世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
ローマ法王「他の宗教尊重を」=アジア歴訪の機中で―仏風刺紙事件(時事通信) - goo ニュース
フランスで起きたテロ事件に関連し、ローマ法王は、神の名による殺人を非難した上で、他の宗教を尊重するように諭したと報じられております。テロリストと風刺漫画の両者に対して苦言を呈されたことになります。
一般論としては、他者の宗教を尊重することは倫理的な規範なのですが、その一方で、懸念すべき側面もあります。何故ならば、”侮蔑”や”嘲笑”を招いてしまう宗教が、現実には存在するからです。イスラム過激派が支配する地域では奴隷制度が復活し、幼い女の子も、脅しによって自爆テロの実行を強要されています。正気の沙汰とは思えない蛮行や犯罪が、神の名の下で許されているのですから、侮蔑されるのは当然のことでもあります。また、カルトの中には、一般の人々から見れば、笑いが漏れてしまうような行動も見られます。空中浮遊を目指して修行したり、極彩色や白のユニフォームを着て歌い踊るオウム真理教徒の姿は、本人達は大真面目なのですが、他の人々からは滑稽にしか見えないことでしょう。テロを怖れてこうした邪教やカルトを容認しますと、その結果は、教団による狂信ゆえのより大規模なテロ事件や、国家、さらには、世界支配の野望への邁進かもしれません。地下鉄サリン事件が発生した際にも、当局が宗教弾圧の非難を怖れて、カルト教団への対応が後手後手であったとも指摘されていました。
全ての宗教が善良でも平和主義でもなく、悪魔崇拝といった反倫理を教義とする宗教や、他者に対して攻撃的であったり、非人道的な行為を容認する宗教もあります。表現の自由に一定の限度があるように(捏造の流布など…)、宗教にも一定の限度があるのではないでしょうか。混沌という名の現代の闇を払うには、何事においても、知力を尽くして正邪や善悪の識別に努めるべきと思うのです。
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米紙、風刺画掲載めぐり対応割れる 米政府は被害考慮も「表現の自由」強調(産経新聞) - goo ニュース
凄惨なテロ事件後に初めての刊行となったシャルリー・エブド社の最新号。抗議デモのスローガンともなった”私はシャルリー”という言葉は、コーランの一節のみならず、イスラム過激派の銃撃で瀕死の重傷を負いながらノーベル平和賞を受賞したユスフザイ・マララさんの著書、『私はマララ』をも掛けているように思えます。
ところで、この事件に関しては、表現の自由か、あるいは、宗教に対する冒涜なのか、という問題が持ち上がり、同社の風刺画の転載に関しては、各国のメディアの対応も分かれていると報じられています。しかしながら、風刺というものが、古来、必ずしも冒涜を目的とした表現手段ではないことは、多くの人々が認めるところです(日本国では、狂歌は古代からある…)。風刺は、ストレートにはなかなか言い難い事や深刻な社会問題などを、笑いを誘うことで読者に意識させるのです。一見は、品のない侮辱や誹謗中傷にも見えますし、読者が不快になって眉を顰めることも多いのですが、その実、極めて高度な知的な表現手段の一つです。そして、風刺によって、普段は何も感じない人でさえ、少しばかり別の角度から物事を眺めてみる機会を得るのです。如何なる人にとっても、狂信的な思い込みは危険ですし、正義の裏には邪心が潜んでいるかもしれませんし、権威といえども警戒すべき偽物もあるかもしれません。こうした人生のリスクや人が陥りやすい誤りを、風刺は人々に上手に警告するのです。いわば、風刺とは、毒でもあり薬でもあるのです。
このように考えますと、この問題は、表現の自由対宗教的冒涜ではなく、風刺に対する寛容か、非寛容か、の対立にも思えます。ニューヨーク・タイムズなどが掲載を自粛しているのも、あらゆる批判に対して非寛容な中国の影を感じます。風刺さえも許されない社会とは、何とも息苦しい社会であることは言うまでもありません。”冒涜”を表現の自由を制限する根拠として認めますと、イスラム教に留まらず、あらゆる人種、民族、性別、世代、職業…に際限なく対象が広がることでしょう。しばしば弾圧を受けることもあった風刺という表現の自由こそ、如何なる暴力や圧力に屈することなく、護られるべきではないかと思うのです。
