戦前のドイツにあってはナチスの台頭を招いた一因ともされているため、今日では偽書とされている『シオンの議定書』では、全世界を支配する手段として各国に独裁者を配置する計画が記されています。この恐るべき独裁者コントロール構想、オーウェルの『1984年』にも通じるのですが、『シオンの議定書』の真偽は別としても、同書に記されている世界支配の構想は、純粋な比較統治論、あるいは、システム論的な見地から、注意深く考察しみるだけの価値があります。その理由は、民主主義、自由、法の支配といった人類の普遍的価値の弱点や盲点を狡猾に悪用しているからです。乃ち、サタニックな魅力に引き寄せられるというわけではなく、人類が知性と理性を以って発展させてきた統治制度の脆弱性を知る上で、同書は反面教師として大いに参考になるのです。
例えば、冒頭で述べた独裁者の全世界的な配置というシステムを考えて見ますと、そこには、世界支配と中央集権体制との密接な繋がりを見出すことができます。世界支配を目論む者が存在するとすれば、各国ともに、自らの手下とななる独裁者の下で中央集権体制を敷くことが最も好都合なのです(もっとも、既存の国家を全て廃絶して世界政府を樹立させる方法もありますが、このケースでも、同政府のトップに据えられるのは世界支配者その人、あるいは、その忠実なる下僕として据えられた独裁者と云うことになりましょう)。
その理由は、一人の人物に全ての権限が集中する中央集権体制では、内部のみならず、外部からの統治システムに対するチェック機能が一切働かないからです。このことは、独裁者の地位に自らの息のかかった人物を就任させることができれば、自由自在にその国を外部から操ることができることを意味します。このためには、被支配の側となる国民からの一切の抵抗、反発、批判等を封じ込めることができる体制が望ましいのは言うまでもありません。かくして独裁者は絶対的な権力者かつ、権威者として国民の頭上に君臨し、全体主義体制に帰結されるのです。
一旦、独裁体制が成立すれば、自らが裏から糸を引いて操れば、自らの利益となる政策を実行させることはできますし、同国に埋蔵されている天然資源の権益も自らの手中に収めたに等しくなります。また、全体主義体制と軍事体制は類似していますので、全世界に配置した独裁者達に命じて安全保障上の危機を煽り、国民の愛国心を利用して同体制を強化し、永続性を高めようとするかもしれません。『1984年』の世界でも、ビッグブラザーを独裁者とするオセアニア政府による国民徹底監視体制の維持には、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三カ国間の半永久的な覇権争いが利用されていますが、ビッグブラザーもまた、決して表舞台には姿を見せない‘世界支配者’の操り人形なのでしょう。あるいは、首脳間の会談を演出して紛争を解決すれば、国民の目には、外交手腕にも長けた頼りになる‘偉大なる指導者’に映るかもしれません。
独裁体制を擁護する人々は、常々、上意下達の軍隊的なシステムを以ってその効率性や迅速性を同体制の民主主義を基盤とする権力分立に対する優位点として挙げています。他国からの侵略に対しては強力なリーダーシップの下で国民が一致団結して戦う必要がありますので、この一面だけを切り取れば一理はあるのですが、同擁護論は、独裁者が外部勢力の操り人形と化すリスクを全く考慮していません。国内向けの閉鎖的体制として捉えられる傾向にある独裁体制には、実は権力も資源も全てを含めて国家が丸ごと外部に奪われるという重大な傀儡化リスクがあるのです。もっとも、スターリンや毛沢東にイメージされるような共産主義型の‘独裁者’に限らず、高度なテクノロジーを悪用し得る今日では、自由主義諸国の大統領や首相、さらには王室や皇室といった世襲のポストについても同様のリスクが認められます。そして、世界支配者の代理人達は‘救国の英雄’や‘偉大なる指導者’を演じるよう命じられていますので、国民に対しては常に‘偽旗’とならざるを得ないのです。
