「土岐頼遠、若クハ頼春ナルベシ」
この時代一人がいくつもの名前を持っていても不思議ではない。
また、土岐氏は人数が多いため、同名の者もいるかもしれない。
頼遠=頼春、と成るならば、頼春=頼員であるとの「正中の変」の人物はどうなるのだろうか?
頼遠は頼貞の息で、酒に酔ってではあるが、駕籠の中の天皇に不遜な言葉を投げかけた「婆娑羅」な人物と思う。この人が、若いころは「頼春」であった…?
もしくは、同じ名前が嫌で、途中で変更したなどとも考えられる。
先の「正中の変」の土岐頼〇は、頼員で、読みが「よりはる」なので、「頼春」かもしれない、と誰かが考えたのかもしれない。
それとも、頼員=頼春=頼遠と、同一人物という事もあり得るのだろうか?
系図は様々で、どれも少しずつ違うので、私には判断ができない状態である。
===*===
東京大学の史料編纂所DBでわかった事は、
頼遠と道謙、ともに行動していること。
web情報でわかった事は、
頼遠の息子たちは厚見郡の隣の本巣郡に移り土着したと伝わる。
一方、1352年頃の頼夏たちは近江国舟木庄に隠れ住み、その後「土岐庄」に移り住んだこと。
(群書類従)‥‥美濃国の船木庄ではなく「土岐庄」!!
尾張国の前野氏と近くなる。(私のつぶやき)