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イスラム過激派によるテロが発生したフランスでは、表現や言論の自由を守るための闘いが続いております。一方、ヘイトスピーチ問題が議論されている日本国では、言論や表現の自由に対する制約の恐れがあるにも拘わらず、マスコミの論調は法規制賛成に偏っているようです。
ところで、ヘイトスピーチに対して法規制の必要性を訴える人々は、口を揃えるかのように、特定の民族、即ち、在日韓国・朝鮮人に対する差別や迫害を助長すると訴えています。関東大震災において発生した自警団による朝鮮人殺害事件をも持ち出し、ヘイトスピーチがこうした事件を誘発すると警戒しているのです。最近の調査・研究によりますと、関東大震災の乗じて朝鮮人による暴動や犯罪が発生していたそうですので、震災時の事件にも理由があるのですが、そもそも、こうした事件が発生しないように未然に防ぐためにも、問題点を明らかにし、徹底的に議論した上で対策を講じる必要があります。関東大震災当時ならずとも、現在でも、通名の使用、犯罪率の高さ、高い生活保護受給率、政・官・財・司法への影響力の拡大、マスコミ支配…など、一般の日本国民が、在日韓国・朝鮮人に対して不満を抱き、警戒するれっきとした理由があります。言葉とは、暴力なき解決の手段であり、その言葉をも、暴力と同列と見なして禁止しますと、議論さえ封じられるのですから解決のしようもありません。刑法が禁じる殺人を教唆するのような発言は慎むべきでしょうが、それ以外の事実に基づく正当な批判については、言論の自由こそ尊重されるべきであり、一般の政治課題の一つとして扱うべきなのです。
”言葉の暴力”という表現は、しばしば言論を封じるために利用されますが、”ペンは剣より強し”は、暴力に優る言葉の力を示しております。戦後、日本人虐殺や土地の不法占拠など、在日韓国・朝鮮人による暴力が後を絶たず、民潭や朝鮮総連が、暴力・脅迫組織として活動してきたことを考慮しますと、ヘイトスピーチとして言論を封じることは、一般の日本国民から、暴力に立ち向かう術をも奪うことになるのではないでしょうか。
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銃撃の政治紙、預言者の風刺画全面に…反発必至(読売新聞) - goo ニュース
イスラム過激派のテロリストによる凄惨な銃撃事件が起きたことで、昨日フランスは、350万人もの人々が抗議デモに参加したそうです。表現の自由に対する暴力は許さない、と…。
こうした中、銃撃を受けたシャルリー・エブド社は、最新号においてもイスラム教の預言者ムハンマドを描いた風刺漫画を登場させたと報じられております。日本国内では、イスラム教徒の反発は必至、との見方も示されておりますが、同社にとりましては、ムハンマドを描かない、という選択肢はなかったのではないかと思うのです。何故ならば、ムハンマドを風刺画として描くことを止めることは、テロという暴力に屈したことを意味するからです。仮に、雑誌からムハンマドが消えるとすれば、デモに参加した350万人のみならず、イスラム過激派の暴力主義を批判する全ての人々から失望を買うことでしょう。一面のマホメットは、涙を流しながら”私はシャルリー”と述べ、そのバックには、”すべては許される”との見出しが書かれているそうです。ムハンマドのセリフは、「他者を殺害することもなく、悪事を働くこともない人間を殺害する者は誰でも、全ての人を殺害したのと同じになる…(5.32)」と述べたコーランの一節を引いているのでしょうし、見出しの一句は、表現に対する寛容の精神を説いているとも、あるいは、罪を犯した者に対する許しの心を示しているとも解されます。
