世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
グローバリズムの勝者として真っ先にその名が挙がるのは、GAFAといった米IT企業大手です。その一方で、グローバリズムの隠れた勝者が共産党一党独裁体制中国であることは、誰もが認識するところでもあります。言い換えますと、人類の理想郷として喧伝されてきたグローバリズムは、あろうことか、民主主義国家ではなく、人々から自由を奪い、抑圧状態に置く全体主義国家を利しているのです。
この点について、フランスの著名な歴史学者にして人類学者であるエマニュエル・ドット氏は、‘自由貿易主義は民主主義を滅ぼす’として、自由貿易主義に内在する問題性を的確に表現しています。つまり、自由貿易主義を推進すればするほどに格差が拡大するため、民主主義とは両立しなくなると述べているのです。同氏は、理想とはかけ離れた自由貿易主義の現実を完全に無視して貿易の自由化に邁進する人々の姿を評して‘自由貿易主義は宗教に近い’とも語り、その非合理性に警鐘を鳴らしています。宗教、並びに、イデオロギーへの独善的な信仰は、得てしてその行く道の傍らに巻き添えとなった犠牲者や‘異端者たち’の累々たる屍を残すものなのですから。
そして、ドット氏が指摘した自由貿易主義、あるいは、グローバリズムと民主主義との非両立性は、政経両分野における競争メカニズムの違いからも説明し得ます。経済学における自由貿易理論にあっては、その基礎理論である比較優位説に従えば、貿易当事国間における自由な産業間、あるいは、企業間競争の結果として双方の劣位産業が淘汰され、何れの国のものであれ、競争力に優る優位産業・企業が両国の市場を独占します。自由貿易主義は、それ自体が特定の国家の産業・企業による他国市場の独占や寡占という、国際レベルでの競争政策上の問題をも含むのですが、少なくとも、政府介入を否定する立場から、当然に政府の役割は理論においては捨象されています。
ところが現実の政治の世界には、国家も政府も存在します。今日、自由貿易主義を標榜する各国政府は競うかのように自国市場を開放していますが、貿易自由化後の対応は国によって違ってきます。そして、ここに、共産主義国家が民主主義国家よりも有利となる要因を見出すことができるのです。
共産主義とは、政治と経済が一体化したイデオロギーであり、共産党、あるいは、その党員が構成員となる政府には経済を‘指導’する権限が公式に認められています。言い換えますと、かつてのソ連邦が、国民生活を犠牲にしてまで軍事面で突出した技術力を誇り得たのは、同分野に全ての持てる資源を集中的に投入し得たからです。今日の中国は、軍事のみならず、産業政策に対してもあらゆる資源をその競争力強化に注ぎ込むことができます。つまり、主戦場が軍事分野から経済分野にまで拡大したのであり、中国は、一党独裁体制であるからこそ、国家、否、習近平国家主席の主導の下で、上から強力に次世代産業における覇者となるべく産業政策を推し進め得る体制にあるのです。
その一方で、民主主義国家の多くは、自由貿易主義=政府の不介入という等式を律儀に遵守し、積極的に自国の国際競争力を強化することも、他国による政治的意図が隠された‘経済侵出’に対しても自国産業や企業を防御しようともしていません。淘汰過程が終了すれば、他国の産業や企業による独占や寡占が生じることなど意に介することなく、‘外国からの投資が増える’として嬉々として歓迎しているのです。カルトと化した自由貿易主義は、共産主義国家よりも民主主義国家においてこそ致死的な毒素をまき散らすのであり、自由貿易主義の原則さえ守っていれば、リカード流の相互利益、並びに、資源の効率的配分のメカニズムが働いて自動的に繁栄がもたらされると信じ込んでいるのです。果たして、信じる者は救われるのでしょうか。
以上に述べたように、政治領域においては、自由貿易主義が覇権を追求する全体主義国に有利性を与える現実に思い至りますと、経済・社会面における格差拡大問題に加えて、民主主義、自由、法の支配、基本権の尊重、公平・平等といった、人類の存在に関わる基本的な価値をも危機に晒していることとなります。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムの果てに民主主義国家が競争に敗れて‘淘汰’され、共産主義国家中国が全世界に君臨する時代が待っているとしますと、カルトと化した自由貿易主義、並びに、グローバリズムは再考して然るべきと思うのです。
