九里 【九里】を探して三千里

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私の推察では…(2) 岡田十右衛門 岡田清左衛門

2023-03-04 | 九里バラバラ情報

☆岡田十右衛門が家督を譲った後、岡田清左衛門となる。☆

岡田十右衛門は、加賀藩にもいる。(九里氏もいる。)

岡田十右衛門は、相馬藩にも存在する。

岡田氏は桑名藩にもいる。九里氏もいる。

岡田氏は紀伊藩にもいる。九里氏も武士ではなかったが熊野本宮付近にいる。

 

更に、岡田十右衛門某娘細川豊前守家臣として、飯田氏の系図の中に登場する。

 

九里は加賀藩・長岡藩に多い。

 

 

多賀秀種、天正13年(1585年)に入部し、慶長二年(1597年)に宇陀を去る。

福島正頼は慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いが終わってから宇陀を拝領したと思うので、

岡田・九里氏と福島掃部頭との接点は1600年からだったかもしれない。

秀種失脚の後に福島掃部頭正頼の配下についたとも思える。

 

福島正頼は1615年には改易となってしまう。

同年、織田信雄公は入って来る。

 

では、岡田・九里氏は1597年から1600年迄何をしていたのだろうか? 

1600年以降には福島掃部頭についている。

 

九里政直が判物を賜った1627年には織田信雄(この時70歳)は病だったのだろうか? 

京都に隠居していたという事であるが、宇陀には来ていなかったのだろうか???

 

まだ信雄の在位中であったにもかかわらず五男の「織田高長」に判物を書かせている。

しかも、織田高長はそのころ前田利常の家臣となっていて、上野国小幡藩の幼い藩主のサポート役に行っていた頃だったのでは??? 宇陀の領を相続したのは1630年である。

 

1644年に没している九里清左衛門政直。

高長は、前田利常家臣であったそうなので、岡田十右衛門は加賀藩の岡田氏という可能性があると見た。

岡田と九里の両方の記載があるのは「金沢 鉄砲所文書」

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/2956726e81661b0f427e59dc243354df

 

また、宇陀藩の織田氏の石高別家臣団構成という表に、永田伝左衛門(用人)岡田十右衛門(用人)、九里八郎右衛門(弓大将)、とあるが、伊豆守の時代という。

織田長頼か、信武の時代と思われる。

長頼:万治2年(1659年) - 元禄2年(1689年)九里八郎右衛門政道の時代!

信武:元禄2年(1689年) - 元禄7年(1694年)九里八郎右衛門政方の時代!

 


京極高次についていた岡田氏と九里氏はもしかすると、越前・越中・越後(長岡)方面へ行ったのかもしれない、と思っていた。

小浜藩には岡田重右衛門(忠勝・忠利)がいたことがわかっているが、九里の名はなかった。

「岡田重右衛門一五人扶持」とある。

 

加賀藩の岡田十右衛門は1669年(寛文九年)に一度だけ登場している。

 

 

 

 

 


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