日本国のマスコミは、諸外国に対して”事なかれ主義”から兎角に配慮しがちですが、暴力や脅迫に自由が屈する時、それは、恐怖による支配が忍び寄る時でもあります。ムハンマドを描いたシェルリー・デブト社は、”ひれ伏すよりも立って死ぬ”と語った故ステファヌ・シャルボニエの意思を毅然として貫くとともに、掲載された風刺画には、挑発というよりも、どこかに、頑迷なイスラム教徒をも包容するような優しさがあるように思えてならないのです。
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今年は、第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるため、戦争に関する歴史にも関心が高まっております。本日は、共産主義者等から歴史修正主義との批判を受けることを覚悟の上で、若干、満州事変に関して日本国を弁護してみたいと思います。
満州事変とは、中国等の歴史認識によりますと日本国の軍国主義による侵略戦争のはじまりと解されており、国際聯盟総会が採択した勧告案の受け入れを拒否したことにおいて、日本国が連盟を脱退し、国際社会から孤立する契機ともなりました。連盟の決定によれば、日本国を後ろ盾とした満州国の建国は不当であり、自治を認めつつも、満州の地を中華民国の主権のもとに置くべきとするものでした。しかしながら、この問題、法律問題として割り切れない部分があります。特に、辛亥革命によって清国の支配民族であった満州族は国を失ったわけですので、故地である満州に対して権利や権原を主張できる立場にありました。歴史的には、満州は、漢民族による支配が及んだことがなく、広大な荒蕪地が広がり、馬賊が跋扈する無法の地であったからです。この土地に関する優先的な決定権を持つ民族があるとしますと、それは満州族に他なりません。ですから、満州国の建国については、第一義的に満州族の決定が優先されるべきではなかったのか、と思うのです。事変後の1932年、満州族の長である溥儀は関東軍の提案を受け入れ、熱望していた清朝の復辟を条件に満州国元首就任を承諾し、その後、皇帝に即位します。リットン調査団の結論は、満州国建国は、満州族の自発的な民族自決運動の結果ではなかったとしておりますが、自力での独立が難しい場合もありますし、事後的であれ、満州族が自らの国家を持つに至ったことは、全面的に否定されるべきことでもないのではないように思えるのです。
実のところ、第二次世界大戦の敗戦によって、日本国は連合国から断罪されることになりましたが、弁解の一言も許されず、当時の政治状況を敗戦国の立場から説明することができないとしますと、これもまた、歴史に対する見方が偏っているのではないでしょうか。そして、ステレオ・タイプの歴史観は、第二次世界大戦の人類史における真の意義をも見失わせるのではないかと思うのです。
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仏からの移住歓迎=欧州の「反ユダヤ」受け呼び掛け―イスラエル首相(時事通信) - goo ニュース
フランスで起きた忌まわしいテロ事件は、フランス国内の民族・宗教・思想グループに微妙な変化をもたらしているようです。イスラム過激派の犯行であったため、反イスラムの世論が強まるのみならず、ユダヤ人もまた、危機感を抱き、イスラエルへの移住が増加しているというのです。
今回の事件で、イスラム過激派のテロリスト達は、人質を取るに当たって敢えてユダヤ人を選んだ理由は、犠牲になられた風刺画家のステファン・シャルボニエ氏がユダヤ人であったのかは分からないのですが、おそらく、一般のフランス人に対して直接に危害を加えることを躊躇したからではないかと憶測されます。仮に、ユダヤ人経営の人商店ではなく、一般のフランス人経営の商店であったならば、今以上にフランス人、あるいは、キリスト教徒対イスラム教徒との対立が激化したことでしょう。この事件は、もう一つの移民の問題点として、移民の増加が、国外の対立を国内にもたらすという側面を示しています。中東におけるユダヤ対イスラムの対立は、双方の住民が多数居住するヨーロッパにおいても、深刻な社会的な亀裂として表面化するのです。歴史的には、反ユダヤ主義の流れはあったものの、一般のフランス人にとりましては、自らとは直接に関係のない対立にも巻き込まれることになるのです。