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メルケル独首相とマクロン仏大統領が牽引役となった独仏がさらなる統合の深化を目指す中、EUレベルでは、度を越した覇権主義問題や技術力の急速な追い上げ問題から、中国に対する警戒感が高まっておりますが、加盟国レベルでは、中東欧諸国が中国との協力強化を図り始めたため、対中政策にばらつきが目立ち始めています。過去においても、イラク戦争やオセチア紛争等の域外で起きた紛争に際してEU加盟国間で対応が分かれ、EUとしての対外政策を一本化できないケースが多々ありました。しかしながら、今般の分裂は、それが長期的にはEUの政治統合や軍事分野での基本方針とも関わるだけに、看過できない危うさがあります。
従来の傾向を見ますと、中東欧諸国の基本的な対外政策のスタンスの特徴は、対ロ警戒にありました。第二次世界大戦以来、長らくソ連邦の頸木に縛られ、1989年に始まる東欧革命を機に凡そ半世紀を経て漸く独立性を取り戻したのですから、ロシアの脅威に対しては常に敏感であるのは当然のことでもあります。このため、ドイツ等の大国加盟国が自国の国益を優先してロシアに寛容な政策を打ち出そうものなら、中東欧諸国の多くは反対に回り、いわば、EUの東部にあって自由主義の砦の役割をも果たしてきたのです。二度とソ連邦の属国にして監獄の如き社会・共産主義体制には戻りたくなかったのでしょう。
ところが、今月12日、中東欧16か国は、一帯一路構想に関連して中国との間で協力の推進を確認する共同声明を採択しています。同構想に関しては、イタリアが協力を表明したことでEU発足時のメンバーの間でも対応に違いが生じていますが、今般、‘後発組’である東欧諸国がブロックとなって中国に接近したことは、EU加盟時には想定し得なかった事態でもあります。中東欧諸国にしてみれば、EUレベルのプロジェクトとして財政支援を受けるには条件等の‘縛り’が強く、資金額でも満足できるレベルにはないEUよりも、細かいことを言わずに“気前の良い”中国の方が余程魅力的に映ったのでしょう。こうした中東欧諸国の親中方向への傾斜は、G5整備の政府調達におけるファウエイに対する姿勢にも見られ、EUは今や、反中か親中かの、中国に対する態度を軸とした分断の危機に見舞われているのです。
中東欧諸国の親中政策の根底には、EUには加盟したものの、期待したほどの経済成長を遂げることができない不満があるのでしょうが(もっとも、中東欧諸国の苦境は、生産拠点としてより優位な条件下にある中国の存在が原因…)、安全保障上のリスクを考慮しますと、近い将来、予想を越える事態に頭を抱えることにもなりかねません。何故ならば、ロシアではない国であれば安全というわけではなく、中国もまた、ロシアを凌ぐ軍事的脅威となり得るからです。否、一党独裁体制を維持し、かつ、全体主義的な国民監視体制を敷いている中国の方が、余程ソ連法の体制に近いばかりか、一帯一路構想が実現すれば、ヨーロッパと中国は直結してしまいます。人民解放軍の機動性は増し、短時間でヨーロッパまで到達してしまうのです。13世紀、パドゥ率いるモンゴル軍が中東欧諸国を席巻し得たのもその騎馬隊の機動性の高さにありましたが、同軍の侵攻を受けた地域の住民が無残にも虐殺され、奴隷化された歴史は、現代において繰り返さないとは限らないのです。
ロシアに対する対抗心、並びに、経済支援を目的とした中東欧諸国の一帯一路構想への協力は、自ら危機を招き入れるようなものです。仮に中国が、これらの諸国を政治的に取り込もうとしたり、軍事的な行動に訴えた場合、EUが連帯して対抗するとは限らず、また、加盟国が凡そ重なるNATOにあっても、EUと同じ分裂線が加盟国を分かつかもしれません。EUは、目下、英国の離脱問題で揺れておりますが、EU自体がその基盤を切り崩されつつある現状にこそ、関心を寄せるべきではないかと思うのです。
