昨日決定された令和という新元号については、初の国書からの起用となったため、マスコミ各社とも、日本国の独自色の強さを強調した報道が並んでおります。令と和の二文字は、日本最古の歌集『万葉集』第五巻梅花の歌三二首併せて序を典拠としています。確かに出典に注目しますと、令和の元号は漢籍を離れた点で‘国風化’されたのですが、令和ほど人によって解釈が違ってしまう元号もないように思えます。解釈によっては、真逆ともなり得るのです。
もちろん、国民に対する説明として披露された政府解釈が、日本国としての正式の解釈となりましょう。しかしながら、漢字とは、そのそれぞれの原義のみならず、その文字に因む過去の歴史や出来事等を多少なりとも背負っておりますので、自ずと人々の想像力を掻き立ててしまうものです。今般の令和の二文字も、過去の使用例を引き出すことで命名されており、それ故に、『万葉集』が8世紀にあって国民的歌集として編纂され、かつ、初春(令月)に大宰府の大伴邸で催された梅見の宴に添えられた序を典拠とすることを以って、その非政治性のみならず、和歌等の伝統や歴史の継承、美しく豊かな自然、国民文化、多様な個性の開花への願いが込められているとする由来解説を要するのです。
その一方で、令和の二文字、あるいは、『万葉集』の典拠箇所を読んで、全ての国民が同様の印象を持つとは限りません。政府の説明を受けて初めて令和が選定された理由を知るのであり、個人的な受け止め方には当然に相違が生じます。菅官房長官が令和と墨書された額を掲げた瞬間、令の一文字を見て、まずは命令の令を思い浮かべる人も少なくなかったはずです。同じ漢字であっても、それの用い手と読み手とでは、想像力や連想力も手伝って認識に違いが生じるという厄介な問題があるのです。そしてそれは、国民皆が使用する漢字の選定に際しては、慎重にならざるを得ない理由ともなります。
漢字の意味の多義性、あるいは、重層性を考慮しますと、政府の公式解釈が存在する一方で、個人的な主観であれ、他にも様々な解釈も成り立つ余地があります(実際に、識者やコメンテーター等の見解にも開きが…)。例えば、国風元号としての令和が前面に打ち出されつつも、出典の序が漢文体であること(‘国風化’であれば古今集か新古今和歌集の方が適しているのでは…)、梅が中国を象徴する花であること、序には蘭も登場すること(蘭は満州国の国花でありオランダの略語でもある…)、大宰府は唐や朝鮮半島諸国との外交の窓口であること(もっとも、梅と風と大宰府の三者が揃うと、左遷され、彼の地で失意のうちに没した菅原道真をも想起させる…)、ラ行音は外来音であること(斬新である反面、大和言葉からは離れる…)、ローマ字表記のRは、LとRの区別することが難しい日本人には極めて発音が難しく、ラ行音はLの方が自然…等の諸点に注目しますと、むしろ、令和には、中国、満州、オランダといった諸外国との関連性や外交といった政治性までも帯びてきます。京都産業大学の所功名誉教授によれば、江戸時代に令徳という元号が候補に挙がったものの、徳川幕府に命令を下しているように解されるとして採用が見送られた事例があるそうです。和は古代日本国の呼称であった倭に通じる文字ですので、最悪の解釈としては、中国等が倭=日本国に命じる、即ち、外部からの支配をも含意しかねない危うさを秘めているとも言えましょう。
元号制度そのものが中国由来であるために、その存続につきましても根本から考えてみる必要もあるのでしょうが、少なくとも現行の制度では、令和という元号が公式に使用されることとなります。日本国は‘言霊の幸はふ国’であるだけに、令和の二文字が禍をもたらさぬよう、国民は心して新しい元号に接してゆかなくてはならないのではないかと思うのです。
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もちろん、国民に対する説明として披露された政府解釈が、日本国としての正式の解釈となりましょう。しかしながら、漢字とは、そのそれぞれの原義のみならず、その文字に因む過去の歴史や出来事等を多少なりとも背負っておりますので、自ずと人々の想像力を掻き立ててしまうものです。今般の令和の二文字も、過去の使用例を引き出すことで命名されており、それ故に、『万葉集』が8世紀にあって国民的歌集として編纂され、かつ、初春(令月)に大宰府の大伴邸で催された梅見の宴に添えられた序を典拠とすることを以って、その非政治性のみならず、和歌等の伝統や歴史の継承、美しく豊かな自然、国民文化、多様な個性の開花への願いが込められているとする由来解説を要するのです。
その一方で、令和の二文字、あるいは、『万葉集』の典拠箇所を読んで、全ての国民が同様の印象を持つとは限りません。政府の説明を受けて初めて令和が選定された理由を知るのであり、個人的な受け止め方には当然に相違が生じます。菅官房長官が令和と墨書された額を掲げた瞬間、令の一文字を見て、まずは命令の令を思い浮かべる人も少なくなかったはずです。同じ漢字であっても、それの用い手と読み手とでは、想像力や連想力も手伝って認識に違いが生じるという厄介な問題があるのです。そしてそれは、国民皆が使用する漢字の選定に際しては、慎重にならざるを得ない理由ともなります。
漢字の意味の多義性、あるいは、重層性を考慮しますと、政府の公式解釈が存在する一方で、個人的な主観であれ、他にも様々な解釈も成り立つ余地があります(実際に、識者やコメンテーター等の見解にも開きが…)。例えば、国風元号としての令和が前面に打ち出されつつも、出典の序が漢文体であること(‘国風化’であれば古今集か新古今和歌集の方が適しているのでは…)、梅が中国を象徴する花であること、序には蘭も登場すること(蘭は満州国の国花でありオランダの略語でもある…)、大宰府は唐や朝鮮半島諸国との外交の窓口であること(もっとも、梅と風と大宰府の三者が揃うと、左遷され、彼の地で失意のうちに没した菅原道真をも想起させる…)、ラ行音は外来音であること(斬新である反面、大和言葉からは離れる…)、ローマ字表記のRは、LとRの区別することが難しい日本人には極めて発音が難しく、ラ行音はLの方が自然…等の諸点に注目しますと、むしろ、令和には、中国、満州、オランダといった諸外国との関連性や外交といった政治性までも帯びてきます。京都産業大学の所功名誉教授によれば、江戸時代に令徳という元号が候補に挙がったものの、徳川幕府に命令を下しているように解されるとして採用が見送られた事例があるそうです。和は古代日本国の呼称であった倭に通じる文字ですので、最悪の解釈としては、中国等が倭=日本国に命じる、即ち、外部からの支配をも含意しかねない危うさを秘めているとも言えましょう。
元号制度そのものが中国由来であるために、その存続につきましても根本から考えてみる必要もあるのでしょうが、少なくとも現行の制度では、令和という元号が公式に使用されることとなります。日本国は‘言霊の幸はふ国’であるだけに、令和の二文字が禍をもたらさぬよう、国民は心して新しい元号に接してゆかなくてはならないのではないかと思うのです。
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