このように考えますと、世界支配者や侵略的な国家の魔の手から逃れ、自国の独立を保つためには、民主主義を手放してはならず、かつ、権力分立体制を維持する必要があることが理解されてきます。それと同時に、『シオンの議定書』を以って反ユダヤ主義を煽ったヒトラーこそ‘独裁者’であったことは、一体、何を意味するのかという疑問も湧いてくるのです。
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例えば、冒頭で述べた独裁者の全世界的な配置というシステムを考えて見ますと、そこには、世界支配と中央集権体制との密接な繋がりを見出すことができます。世界支配を目論む者が存在するとすれば、各国ともに、自らの手下とななる独裁者の下で中央集権体制を敷くことが最も好都合なのです(もっとも、既存の国家を全て廃絶して世界政府を樹立させる方法もありますが、このケースでも、同政府のトップに据えられるのは世界支配者その人、あるいは、その忠実なる下僕として据えられた独裁者と云うことになりましょう)。
その理由は、一人の人物に全ての権限が集中する中央集権体制では、内部のみならず、外部からの統治システムに対するチェック機能が一切働かないからです。このことは、独裁者の地位に自らの息のかかった人物を就任させることができれば、自由自在にその国を外部から操ることができることを意味します。このためには、被支配の側となる国民からの一切の抵抗、反発、批判等を封じ込めることができる体制が望ましいのは言うまでもありません。かくして独裁者は絶対的な権力者かつ、権威者として国民の頭上に君臨し、全体主義体制に帰結されるのです。
一旦、独裁体制が成立すれば、自らが裏から糸を引いて操れば、自らの利益となる政策を実行させることはできますし、同国に埋蔵されている天然資源の権益も自らの手中に収めたに等しくなります。また、全体主義体制と軍事体制は類似していますので、全世界に配置した独裁者達に命じて安全保障上の危機を煽り、国民の愛国心を利用して同体制を強化し、永続性を高めようとするかもしれません。『1984年』の世界でも、ビッグブラザーを独裁者とするオセアニア政府による国民徹底監視体制の維持には、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三カ国間の半永久的な覇権争いが利用されていますが、ビッグブラザーもまた、決して表舞台には姿を見せない‘世界支配者’の操り人形なのでしょう。あるいは、首脳間の会談を演出して紛争を解決すれば、国民の目には、外交手腕にも長けた頼りになる‘偉大なる指導者’に映るかもしれません。
独裁体制を擁護する人々は、常々、上意下達の軍隊的なシステムを以ってその効率性や迅速性を同体制の民主主義を基盤とする権力分立に対する優位点として挙げています。他国からの侵略に対しては強力なリーダーシップの下で国民が一致団結して戦う必要がありますので、この一面だけを切り取れば一理はあるのですが、同擁護論は、独裁者が外部勢力の操り人形と化すリスクを全く考慮していません。国内向けの閉鎖的体制として捉えられる傾向にある独裁体制には、実は権力も資源も全てを含めて国家が丸ごと外部に奪われるという重大な傀儡化リスクがあるのです。もっとも、スターリンや毛沢東にイメージされるような共産主義型の‘独裁者’に限らず、高度なテクノロジーを悪用し得る今日では、自由主義諸国の大統領や首相、さらには王室や皇室といった世襲のポストについても同様のリスクが認められます。そして、世界支配者の代理人達は‘救国の英雄’や‘偉大なる指導者’を演じるよう命じられていますので、国民に対しては常に‘偽旗’とならざるを得ないのです。
このように考えますと、世界支配者や侵略的な国家の魔の手から逃れ、自国の独立を保つためには、民主主義を手放してはならず、かつ、権力分立体制を維持する必要があることが理解されてきます。それと同時に、『シオンの議定書』を以って反ユダヤ主義を煽ったヒトラーこそ‘独裁者’であったことは、一体、何を意味するのかという疑問も湧いてくるのです。
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