安保法案における議論では、集団的自衛権の行使の是非が焦点の一つとなっております。昨年の7月に、既に政府解釈が変更されていますので、違憲論者は、政府解釈の変更そのものが許されていないとする立場にあるようです。
この問題に関する議論では、”権利”と書き表されている以上、誰もが、集団的自衛権は権利の一種であるとして、その前提を疑いません。そうであるからこそ、”自らの決定によって自発的に放棄もできる”とする主張も散見されるのです。しかしながら、自国や自国民に対する義務である防衛義務は憲法によって放棄できるのか、という問題と同様に、集団的自衛権を権利の面でのみ理解するのは、妥当なのでしょうか。集団的自衛権は、国家が”集団”を形成して共同で防衛を行う権利ですので、その行使には、必然的に他国との条約や協定等の締結を要します。ここに、協力を目的とした外部との権利・義務関係の形成という、単独で行使できる個別的自衛権との最大の相違点が見られるのです。このことは、他国との間に同盟条約等を締結する時点、あるいは、集団的安全保障体制に参加する時点で、全ての締約国は、集団的自衛権の行使に必要となる義務をも負うことを意味します。国際レベルにおける権利と義務との両面性こそ、集団的自衛権の特徴なのです。仮に、憲法第9条を集団的自衛権をも放棄していると解釈するならば、日本国は、軍事同盟を結ぶことも、国連に加盟することもできないはずです。ところが、実際には、日本国は、講和成立とほぼ同時にアメリカと日米同盟を締結し、国連にも加盟しております。この時点で、日本国政府は、集団的自衛権の行使を国際法上の義務として認め、現行憲法の枠にあっても、集団的自衛権の行使を容認しているのです。この点からしますと、”権利であるから放棄できる”とする説は、国際法上の一方的義務放棄、あるいは、条約破棄の勧めに他なりません。
日本国を取り巻く国際情勢が緊迫する中、集団的自衛権の行使をめぐる議論が解釈論の域を出ずに空回りをするようでは、安全保障のリスクは高まるばかりです。集団的自衛権の義務面に注目することは、国際社会における日本国の役割、言い換えますと、現実の危機への対応、並びに、国際秩序の維持のための手段としての集団的自衛権のあり方と意義に、議論の方向を転じる契機ともなるのではないかと思うのです。
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この問題に関する議論では、”権利”と書き表されている以上、誰もが、集団的自衛権は権利の一種であるとして、その前提を疑いません。そうであるからこそ、”自らの決定によって自発的に放棄もできる”とする主張も散見されるのです。しかしながら、自国や自国民に対する義務である防衛義務は憲法によって放棄できるのか、という問題と同様に、集団的自衛権を権利の面でのみ理解するのは、妥当なのでしょうか。集団的自衛権は、国家が”集団”を形成して共同で防衛を行う権利ですので、その行使には、必然的に他国との条約や協定等の締結を要します。ここに、協力を目的とした外部との権利・義務関係の形成という、単独で行使できる個別的自衛権との最大の相違点が見られるのです。このことは、他国との間に同盟条約等を締結する時点、あるいは、集団的安全保障体制に参加する時点で、全ての締約国は、集団的自衛権の行使に必要となる義務をも負うことを意味します。国際レベルにおける権利と義務との両面性こそ、集団的自衛権の特徴なのです。仮に、憲法第9条を集団的自衛権をも放棄していると解釈するならば、日本国は、軍事同盟を結ぶことも、国連に加盟することもできないはずです。ところが、実際には、日本国は、講和成立とほぼ同時にアメリカと日米同盟を締結し、国連にも加盟しております。この時点で、日本国政府は、集団的自衛権の行使を国際法上の義務として認め、現行憲法の枠にあっても、集団的自衛権の行使を容認しているのです。この点からしますと、”権利であるから放棄できる”とする説は、国際法上の一方的義務放棄、あるいは、条約破棄の勧めに他なりません。
日本国を取り巻く国際情勢が緊迫する中、集団的自衛権の行使をめぐる議論が解釈論の域を出ずに空回りをするようでは、安全保障のリスクは高まるばかりです。集団的自衛権の義務面に注目することは、国際社会における日本国の役割、言い換えますと、現実の危機への対応、並びに、国際秩序の維持のための手段としての集団的自衛権のあり方と意義に、議論の方向を転じる契機ともなるのではないかと思うのです。
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