に、もしや朝澄もたまたま関東に戻っていて、参加していたのであろうか?
時綱と共に、戦っていたのではないだろうか?
宇都宮頼綱と宇都宮頼業(横田頼業)は、三浦氏に加担せずにいた。
勝敗が分かっていたのだろう。決着を見据え、着々と戦後処理をすすめ、地頭職が他人の手に渡らぬように用意していたのではないかと思われるのだ。
単なる偶然には思えない、同年同月同日の相伝なのである。
*****
後白河院時代、行員は、肥前高来郡東郷惣地頭職に、時員は、肥前高来西郷の惣地頭職に補任されている。(吾妻町史 )
行員と時員は兄弟という説もあるが、系図を見ると祖父と孫の関係である。
1244年に朝澄が地頭職となったという情報もあった。
つまり、後白河院の時代(1221年以前)は野本氏が居たのである。
そして九条家の所領となった後に、朝澄も蓮忍もその後の安富深江も地頭となっているのである。
