万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

小泉劇場の『進次郎物語』のシナリオなのか?

2019年09月11日 15時30分00秒 | 国際政治
昨日の内閣改造により、安倍内閣の新たな閣僚の顔ぶれが揃うこととなりました。中でも注目を集めているのは、小泉進次郎氏での入閣です。本来であれば、組閣に際しての‘サプライズ’情報となるはずなのですが、このニュースを耳にした国民の多くは、‘やっぱり!’と感じたのではないでしょうか。それでは、何故、国民の間でこうした既知感が生じているのでしょうか。

 進次郎氏の父である純一郎氏が総理大臣を務めた際には、同氏の政治手法は劇場型と評されていました。ドラマチックな展開で国民を‘サプライズ’させ、不可能とされてきた分野においてドラスティックな改革を実行するスタイルであり、観客として小泉劇場に酔いしれる国民も少なくなかったのです。もっとも、幕が閉じた後で我に返って考えてみますと、その破壊効果にこそ驚かされるのですが…。言い換えますと、劇場型の政治スタイルとは、国民が感動するようなシナリオを入念に描き、たとえ日本国の国益や国民の利益に反するような政策であっても、それと気が付かれないような心理操作を伴う政治手法なのです(公演中にあっては国民は思考停止に…)。

 今般の進次郎氏の入閣に際しても、既にお膳立てともいうべきシナリオが準備されていたように思えます。おそらくシナリオライターは、年若くして唐突に入閣したのではあまりにも不自然となりますし、大臣の椅子を順番待ちにしている古参の議員からも反発を買うかもしれません。そこで、まずは序幕として、入閣に先立ち、首相官邸で華々しく婚約発表を行い、進次郎氏が首相の座に近い特別な政治家であることを国民に印象付けたのでしょう。演劇効果としては、まずは、主役の登場シーンこそ重要です。アメリカ民主党のオバマ前大統領も、フランスのマクロン大統領も、若さを前面に打ち出して颯爽と舞台に登場してきました。主役は、他の登場人物よりも一段と目立つスポットライトを浴びる存在でなければならないからです。

主役が登場したところで、次に、シナリオでは政策面において政界に新風を吹き込む斬新な改革者のイメージを観客に与える場面が描かれているはずです。そこで、第一幕として、自らが育休を取得すると言ったリベラルな方針を打ち出し、従来の自民党の‘古いタイプ’の政治家と一線を画す姿を演じさせたのでしょう。そして、今般の入閣こそが、第三幕であるのかもしれません。

 しかしながら、進次郎氏の入閣を描く第三幕を以って今般の小泉劇場が幕を降ろすのではないように思えます。国民の多くもうすうす感じ取っているように、その最終幕とは、日本国の総理大臣の座に就き、長期小泉政権を誕生させることなのではないでしょうか。あるいは、進次郎政権の誕生こそが第一幕であり、それまでの道のりは序幕に過ぎないかもしれません。何れにしましも、今日の政界は、全てではないにせよ、小泉劇場の舞台でもあるのです。

  日本国において劇場型の政治を始めて実践したのが父純一郎氏であったため、その効果は絶大でした。背後にシナリオが存在することに国民は気が付かなかったから。しかしながら、今日、劇場型の政治手法の効果は薄れつつあります。シナリオの存在が国民の知るところとなると、もはや‘サプライズ’ではなくなるからです。つまり、国民の多くは、予め用意されたシナリオに踊らされることがなくなるのです。冒頭で述べた既知感とは、まさに、国民がシナリオの筋書きを見越してしまった結果なのではないかと思うのです。

このシナリオライターは、小泉改革の方向性が海外への利益誘導であったように、外部者である可能性も否定はできません。シナリオの結末が容易に想像できてしまう今、小泉劇場の『進次郎物語』は日本国民にとりましては悲劇となるかもしれず、国民の関心は、ストーリー展開そのものよりも、自らが予測したシナリオと現実との一致に移っているようにも思えます。そしてそれ故に、国民にとりましての小泉劇場の終幕とは、シナリオの成就ではなく、小泉劇場そのものが消え、日本国の政治が国民本位の民主主義を取り戻す時を意味するのではないかと思うのです。

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コメント (24)
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