誰もが、近い将来、自動車の運転が自動化される時代が到来するものと信じています。それもそのはず、メディアでは世界レベルで繰り広げられる自動車メーカーやIT大手等による熾烈な開発競争を連日のように報じ、各社の自動運転テクノロジー開発の進捗状況を報じているからです。政府レベルでも、実用化に向けたスケジュールを自国の経済白書等に書き込んでいる国も少なくありません。
かくして、自動運転時代は既定路線と化した観があるのですが、それでも、疑問が全くないわけではありません。自動運転テクノロジーについては詳しい知識があるわけではありませんので、見当違いの疑問を呈しているのかもしれないのですが、自動運転には以下のような問題点があるように思えます。しかも、自動運転の実現が個別企業の問題ではなく、交通システム全体の問題であるとしますと、疑問はさらに深まります。
第一の問題点は、‘自由運転’と‘自動運転’との併存は可能なのか、という点です。この点については、過去の記事で指摘したところなのですが、世の中には、自らでハンドルと握って、どこにでも自由に車を走らせたい人もいます。自動車の操縦そのものが楽しいのであって、自動車は単なる移動手段として割り切ることができないのです。仮に、両者の併存を目指すならば、技術的ハードルは格段に上がるように思えます。道路上を走行する全ての車体をコントロールできないとなりますと、予測不可能性から事故が多発しかねないからです。
第二に上げられる点は、自動車メーカーやIT大手によって開発されて自動運転テクノロジーの整合性、あるいは、互換性の問題です。仮に、各社が個別に自動運転技術の実用化に成功した場合、複数のメーカーの自動車が一斉に道路を走行するわけですから、他の自動車の行く先や走行ルート等に関する情報を共有しなければ、スムースで安全な交通が実現しないはずです。また、各社のテクノロジーの違いに起因して事故が発生する場合には、その責任の所在も曖昧となりましょう。
第三の問題点は、第一と第二の問題を解決するために自動運転のシステム化を図った場合、どの企業が開発したシステムを導入するのかめぐり、難しい問題が生じます。時空の有限性による制約が強く、かつ、公共性の高い分野では、異なるシステムの併存は困難であり、また、自然独占に至るまで放置するわけにもいきません。いわば、開発企業は、道路交通システムというインフラ抑えることとなりますので、一種の私的独占も生じます。
第四点として挙げられるのは、国家レベルで導入システムを決定した場合、国毎にシステム上の違いが生じる点です。今日でも左ハンドルと右ハンドルの国が併存するために、自動車の輸出に際しては輸出先に合わせて仕様を変える必要がありますが、自動運転システムともなりますと、関税以上に高く聳える貿易障壁となる可能性もあります。
以上に主要な問題点を挙げてきましたが、自動運転システムの実現には、様々な問題が横たわっているように思えます。人類にとりまして自動運転の実現は望ましいのか、という根本的な問題はここでは論じないものの、少なくとも、仮に自動運転を未来の交通システムとするならば、個別の企業に開発を任せるよりも、一国、あるいは、国際社会において政府が主導する共同開発形式の方が適しているのかもしれません。
今日、日産、仏ルノー、三菱自動車の三社が連合を組み、さらには、FCAがルノーに統合を呼びかけているように、自動車業界では、自動運転開発に要する費用が莫大に上るため、国際協力や大型合併が進んでいます。このため、企業独立性や個性、さらには自動車の多様性も失われつつありますが、基本となるべきシステムが共通化されていれば、自動車市場の寡占化を防ぐこともできます。また、企業としても、自社システムが採用されなかった場合の経費の無駄を省くこともできます。今年のG20は日本国が開催国となりますが、こうした国際会議において提案を試みるのも一案のように思えるのです。
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かくして、自動運転時代は既定路線と化した観があるのですが、それでも、疑問が全くないわけではありません。自動運転テクノロジーについては詳しい知識があるわけではありませんので、見当違いの疑問を呈しているのかもしれないのですが、自動運転には以下のような問題点があるように思えます。しかも、自動運転の実現が個別企業の問題ではなく、交通システム全体の問題であるとしますと、疑問はさらに深まります。
第一の問題点は、‘自由運転’と‘自動運転’との併存は可能なのか、という点です。この点については、過去の記事で指摘したところなのですが、世の中には、自らでハンドルと握って、どこにでも自由に車を走らせたい人もいます。自動車の操縦そのものが楽しいのであって、自動車は単なる移動手段として割り切ることができないのです。仮に、両者の併存を目指すならば、技術的ハードルは格段に上がるように思えます。道路上を走行する全ての車体をコントロールできないとなりますと、予測不可能性から事故が多発しかねないからです。
