万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

民間人の犠牲を忘れた“九条信者”のエゴイズム

2017年08月19日 15時03分43秒 | 日本政治
 憲法第9条を金科玉条とし、交戦権、並びに、軍隊の放棄を以って平和が実現すると訴える人々は、自らに正義があると信じ、平和主義者を自認しております。しかしながら、“九条信者”と称される平和主義者は、真に日本国と国民の将来を考えているのでしょうか。

 過去の戦争の歴史は、九条教の教えが幻想にすぎないことを教えています。第二次世界大戦では、軍事的に脆弱であったポーランドは、1939年9月に東西両方面からナチスドイツ、並びに、ソ連の侵攻を受け、奮闘も空しく分割されます。軍人の死者数は12万人ですが、民間人の犠牲者数は591万人にも上ります。ポーランドの民間人犠牲者の中には、270万人のユダヤ人も含まれており、ホロコーストによるユダヤ人全犠牲者の数が600万人とすれば、国、即ち、組織的防衛を可能とする軍隊を持たない民族の悲劇は、ユダヤ人犠牲者の数によって証明されています。また、フランスは、ペタン将軍の決断の下で無血開城の形でナチスドイツの軍門に下りましたが、軍人の死者数が20万人に対して40万人もの民間人が犠牲になりました。たとえフランス政府がパリに無防備都都市宣言を発し、首都が砲撃を受けなくとも、民間人の犠牲者が一人も出ないというわけではなかったのです。加えて、チベットは、中国との間で『17条協定』を“平和裏”に締結しながら、人民解放軍の進駐を受け、中国支配に抵抗した多くの民間の人々が残酷なるジェノサイドによって命を奪われました。

 不十分な軍備や軍隊の欠如が民間人に多数の犠牲を生じさせる主たる要因としては、当然のことではありますが、第一に、防衛力の喪失と脆弱性を挙げることができます。防衛力を失うことによる民間人の犠牲は、日本国でもソ連参戦以降の満州、並びに、朝鮮半島において経験しております。ユダヤ人の犠牲も、仮に当時、自らの国家を有していたならば、これ程の数には上らなかったことでしょう。因みに、イスラエル建国以来、第一次から第四次(1948~1973年)までの中東戦争における軍民合わせたイスラエル側の死者数は凡そ1万1553人です。

第二の要因は、祖国解放戦線やレジスタンスへの民間人の参加です。これらのケースでは、支配国と敵対している外国政府が支援する場合もあり、武器や資金等の提供を受けるため、事実上の内戦状態ともなり得ます。“九条信者”の人々は、仮に中国の人民解放軍が侵攻してきた場合、“熱烈歓迎”の横断幕を掲げて迎え入れるのでしょうが、多くの日本人は、レジスタンスに身を投じることでしょう。さらに、日本国の自衛隊にあっても、ド・ゴール将軍が亡命先のロンドンで“自由フランス”の組織を結成して戦ったように、中国支配に抵抗する組織が米軍の支援の下で独自の行動を起こすかもしれません。民間人をも巻き込んだ内戦もあり得るわけですから、“九条信者”の主張は、無責任としか言いようがないのです。

 ネット上で“九条信者”を検索すると、Hatena Keywordでは、「憲法9条さえあれば、自分の安全は守られると考える人。」と説明されています。九条教を信じていれば、自分の命と身の安全だけは助かると考えている人々は、平和主義者と言うよりも他者の命や運命を顧みないエゴイスト、あるいは、日本国の滅亡に協力する反日主義者である疑いも拭い去ることができないのです。