こうした国外対立の国内対立化は、フランスに限られた現象ではなく、例えば、日本国内でも謎多き事件の背景には、朝鮮半島における南北両国の対立があるとも指摘されております。移民政策は、経済的な側面ばかりが強調され、肯定的な見解も見受けられますが、政治的、並びに、社会的なリスクを無視してはならないと思うのです。
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朝日新聞社による吉田証言の否定に対する反応として、慰安婦問題は、日韓の二国間の問題ではなく、人権侵害に関わる普遍的な問題であるとする韓国側に沿った主張があります。その一方で、慰安婦問題において批判的な人々も、朝日新聞社は、普遍化を試みることで問題をすり替えていると反論しております。
ところで、この一連の応酬において思うことは、そもそも、朝日新聞社による慰安婦問題の普遍的人権問題化は、自社記事を否定した今に始まることではなく、1980年代の吉田証言の報道こそ、その出発点であったのではないか、ということです。それ以前には、慰安婦問題とは、元慰安婦達の戦後の預貯金や給与の未払い問題とされており、日韓基本関係条約締結時の請求権問題に関する交渉においても、政府間で議題となったのは、商業的な対価に関する補償問題でした。ところが、朝日新聞社が、済州島における日本軍による朝鮮女性達の”強制連行”を事実として大々的に報じたことで、慰安婦問題は、日本国による非人道的な行為とするイメージに塗り替えられたのです。昨日の記事でも触れましたように、スマラン事件のように占領地における軍規違反や女性に対する犯罪はあり、確かに人権侵害事件であるかといえばそうなのですが、個別の戦争犯罪ではなく、日本国による組織的な国家犯罪として糾弾されるようになったのは、朝日新聞の報道に始まるのです。東京裁判や講和条約とは関係なく、人道に反する罪は、未来永劫に糾弾されるべきと言わんばかりに…。
このように考えますと、朝日新聞社による吉田証言の否定は、大規模な国家犯罪としての慰安婦問題の普遍的人権問題化の終焉を意味するとも言えるのではないでしょうか。
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最近、慰安婦問題は、”普遍的な人権問題であるから、軽々しく見直すべきではない”といった論調が散見されるようになりました。慰安婦問題を見直せば、日本国は、国際社会から非人道的な国家と見なされると言わんばかりです。
しかしながら、この論理hは、歪んでいるのではないでしょうか。一方、慰安婦問題が普遍的な人権問題であるからこそ、日本国の名誉回復を願う国民の多くは、必死になって事実の解明を求めています。前者の見解では、慰安婦問題の実像を究明する作業自体を”非人道的な行為”と見なして否定しますので、韓国等の主張するままに”非人道的行為”が史実として定着してしまいます。前者の見解に素直に従えば、日本国は、名誉回復の機会を封じられ、日本国=非人道的な国家という構図が、国際的に固定化されてしまうのです。つまり、”過去の非人道的な行為”の存在を無批判に認めることをもって”現在の人道的な国家”とするわけですから、”日本国は、非人道的国家であった”とする結論が導かれるのです。実態の解明が不可能となれば、日本軍による20万人強制連行説も、人食いをも含む慰安婦殺害説も、反証のしようがありません(法廷に立つ如何なる人も自己弁護の権利があり、反論を封じることは、人の道に外れるのでは…)。一方、後者の立場は、”過去の非人道的行為”の存在自体に厳密な検証を加えることで、”過去の非人道的行為”の詳細を明らかにするというものです。事業者による違法な慰安婦勧誘や将兵による軍規違反の行為は若干あり、それは、確かに犯罪という名の人権侵害でした。しかしながら、虚偽やフィクションに立脚した20万人強制連行説や慰安婦虐殺説と比較しますと、人権侵害の程度には雲泥の差があります(少なくとも、20世紀最大の人権侵害事件の一つとは言えない…)。”現在の人道的国家”のイメージを守るために、”過去の非人道的国家”のイメージを認めるよりも、”過去の非人道的国家”のイメージを史実に即して正し、非人道性のレベルを実態に合わせて下げた方が日本国の名誉は回復されます。つまり、後者の論理では、史実以上の非人道性を結論付けることはできないのです。