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昨日、WTOの紛争解決上級委員会は、日本国政府が、放射能汚染を理由に課してきた韓国政府による日本産水産物の輸入規制を不服として訴えた件について、日本国側の主張を認めた小委員会の判決を取り消す決定を下しました。WTOの紛争解決の仕組みでは、上級委員会が最終審となりますので、現行の制度では同決定を覆すことはできないのですが、この一件から今日のWTO、否、国際経済について議論すべき幾つかの論点が見えて来るようにも思えます。
第1の論点は、言わずもがな、WTOの紛争解決メカニズムの不備です。現代国家において採用されている三審制、あるいは、二審制の司法制度では、仮に上級審において下級審の裁判過程における不備が問題とされた場合には、同訴訟は下級審に差し戻されます。つまり、差し戻しを受けた下級審において改めて同案件は審理され、判断が下されるのです。この場合、前判決が維持されるケースもあれば、逆の判断に至るケースもあります。ところが、現行のWTOのパネル方式の仕組みでは、差し戻しの制度が設けられておらず、下級審における不備はイコール判決の取り消しを意味してしまいます。これでは、たとえ‘原告側’の言い分が正当であり、また、多大な被害や損害が生じていても救済の道が閉ざされているに等しく、司法面においてWTOは制度改革を要すると言わざるを得ないのです。
第2の論点は、自由貿易の推進機構として設立されたはずのWTOが、国家の輸出入規制に対して寛容な態度に転じた点です。アメリカのトランプ政権は、グローバリズムの原動力となってきたWTOに対しては脱退を示唆するほどに批判的でしたが、今般に見られるWTOの判決は、加盟国による貿易制限に対して好意的なのです。上級員会の説明によれば、第1の論点で述べたように、韓国側の規制を容認した理由は第一審である小委員会の判決手続きにありますが、仮に、自由貿易の推進を最優先とするならば、小委員会の手続き上の問題点を指摘しつつも自らが判断して然るべきです。
そして、第3の論点は、農水産物分野における貿易規制の是非です。実のところ、韓国政府による放射能汚染を理由とした日本産水産物の輸入規制は、日本国民にとりましては、必ずしもマイナスではありません。国民の生命に関わる食糧安全保障、並びに、国民生活と直結する農水産物の市場価格といった側面からしますと、輸出の拡大は、マイナス方向に働く傾向にあるからです。GATT時代におけるケネディ・ラウンドにあって、農産物も工業製品と等しく自由化の対象となったものの、完全なる自由化には農業の壊滅や食糧依存体質の深刻化といったリスクがあります(食糧輸入が途絶えた途端、国民は飢餓状態に…)。日本国政府も、WTOの交渉に際しては常々高関税率を維持すべく苦心惨憺をしておりますが、穀物輸出国以外の諸国にとりましては、自国の存亡にも関わるいわば‘防衛線’なのです。こうした農産物の特殊性からしますと、WTOにおける‘農産物も例外扱いせず’の姿勢が現状に適しているのか疑問なところです。むしろ、方向を転換して農産物を例外化し、自国優先の原則を認めた方が、よほど、世界は安定化するかもしれないのです。
以上に幾つかの主要な論点を述べてきましたが、WTOもまた、自由貿易原理主義的な従来の方針を見直さざるを得ない局面に至っているのかもしれません。貿易とは人々を豊かにこそすれ、食糧不安や経済的な危機を招く元凶となってはならないと思うのです。
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日本がWTO敗訴=韓国の水産物禁輸を一転容認―最終審
2011年3月11日に発生した福島第一原発の事故以来、韓国政府は、日本産の水産物に対して禁輸措置をとってきました。同措置を不当性とした日本国政府は、WTOの紛争解決パネルに判断を求めたのですが、最終審に当たる紛争処理上級委員会は、一審となる小委員会の判断を覆し、同問題について韓国側の言い分を認めたそうです。日本国側の逆転敗訴となったのですが、この判決、マイナス面ばかりではないように思えます。