第二に上げられる点は、自動車メーカーやIT大手によって開発されて自動運転テクノロジーの整合性、あるいは、互換性の問題です。仮に、各社が個別に自動運転技術の実用化に成功した場合、複数のメーカーの自動車が一斉に道路を走行するわけですから、他の自動車の行く先や走行ルート等に関する情報を共有しなければ、スムースで安全な交通が実現しないはずです。また、各社のテクノロジーの違いに起因して事故が発生する場合には、その責任の所在も曖昧となりましょう。
第三の問題点は、第一と第二の問題を解決するために自動運転のシステム化を図った場合、どの企業が開発したシステムを導入するのかめぐり、難しい問題が生じます。時空の有限性による制約が強く、かつ、公共性の高い分野では、異なるシステムの併存は困難であり、また、自然独占に至るまで放置するわけにもいきません。いわば、開発企業は、道路交通システムというインフラ抑えることとなりますので、一種の私的独占も生じます。
第四点として挙げられるのは、国家レベルで導入システムを決定した場合、国毎にシステム上の違いが生じる点です。今日でも左ハンドルと右ハンドルの国が併存するために、自動車の輸出に際しては輸出先に合わせて仕様を変える必要がありますが、自動運転システムともなりますと、関税以上に高く聳える貿易障壁となる可能性もあります。
以上に主要な問題点を挙げてきましたが、自動運転システムの実現には、様々な問題が横たわっているように思えます。人類にとりまして自動運転の実現は望ましいのか、という根本的な問題はここでは論じないものの、少なくとも、仮に自動運転を未来の交通システムとするならば、個別の企業に開発を任せるよりも、一国、あるいは、国際社会において政府が主導する共同開発形式の方が適しているのかもしれません。
今日、日産、仏ルノー、三菱自動車の三社が連合を組み、さらには、FCAがルノーに統合を呼びかけているように、自動車業界では、自動運転開発に要する費用が莫大に上るため、国際協力や大型合併が進んでいます。このため、企業独立性や個性、さらには自動車の多様性も失われつつありますが、基本となるべきシステムが共通化されていれば、自動車市場の寡占化を防ぐこともできます。また、企業としても、自社システムが採用されなかった場合の経費の無駄を省くこともできます。今年のG20は日本国が開催国となりますが、こうした国際会議において提案を試みるのも一案のように思えるのです。
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近頃、高齢者による「アクセル踏み間違い事故」が多発していますが、これに対してもその方はは『老人はマニュアル車に乗るようにすれば、暴走事故は起こらない』と言っています。『操作が難しいものに乗ればイイのだ』と。
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確かにマニュアル車なら、ブレーキを踏むときはクラッチもほぼ同時に操作しますから、踏み間違えても「空ふかし」になるだけで、暴走はしません。サイドブレーキも手で操作するタイプになるので、これなら助手席からも操作可能でしょう。坂道発進の失敗等で細かい事故は増えるかもしれませんが、いま起こっているような重大事故は減ることでしょう。
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世間では、もっぱら「プリウスの構造に問題がある」という説が広まっており暴走事故のことを「プリウスアタック」と言うそうです。何でも「タイヤハウスの出っ張りが大きいので、普通のクルマよりアクセルペダルの位置が左寄りになっている」のだとか。
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クルマの構造に関わらずオートマ車での「踏み間違い」は重大事故につながりかねません。空間把握の認識能力が衰えれば事故予備軍です。フスマの角で足の小指をシタタカに打って「うううう・・・」とタビタビ唸るようになったら免許証返納を考えなければイケませんね(笑)。免許って本来は「危険なものを扱う許可」なのですから、常に「危険と隣り合わせ」を認識するべきです。
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ところで私はそもそも「人間は自らが主体的に行動しなければダメだ」という意見を持っています。
よって自動運転は反対です(限界集落での老人のための交通手段として使う場合のみ例外として認めます)。
詳しくは(↓)こちらを。
https://blog.goo.ne.jp/mobilis-in-mobili/e/689cd3e808eb1612c309c7d01d3ffd60
自動運転ステムにつきましては、本記事でも指摘いたしましたように、まだまだ高いハードルが立ちはだかっているように思えます。また、自由の価値に照らしまして、自動運転システムが人類にとりまして望ましいのかも、十分に議論が尽くされてもいにようです。なお、アーサー・クラーク氏のSF小説には、今日の問題を示唆する何らかのメッセージが込められているのではないかと考えております。