海上氏の片岡常春と、大和出身の片岡経春とは別人なのではないだろうか?
今まで同一人物と思って記事にしていたが、どうもおかしいような気がするので、
今度は別人という事にしたらもっとわかることがあるかもしれない。
【海上氏の片岡常春】と【大和出身の片岡経春】別人説
海上の片岡常春と同姓同名である。(漢字は常と経)海上氏の方の片岡氏は頼朝に反旗を翻していた。佐竹忠義の娘を娶っていた為ともいわれている。
もう一人の大和出身である片岡経春。
同姓同名の為に幕府に混同され冷遇され、後に気が付いた北条泰時に厚遇されたとか?ないだろうか。壱万石も泰時から与えられる…とは、何かあったに違いないのだ。
大和出身の片岡氏は藤原豊成を祖に持っている。豊成は南家の巨勢麻呂の兄である。
この片岡氏は源頼義・義朝に従い、更に頼朝・義経にも従っている。
経春は義経と共に行動し、38歳で没している。
其の兄弟の息が「経久」と、九里の祖と同名である。
もしも同一人物となれば、九里の祖経久1174年生まれ、となる。
今回、ひとつ見つけた事。それはその系図の中に柏原氏がいたこと。
今までも見てはいたけれど調べてこなかった。
その註に重要な一言があったのだ。
母は楠氏 母と共に河内国志紀郡に居る柏原氏の祖ナリ
片岡氏から時を経て、柏原氏(柏原新三郎昌高)となる。
以下は、橘氏から出ている一族である楠氏である。
後に柏原氏となるのである。
この片岡氏から改名した柏原氏と楠氏から改名した柏原氏は同じ氏かもしれない。
以下はこちらからお借りしています。↓ 「楠系図」
http://tatibanaya.web.fc2.com/kusunoki.html
楠正儀
南北朝期の武将。楠正成の三男。左衛門尉・河内守・左馬頭・参議。兄正行の敗死後、楠一族を率いた。足利一族諸将間に内膏訌が起こるや、観応2年(1351年)足利直義対南朝の和議を斡旋したが失敗。翌年から足利方と京都争奪戦を反復して実施し、一時南朝の優勢に導く。貞治6年(1367年)両朝講和を図るが失敗。応安2年(1369年)北朝に降り、同6年南朝の天野行宮を攻めたが、永徳2年(1382年)再び南朝に帰る。
楠正義の系にいる【正虎】は、あの相国寺の鹿苑日録にて九里の源兵衛と話をしている正虎と思われるのだ。
中原経任が橘次を名乗っていたのは、片岡氏と楠氏が近い関係であったからだろうか?
義朝に従っていたこと、も、気にかかる。(経任の祖母は元義朝の妻であったことになるので。)
戦国大名である池田氏・田中氏・山中氏も橘流だそう。
この片岡氏が橘氏と繋がってくる(片岡=柏原=楠=橘姓)ことと、菅原氏が自分たちのことを文書で橘の一族と書き記していること。大江氏にも橘氏が入っていること。
この辺りが関係しそうな気がしている。
そして唐橋氏。
古くからある「菅原家から起った唐橋氏」であるのではないだろうか、と思う。
其の唐橋氏も、大江氏も、共に橘姓を持っていたことから、そのご縁で中原親光・親厳も唐橋を称するようになったのかもしれない。
唐橋という事を意識したことで、橘氏・橘姓が浮かび上がってきた。
そして池田氏・田中氏・山中氏、戦国時代ではあるが、九里とつながりを持っていた面々である。
解明にはほど遠いが、忘れてしまうので書き留めている…と云う状態である。