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6 コメント

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Unknown (オカブ)
2017-08-19 16:30:48
倉西先生。
いつもご指導ありがとうございます。
いわゆる「九条教信者」に関しては、私は先生のお考えに全面的に賛同いたします。
私が考えるに「九条教信者」とは国家安全保障によって自らの生命・財産が保障されているという考えを一切捨象し、それどころか「国家安全保障」を悪魔の剣として蛇蝎の如く忌み嫌っている人達だと思います。彼らによりますと「国家安全保障」は平和を破壊する暴力的手段であるという珍妙な論理に行きつきます。彼らにとって「武力」とは持っているだけで人員を殺傷する危険極まりないものであり、「抑止効果」という考えはさらさら眼中にありません。ですから自衛隊という物理的実力行使手段がありながら、それの行使の可能性を全否定し、抑止の役目も果たせない木偶の坊として置いておく「戦争ができる国」プロパガンダが繰り広げられるのです。
ある意味第二次大戦の欧州での悲劇が、北朝鮮にも比類するナチスドイツという「ならず者国家」に対する防備を欠いていたために惹起されたという歴史の教訓をなんら学んでいないのです。
ここで先生に対する問題提起という僭越なことをしようとは考えていませんが、「九条信者」から憲法九条そのものに視点を移して、別の側面からいくつかの現状を指摘させていただきたいと思います。
ある政治学者のきわめて通俗的な場での議論をご紹介いたします。彼(彼女)は自衛隊は、九条の字面通りの文言からすれば明らかに違憲だと主張します。では現存する自衛隊をどうするか?日本の防衛をどうするかという問題に直面します。
それにあたって、九条の三項を加憲する安倍素案では、自衛隊の違憲状態は解消されず、したがって九条の全面的改定、あるいは削除、少なくとも二項の削除を主張します。
きわめて単純明快な素人にも分かり易い論説だと思います。
しかし、私は彼(彼女)が九条を取り巻く複雑な日本国内の政治状況、及び国際情勢を考慮に入れていないのではないかと疑問を抱きます。
第一点目として、これは先生のお考えにも興味があるのですが、現在の日本の環境において九条改定を中心とする改憲が果たして可能か、ということです。私は三項の加憲も含めて現実的に不可能だと思います。
ですから私はもし改憲をするのであれば、九十六条から手を付けるべきではないかと考えています。
二点目として、改憲しただけで果たして日本に防衛力の行使が可能かということです。
自衛隊の存在と憲法の裏付けがあったとしても、実際の防衛力の行使には、その他、膨大な法律の成立、改定が必要です。改憲に成功してもその段階で、日本の軍事力の行使の基盤はつぶされるのでは、と危惧しています。
二人目として、集団的自衛権の行使は認めつつも、憲法九条の改定には反対という立場の評論家がいます。この方は集団的自衛権によってアメリカの安全保障の傘に入りながらも、PKOやアメリカの防衛のために日本人が血を流すのには反対という立場です。
私は当初、九条の欺瞞性から、この型の主張には首肯しがたかったのですが、今では一面の真理があるかなと思っています。この私の考え悪い表現で一言で言えば「安保ただ乗り論」です。
これは九条の改定が現実的に不可能だという私の予測、また日本のリスク回避という観点から見た国益と安全保障を両立させるという基本に立って思い至った結論です。
その意味で、今思えば、集団的自衛権の行使に関わる安保法制の整備は絶妙の策ではなかったかと考えます。
片務的集団的自衛である日米安保から一歩踏み出して、双務的安全保障の立場を取る一方で、存立事態要件で、アメリカの防衛に対して日本の兵力を無条件に提供することにタガを嵌めたということで、アメリカに顔を立て、日本は実を取ったと言うべきではないでしょうか?
ともあれ、現実の国際情勢、安全保障に関する考察は複雑な要件を一つ一つ検証していく必要があるわけで、単純な絵に描いた解が出るわけはありませんし、とても素人が理解可能なもので阿ありません。
先生のお働きのご発展を願うばかりです。
毎回、差し出がましいことを申し上げて申し訳ありません。
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オカブさま (kuranishi masako)
2017-08-19 19:24:56
 コメント、並びに、貴重なご意見をいただきまして、ありがとうございました。

 九条信者とは、自国の「国家安全保障」については絶対悪として一切信用しない一方で、外国の「国家安全保障」については絶対善と信じ込み、生命、身体、財産を守ってもらえると期待しているのですから、思考が倒錯しているとしか言いようがありません…。そろそろ、説得力を失っている現実に気が付いていただきたいものです。

 ところで、オカブさまからのご意見を拝読し、私が考えますところを述べさせていただきたいと思います。まず、憲法改正の可能性についてですが、国民世論というよりも、マスコミや政界におきまして、憲法改正を阻止しようとする動きが顕著なように思えます。自民党も例外ではありませんし、中国との間に独自のルートを公明党も、いざとなりますと、反対に回ることでしょう。その一方で、絶対不可能として最初から諦めるよりも、世論に訴える形で憲法改正を試みるのも一つの道ではないかと思います。もちろん、発議や国民投票の段階で否決される可能性もありますが、未来永劫にわたって現行の憲法を維持しますと、我が国のみが統治制度の発展から取り残され(問題点は9条のみではない…)、”化石化”する懸念もありますので、たとえ最初の試みでは不首尾に終わったとしても、憲法改正への具体的な道筋をつけることはできます。同時に、憲法改正の議論が高まれば、現憲法の問題点が明確になると共に、将来に向けた国制のあり方も議論されることとなりましょう。それだけでも、政治的な意義があるのではないかと思います。なお、9条の改正案につきましては、私は、ドイツやイタリア等の他の諸国と同程度に、侵略戦争のみを禁じ、個別的、及び、集団的自衛権、並びに、国際的な集団安全保障(国際的警察活動)等への参加は認めるべきとする立場です。この点、第3項を”加憲”するよりも、第2条の削除、あるいは、武力行使の条件の明確化の方が適切ではないかと考えております。