歴史に対する不誠実さを薦める前者の見解は一種の詭弁であり、論理的にも倫理的にも誤りを含んでいるのではないでしょうか。
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「ひれ伏すより立って死ぬ」=過激主義との対決貫く―仏銃撃事件で殺害の風刺画家(時事通信) - goo ニュース
フランスで発生した痛ましいテロ事件は、イスラム過激主義の狂気を国際社会に見せつけることになりました。日頃より、「ひれ伏すよりも立って死ぬ」と語り、あくまでも脅迫に屈することなく凶弾に倒れた風刺漫画家、ステファヌ・シャルボニエ氏をはじめ、犠牲にならてた方々に対し、心より哀悼の意を表したいと思います。
この凄惨な事件は、多文化共生主義、あるいは、文化的寛容の限界を問う事件でもありました(もっとも、フランスは、他の諸国と比較すれば、公立学校でのスカーフの着用を禁じるなど、自国の文化への同化を求めてきた国でもある…)。文化的寛容に関する問題点の一つは、言論や表現の自由と齟齬をきたす可能性があることです。エスプリや風刺はフランス文化の伝統であり、これまでも、アンドレ・ジレなど、名だたる風刺漫画化を輩出してきました。幕末に来日し、明治期に活躍したフランス人風刺画家のジョルジュ・ビゴー氏の作品も、鹿鳴館の図で知られるように、かなり辛辣なのではありますが、ペンを以って近代化へと向かう時代の一面を一枚の絵に描き出しています(なお、ビゴー氏は、日本国において襲撃を受けたという話は聞かない…)。また、フランスの啓蒙思想に発する批判精神はあらゆる分野に及んでおり、宗教もまた例外ではありません(シャルボニエ氏は無神論者であったとも…)。フランスでは、信仰の対象たる宗教であれ、何らかの問題点や欠陥が認識されると、容赦なく批判されるのです。言論の自由とは、批判を通した改善への道を保障する価値ですので、とりわけ尊重されているのです。ところが、仮に、多文化共生主義が言論の自由に優先されるとしますと、もはや他の文化集団に対する批判は許されなくなります。すなわちそれは、フランスが、自国の伝統的な文化を失うことを意味するのです。オランド大統領は、国民向けのテレビ演説を通して、今回の事件は「フランス共和国全体が標的にされたのだ」と語ったと報じられております。
「ザ・インタヴュー」の公開に際して北朝鮮からテロ予告を受けたように、暴力を手段とする攻撃的な思想集団がもたらす脅威は、フランスに限られたことではありません。多文化共生主義、あるいは、無条件の文化的寛容こそが文化的な危機を招くというパラドクスに、多くの人々が気が付くべきではないかと思うのです。
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韓国高官発言を歓迎=菅官房長官(時事通信) - goo ニュース
報道によりますと、菅官房長官は、今後の日韓関係の基本方針について述べた朱鉄基外交安保首席秘書官の発言に歓迎の意を示したそうです。「わが国は従来、慰安婦問題は政治問題、外交問題にしないと言ってきたので歓迎したい」と…。
韓国高官の発言とは、”歴史認識問題と安全保障問題とを区別し、日韓関係の改善に努めたい”とするものです。菅官房長官は、歴史認識問題=慰安婦問題と解釈し、今後は、韓国側から慰安婦問題について何らかの要求を受けることも、国際プロパガンダを展開することもない、と理解されたようです。しかしながら、韓国は、日本側の期待通り、慰安婦問題を諦めたのでしょうか。今年は、第二次世界大戦の終結から70年と言うこともあり、今年こそ絶好のチャンスとばかりに、中国は韓国との歴史認識問題で共闘する姿勢を示しています。歴史認識問題を紐帯として”中韓連合”が既に形成されているのですが、この連携は、果たして解消されるのでしょうか。仮に、韓国が、歴史認識問題の活動は継続しつつ、北朝鮮を想定した安保面のみ、日本国に対して協力を求めるとなりますと、これは”虫のよいお話”となります。また、日韓の間には、慰安婦問題のみならず、竹島問題や反日教育などもありますので、円滑に関係改善が進むとも思えません。
