☆岡田十右衛門が家督を譲った後、岡田清左衛門となる。☆
岡田十右衛門は、加賀藩にもいる。(九里氏もいる。)
岡田十右衛門は、相馬藩にも存在する。
岡田氏は桑名藩にもいる。九里氏もいる。
岡田氏は紀伊藩にもいる。九里氏も武士ではなかったが熊野本宮付近にいる。
更に、岡田十右衛門某娘は細川豊前守家臣として、飯田氏の系図の中に登場する。
九里は加賀藩・長岡藩に多い。
多賀秀種、天正13年(1585年)に入部し、慶長二年(1597年)に宇陀を去る。
福島正頼は慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いが終わってから宇陀を拝領したと思うので、
岡田・九里氏と福島掃部頭との接点は1600年からだったかもしれない。
秀種失脚の後に福島掃部頭正頼の配下についたとも思える。
福島正頼は1615年には改易となってしまう。
同年、織田信雄公は入って来る。
では、岡田・九里氏は1597年から1600年迄何をしていたのだろうか?
1600年以降には福島掃部頭についている。
九里政直が判物を賜った1627年には織田信雄(この時70歳)は病だったのだろうか?
京都に隠居していたという事であるが、宇陀には来ていなかったのだろうか???
まだ信雄の在位中であったにもかかわらず五男の「織田高長」に判物を書かせている。
しかも、織田高長はそのころ前田利常の家臣となっていて、上野国小幡藩の幼い藩主のサポート役に行っていた頃だったのでは??? 宇陀の領を相続したのは1630年である。
1644年に没している九里清左衛門政直。
高長は、前田利常家臣であったそうなので、岡田十右衛門は加賀藩の岡田氏という可能性があると見た。
岡田と九里の両方の記載があるのは「金沢 鉄砲所文書」。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/2956726e81661b0f427e59dc243354df
また、宇陀藩の織田氏の石高別家臣団構成という表に、永田伝左衛門(用人)、 岡田十右衛門(用人)、九里八郎右衛門(弓大将)、とあるが、伊豆守の時代という。
織田長頼か、信武の時代と思われる。
長頼:万治2年(1659年) - 元禄2年(1689年)九里八郎右衛門政道の時代!
信武:元禄2年(1689年) - 元禄7年(1694年)九里八郎右衛門政方の時代!
京極高次についていた岡田氏と九里氏はもしかすると、越前・越中・越後(長岡)方面へ行ったのかもしれない、と思っていた。
小浜藩には岡田重右衛門(忠勝・忠利)がいたことがわかっているが、九里の名はなかった。
「岡田重右衛門一五人扶持」とある。
加賀藩の岡田十右衛門は1669年(寛文九年)に一度だけ登場している。