万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族・王族の婚姻問題-’高貴さ’の源泉とは?

2021年10月07日 12時54分05秒 | 国際政治

平等という価値が尊重されている現代という時代にあっては、皇族や王族と言う存在は、例外中の例外と言えましょう。国民のコンセンサスという条件付きとはいえ、国家が公然と一般の国民との公的な区別を設け、特別に高い地位を与えているからです。’陛下’や’殿下’といった公式に使用すべき敬称も定められており、政府主催のみならず、民間主催のイベント等でも貴賓席が設えられます。皇族も王族も、首相でさえ頭を下げなければならない’高貴’な存在なのです。それでは、この高貴さの源泉とは、一体、どこから来るのでしょうか。

 

 おそらく、’高貴’さの源泉とは、一つではないのでしょう。先ずもって、古今東西を問わず、’高貴’さの源泉とされてきましたのは、所謂「高貴な血統」というものです。日本国の皇族の場合には、天孫降臨神話に依拠しており、’万世一系’という言葉は古代から連綿と続いてきたと信じられてきた血の高貴さの表現でもあります。ヨーロッパにありましても、かつて国王達は、王権神授説を以って自らの地位を正当化しようとしました。血統による神聖性は、’高貴’さの源泉、即ち、国民が王族や皇族を自然な感情から神聖視する重要なファクターであったと言えましょう。

 

 もっとも、以前にも本ブログで述べておりますように、今日の遺伝学の発展は、血脈による高貴さを急速に希薄化しております(血統の継続性に対する疑義は別としても…)。初代から代を重ねるごとに減数分裂によって血の高貴さも半減してゆくからです。もちろん、限られた範囲で婚姻が行われる場合には、’高貴な血’の濃度はある程度保たれるのでしょうが、婚姻を自由意思に任せますと、否が応でも’高貴さ’は失われてゆきます。公式の地位としては、以前とは変わらずに’王族’や’皇族’であっても、流れている血はもはや高貴ではなくなり、一般の国民と同列となってゆくのです。

 

 加えて、王族や皇族の血統に対する国民の崇敬心は、近代以降の合理主義的な物事の捉え方によっても弱まっています。何故ならば、特定の遺伝子の継承者のみが、他の人々よりも特別に高貴であることを科学的に証明することはできないからです。

 

 ’高貴’さをもたらす二つ目の要因は、義務と権利との特別な関係において見出すことができます。その典型例は、封建制度下におけるヨーロッパの帯剣貴族とその保護下にある領民との間に見られます。貴族達は、外部の敵から攻撃を受けた際には、前者が自らの命を賭して領民を護る代わりに、平時にあっては領民から敬われ、贅沢な生活も許されていたのです。この関係性は、所謂、’ノーブレス・オブリージュ’と呼ばれるものであり、高い地位にはより重い義務が伴うというものです。そして、この構図では、義務の遂行、あるいは、人々への貢献こそが重要であり、血統の神聖性は殆ど関係ありません。このため、日本国を含めた世界各地にあって、人々のために自らの命を捧げた人は、どのような血筋であれしばしば偉人として後世の人々の記憶にも刻まれているのです(キリストの磔刑も、人類のために自らの命を捧げたという構図において同類型に含まれるのでは…)。

 

 一般の人々よりも特別に重い義務を果たすということは、それは、しばしば自己犠牲をも意味します。高貴な者はそれに相応しい義務を遂行すべしとする観念は、貴人と一般の人々との間の暗黙の了解でしたので、先陣を切った勇敢な騎士が戦死するケースも見られたのです。しかしながら、ノーブレス・オブリージュという言葉も、今や死語になりつつあります(なお、ヨーロッパの騎士道精神は、第一次世界大戦にあって貴族階級の若者の多くが自らの義務を果たすべく戦場にあって奮戦し、命を落としたために絶えてしまったとも…)。現代という時代では、王族であれ、皇族であれ、誰であれ、個人の自由や人権の尊重こそ最優先されるべき価値と見なされているからです。現代国家の大原則としての基本的な自由や権利の平等は、ノーブレス・オブリージュに基づく非対称な権利・義務関係を否定してしまうのです。

 

 しかも、現代という時代にありましては、王族や皇族の役割も大きく変化しています。今日、これらの人々が、国民の盾となり、国民のために自らの命を犠牲とするようなリスクの高い義務を負っているわけではありません(むしろ、逆かもしれない…)。日本国にありましても、その憲法において天皇を国家並びに国民の統合の象徴と定めるのみです。国事行為などの天皇の権能に関する条文も設けられてはいますが、皇族の役割については空文なのです。ここに、特権を維持しつつ重い義務を負わない、あるいは、国民に対する責任意識の低い皇族とは、果たして、高貴な存在なのだろうか、とする素朴な疑問が、国民の側にも生じてきていると言えましょう。

 

 そして、第3に、‘高貴’の源泉があるとしますと、それは、法律による強制です。罰則を設けて高い地位にある人を崇敬するよう国民に強制するのですから、‘見せかけの高貴’ということになるでしょう(中国の習近平体制や北朝鮮の金王朝のよう…)。不敬罪を設けるのでしょうから、同形態ですと、国民の内面にまで踏み込みかねず、人々の内面の自由を侵害してしまいます。また、その馬鹿馬鹿しさに耐えられない国民からの抵抗も予測されるでしょう。

 

 イギリスでも王族の婚姻を機に混乱が生じていますが、日本国にありましても、今後の天皇、あるいは、皇族の在り方を考えるに際しては、’高貴’さの源泉にまで遡って考察する必要があるように思えます。そして、今日、あらゆる側面から見ても’高貴ではない’と国民の多くが判断した場合には、もはや、国家の制度としての王族や皇族は維持し得ないのではないかと思うのです。


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