もし、韓国が、慰安婦問題を諦めたとしますと、それは、日韓関係の悪化が原因なのではなく、あるいは、河野談話の作成経緯の検証や朝日新聞社の自社記事否定をはじめ、昨今判明してきた事実によって、韓国の”歴史認識”が否定されたからなのかもしれません。韓国が本当に慰安婦問題を諦めたのか、もうしばらく、様子を見てゆく必要がありそうです。
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「謝罪は重要な1章」=米国務省、新談話で指摘(時事通信) - goo ニュース
安倍首相が終戦の日に予定しているとされる戦後70年談話について、アメリカ国務省のサキ報道官は、村山談話と河野談話を挙げて”謝罪は重要な1章”と述べたと報じらております。原文では、日本国政府に対して両談話を踏襲せよ、といった強い表現ではないのですが、新談話をめぐっては、日米中韓関係はさらに混迷を深める気配がします。
日本国内では、アメリカによる内政干渉とする批判の声が上がりましたが、サキ報道官の発言は記者の質問に対する回答であり、事前に国務省として準備されていたのかどうかは不明です。しかしながら、日米関係に良い影響を与えるとは考えられず、とりわけ、日本国内において不満が高まることが予想されます。その第一の理由は、両談話で示された”歴史認識”と史実との間に大きな隔たりがあるからです。少なくとも日本国民の多くは、当時のアジアの悲惨な状況を知る故に、村山談話が述べた”植民地支配と侵略”とする見解はあまりにも表層的であり、イデオロギーに染まったステレオタイプであるとみなしております。第二に、サキ報道官の発言は、中韓による講和条約や基本条約の蒸し返しを容認しております。ニュアンスとしては、”両談話で既に謝罪が示されているだから、それ以上の措置は必要ない”とも受け取れますが、講和条約や基本条約を締結した以上、過去の戦争を理由に相手国に何らかの要求をすることはご法度なはずです。日本国民が、アメリカ政府に対して都市空爆や原爆投下等の非人道的な行為に対する謝罪を求めた場合、アメリカは、その要求に応じるのでしょうか(日本国は講和した以上、謝罪を要求していない…)。第三に、両談話に触れたことは、中韓に誤ったメッセージを送ることにもなりかねません。アメリカのお墨付きを得たとして、歴史認識に関する対日攻勢を、一層強めることでしょう。中国は、南京大虐殺の国際宣伝を堂々と繰り広げるでしょうし、韓国もまた、慰安婦問題で謝罪と賠償を執拗に求め続けることでしょう。また、中国が日本国の首相の新談話による村山・河野両談話の踏襲によって満足するとも思えず、別の口実を見つけては、”中国の夢”を追求するものと予測されます。そこかしこで米中対立も表面化してるのですから、状況は、まさしくカオスと化しそうです。
今日に生きる現代人の多くは、政府の発表する談話によって歴史を理解する程には単純ではなく、70周年の談話がもたらしたカオスをあるがままの現代史として受け入れています。戦後70年を機に各国政府は発想を転換し、”歴史”については、人々の意識の変化をも考慮した新たなアプローチを追求すべきなのではないでしょうか。
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インフラ銀、NZも参加(時事通信) - goo ニュース
世界第二位の経済大国へと急激な成長を遂げた中国。その勢いをかってか、途上国のインフラ整備を資金面で支援する”インフラ銀”の設立の音頭を取り、その中心国の地位にあります。