 日米安保の行方につきましては、これは、日本国側のみでは決められることではなく、やはり、国際情勢の変化とアメリカとの協議、並びに、合意に基づくべきことと思います。今般、北朝鮮がグアム沖へのミサイル発射実験の計画を明らかにしましたが、日本国政府は、ミサイル迎撃を決定しております。こうした一連の流れから推測しますに、一定の歯止めを設けた上での日米同盟の双務関係への変化はあり得ないことではありません。あるいは、アメリカは、アジアの安全保障や防衛に関する日本国側の役割強化を求める方向で、権利と義務とのバランスを再調整する可能性もなきにしもあらずではないかと思うのです。
返信する
Unknown (オカブ)
2017-08-20 06:30:11
倉西先生。
ご指摘とご指導ありがとうございます。
上記の先生のご指導で、ご教示いただいた項目は多々ありますが、「改憲」に絞って自分の感じたことを申し述べさせていただきます。
先生の「マスコミや政界におきまして、憲法改正を阻止しようとする動きが顕著なように思えます。」とのご指摘はまことにご尤もだと思います。
ただし、国民世論はほぼマスコミの意図によってコントロールされている日本の現状では、マスコミが改憲反対であれば、それを独立変数として、国民世論は従属変数として結果が形成され、現状を描写するなら、憲法は金科玉条であり、これを改正することを議論することはタブーに触れる忌まわしき行為であるという暗黙の合意めいたものが社会の根底に定着しているような気がします。
それに対して倉西先生の「憲法改正の議論が高まれば、現憲法の問題点が明確になると共に、将来に向けた国制のあり方も議論されることとなりましょう。それだけでも、政治的な意義があるのではないかと思います。」とのご指摘はタブーを打ち破る試みであり、極めて意義深いものと感じます。
そこで障害となりこの試みを阻害するのは謂わば日本の言論空間に存在する「古いフレームワーク」であり、私はそれを勝手に「朝日・岩波史観」と呼んでいます。
これは大内兵衛や丸山眞男等を支柱に理論的に体系化された実体はあるものの、そこから膨張した日本全体を覆う「空気」のようなもの、さらに言えば戦後日本人のエートスのようなものだと感じています。
端的に申せば、学校の教科書も、マスコミの論調も、司法試験の正答基準も、公務員の採用基準もすべて朝日・岩波史観が示す内容の範囲の中で作られているのではないかと感じております。そこに左右の揺れはあるものの、それはあくまで朝日・岩波史観の掌の上に限るという暗黙の条件が課せられ、それを逸脱することは許されないという「目に見えない」規定のようなものがあるように思います。
従って、極端なことを申せば学壇も法曹も論壇も政治もそして国民世論も朝日・岩波史観の支配下にあるのでは、と見ています。そして更に憂慮すべきはそれらは朝・岩史観の独占的かつ独裁的な支配下にあるということです。
それに対置されるのが所謂、自由主義史観ですが、私が感じる限りでは、いまだ世間では「とんでも」扱いされているようです。
失礼ながら、倉西先生のお立場は学壇の中でも異色のものだと思います。もちろん近年になって倉西先生のお立場に近い学者の先生方が次第に輩出なされていることは知っております。しかし、学壇の中では、いまだ主流ではなく、先の長谷部恭男教授らの憲法学者の国会での参考人意見陳述の結果が如実に物語っていると思います。
今、心ならずも触れてしまいましたが、学壇の中での朝日・岩波史観の支配はこれほど強いものであり、これが国民世論の改憲への方向性を阻害している一因でもあるとも思います。
愚考するに学問の世界で朝日・岩波史観は、ア・プリオリのものであり先験的かつ根本的な価値観のようなものです。それはヴェルトフライハイトの立場からすればまことに珍妙なものなのですが、それが厳然と横たわっていることは動かしがたい事実だと思います。
私は改憲への道筋をつけるには、多くの複数によるアプローチが必要だと思いますが、この日本全体を覆う「空気」のような朝日・岩波史観の止揚(あえて脱却とは申しません。かくいう私も、かつてはその信奉者だったからです)が、これらのアプローチの一つとして求められているのではないかと思います。
かつてルソーが『学問芸術論』を執筆した経緯のように、人間の本性として、まず結論ありき、言い換えれば自らの先験的なバイアスに従って論を組み立てるプロセスは遍在的なものだと思います。
その先験的なバイアスが朝日・岩波史観であり、それに基づいた改憲阻止の論説だと思います。
先生がご指摘のように改憲の主眼は九条だけではありません。まさに現行日本国憲法が抱えている国制の在り方と現実社会との乖離から生まれる歪みの是正が改憲の本題です。
過去の自民党憲法草案の内容が余りにもお粗末だったとはいえ、もしそれが可能なら憲法全体の見直しが求められていると私は感じます。
それの前提として朝日・岩波史観の「止揚」が必要だと私は思っております。
お休みのところお騒がせして申し訳ありません
返信する
オカブさま (kuranishi masako)
2017-08-20 14:40:50
 ご返事をいただきまして、ありがとうございました。

 現時点での憲法改正に関する世論調査では、改憲に対する慎重論が強いようです。しかしながら、数年前の調査では、改憲賛成が反対を上回っておりましたので、”朝日・岩波史観”一辺倒ではないように思えます。否、慰安婦記事の撤退は朝日新聞社にとりましては致命的であり、表面に見える変化以上に、根底部分から”朝日・岩波史観”は崩壊しつつあるのかもしれません。むしろ、崩壊寸前の状況に対する自覚があるからこそ、中国の共産党一党独裁体制と同様に、”締め付け”を強める懸念もあり、日本国民は、心して警戒しなければならないと思います。

 確かに、オカブさまのおしゃる通り、自民党の憲法草案では国民投票にかけても賛成多数を得る見込みは薄く、無理があるようです。将来に向けた”国造り”の視点からしますと、退行現象と言っても良い条文も見受けられます。日本国民が憲法改正によって日本国という国がより良くなったと実感できる改正が望ましく、現行の日本国憲法に内在する様々な欠陥についても是正される必要がありましょう。なお、朝日・岩波史観の「止揚」が必要とおっしゃられておられますが、私は、矛盾し合うものは常に上部に向けて「止揚」するわけではなく、下部に転落する場合もあると考えております。また、ダメなものはダメな場合もあり、無理な「止揚」は、後に破綻を来す可能性もなきにしもあらずです。過去の思想に学びつつも固執することなく、でき得る限り善性が活かされ、諸価値が調和され得る統治・統合の制度を考案してゆこことこそ、今を生きる人類の課題ではないかと思うのです。
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Unknown (北極熊)
2017-08-21 12:42:20
1940年代は、ドイツと日本以外で唯一十分な戦力を備える事が出来たのはアメリカだけでした。アメリカがノルマンディー上陸によりドイツを破り、原爆投下により日本を終戦に追いやった。 この時点でアメリカの一人勝ちです。日本国憲法の前文と9条は、諸国民の信義と公正に信頼して、日本は戦争を放棄するというたてつけですが、強いアメリカ、占領国アメリカを信頼しないわけにも行かず、実際、信頼に足る存在だったので、9条は当面の間は問題ではなかったのです。しかし、その後のソ連や現在の中国、北朝鮮という信頼に足らない国家が存在する場合には、日本国憲法の平和主義など何の意味もなさないという事を皆が自覚すべきですが、、、9条主義は既に宗教になってしまっていますからねえ。 
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北極熊さま (kuranishi masako)
2017-08-21 12:52:39
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。

 事実に照らして冷静になって考えて見れば、憲法第9条の条文が日本国を守るはずもないことは容易わかることなのですが、確かに、”九条信者”や”九条教”という言葉が定着しているように、宗教化してしまったことが、最大の原因であるのかもしれません。九条改正=信仰の否定となり、自己の信念をかけた”闘い”となってしまうからです。こうした洗脳を僅かなりとも説くためには、事実を淡々と説明してゆくしかないのかもしれません。もっとも、若い世代ほど洗脳率は低いように思えますので、常識に回帰する日は近いかもしれません。
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