”インフラ銀”は、中国の有り余る資金力の象徴でもあるのですが、海外のインフラ投資よりも、先にすべきことがあるのではないでしょうか。中国国内を見渡せば、PM2.5に代表される環境汚染は国民の健康を日々蝕み、有害物質や産業廃棄物などによって国土は汚染され続けています。また、近代国家の基本インフラと言うべき上下水道に関しても、全国的に完備されているとは言い難く、しばしばSARSといった伝染病の発生源となるのも、公衆衛生が行き届いていないからです。中国は、昔から諸外国に対して見栄を張る傾向にあり、何時の時代かは忘れてしまったのですが、中国が宣伝する絢爛豪華なイメージに憧れて訪問してみたところ、街には貧民が溢れているのを目にしていたく失望したという逸話があります。”近い将来、環境悪化によって人が住めなくなる”とする指摘があるのですから、中国が、何にも増して優先すべきは、国内の環境改善のためのインフラ整備なのではないでしょうか。
中国は、国際社会において、巧妙に経済大国と途上国の両面を使い分け、しばしば、自らを途上国の立場に置くことで、大国としての義務や負担を回避してきました。おそらく、国際的な”インフラ銀”に資金を投じた方が、融資を受ける諸外国の政府に対して影響力を増すことができると判断しているのでしょうが、名実ともに先進国となるためには、国内インフラの整備は急務なはずです。”インフラ銀”に見られる背伸びは、やがて国民の不満を高め、中国国内を不安定化する要因となるのではないかと思うのです。
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日英首脳会談で尖閣「棚上げ」…英に公文書記録(読売新聞) - goo ニュース
お正月の三が日も過ぎ、本日より、ブログ記事掲載を始めたいと思います。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
今年最初の記事は、昨年末より報道されるようになった尖閣諸島に関するイギリスの公文書記録をテーマとすることといたします。機密解除された公文書によりますと、1982年に鈴木善幸首相がサッチャー首相と会談した際に、「中国との間で現状を維持することで合意し、問題は実質的に棚上げされたとサッチャー首相に伝えた」そうです。1982年と言えば、まさしくフォークランド紛争が闘われた年であり、この文脈から両首脳の会話に上ったものと憶測されます。日本側からこの件を持ち出したとは考え難く、おそらく、サッチャー首相が中国が領有権を主張している尖閣諸島に対して関心を抱き、鈴木首相に現状を尋ねたのでしょう。そこで、鈴木首相は、このように応えたらしいのですが、引用符が付いていないため、鈴木首相の発言そのものの表現は分からず、首相が、何を以って”棚上げ”と認識したのかは不明です。田中・周会談、あるいは、小平氏の発言を想起して、”日本国からこの問題で動くことはなく、中国も軍事行動をとることはない”とする説明であった可能があります。少なくとも、日本国政府の外交文書には棚上げ合意は存在せず、この発言は、鈴木首相の個人的な認識であったのかもしれません。また、たとえ棚上げに言及していたとしても、それは、中国に対して尖閣諸島の領有権の正当性を認めたことと同義でもありません。棚上げ=領土問題ではないのです。
実のところ、中国が自らの不当な尖閣諸島に対する領有権主張を諦めるまでは、この問題は、完全には解決しません。たとえ日本国が実効支配を維持しても、常に軍事的な脅威に晒されるからです。また逆に、中国が、仮に尖閣諸島を侵略して占領したとしても、日本国政府は、侵略行為を非難し、領土返還を求めることでしょう。フォークランド紛争でさえ、戦勝国となったイギリスは領有権を確定させることができず、未だに未解決の領土問題とされています。双方が相手国の法的根拠を認め合っているフォークランド紛争の場合には、領土交渉による合意によって解決する道がありますが、尖閣諸島の如く、一方の国が相手国の法的根拠を認めていない場合、国際法上において明確、かつ、最終的に領有権を確立する方法は(他国からの領土要求を確実に排除する方法…)、ICJにおける司法解決をおいて他にないのではないかと思うのです。
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