プラス面として第1に挙げられる点は、農水産物に関しては、必ずしも輸出量の増加が一般の国民にとりましては利益とはならないことです。日本国政府は、2020年までの目標として農産物輸出1兆円を掲げ、輸出拡大の促進に努めています。食糧自給率が高く、国内で余剰農水産物がある場合には、新たに販路を広げるという意味でも輸出拡大は望ましい方針なのですが、現状を見ますと状況は逆です。食糧自給率は低下の一途を辿る一方で、近年、健康面から国産が見直される傾向にあるとはいえ、安価な輸入食品も増加傾向にあります。これらの要因が相まって、国産品の値上がりが家計を圧迫しており、かつては日常的に食卓に上った食材も、今では高級食材と化した事例も少なくありません。例として、近年、健康効果から注目を浴びているサバの缶詰を取り上げれば、サバの海外輸出拡大と国内需要の増加によって、水産各社とも値上げを決定しています。こうした状況下にあって、韓国向け水産物の輸出が再開されるとしますと、食糧自給率(食糧安全保障)の更なる低下、代替輸入の増加、水産物並びに加工食品価格の上昇、国民生活の悪化といった諸問題に直面することとなりましょう。韓国による禁輸の継続は、これらの面においてプラス効果となりましょう。
第2のプラス面は、日本国もまた、海外からの輸入農産物に際して自国の食品安全基準を徹底できる点です。現在の状況は不確かなのですが、民主党政権の時代に、韓国から輸入する農産物に対して大幅に安全基準を緩和させたとする情報があります。つまり、今日なおも、細菌汚染度や農薬残留量等において日本国の安全基準を下回る農水産物が韓国から輸入されているかもしれないのです。仮に、WTOが、加盟国に対して食品安全基準の設定権限を完全に承認する、あるいは、韓国政府の設定した放射能汚染基準の正当性を認めたとすれば、日本国側も、当然に、自国の独自基準を韓国産の輸入品に対して適用することができます。
報道に拠りますと、小委員会の決定が取り消されただけであり、日本国の水産物の安全性等に関する判断は維持されているとのことですが、何れにしましても、日本国政府も国民も、プラス面を伸ばすことで、危機をチャンスに変える努力は必要なように思えるのです。
*追加情報により、19時30分に記事を一部削除、並びに、修正いたしました。
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第二次世界大戦における敗戦は、日本国から戦略思考を消し去ってしまったとする見解があります。GHQによる占領政策のみならず、平和の実現を他者の善意に全面的に頼る憲法第9条の精神は、日本国に対してサバイバルのための積極的な戦略性を求めてはいないのです。しかしながら、教科書的「世界史」の仮面の下には、権謀術数に満ちた陰謀渦巻く素顔が隠れていることに、今日、多くの人々が気が付きつつあります。表の「世界史」には、あまりにも辻褄の合わない出来事が多いのです。そこで、数ある戦略の中で、ここでは、‘メビウスの輪戦略’とも命名すべき戦略について考えてみることにします。
人類は、自らを生物進化の最先端にある最も知的な生物であると自負しています。しかしながら、生物なのかどうかさえ怪しいウィルスでさえ、人類が驚嘆するほどの狡知な戦略を見せることがあります。他者を捕食したり、自らの縄張りから追い払う、あるいは、他者の攻撃から自の身体等を防御するために、戦略性は生物にとっては不可欠なのです。生物の一種である人間もまた同様であり、戦略性の欠如は、自らの死をも意味しかねないのです。この観点からしますと、現在の日本国の状況は亡びへの道を歩んでいることとなります。
それでは、‘メビウスの輪戦略’とは、どのようなものなのでしょうか。世界支配や人類の家畜化という壮大、かつ、究極的な目的は、それが表に現れれば、即座に全諸国、並びに、全人類から孟反発が受けて潰されてしまいます。このため、この種の目的は必然的に‘陰謀’とならざるを得ず、決して人々の知るところとなってはならないのです。そこで、極秘を貫きながら目的を達成するための方法として考案されたと推測されるのが、メビウスの輪戦略と考えられるのです(もっとも、その実在を100%証明することはできませんが…)。
メビウスの輪とは、数学的にはメビウスの帯と呼ばれ、長方形の帯を180度捩じって繋ぎ合わせた形状を意味しています。一旦、この輪の構造の中に入ってしまった人々は、上に向かって歩いているつもりが何時の間にか下に降りて行ってしまい、右の方向に歩いているつもりが、左に至ってしまいます。逆もまた同様であり、常に自らの意思とは反対方向に向かってしまうのです。‘メビウスの輪戦略’とは、この特性を利用した戦略であり、政治の世界では、左右の勢力、あるいは、正反対の政策を対峙させつつも、全体から見ればメビウスの輪の構図の中に人々を追い込む手法として理解されます。例えば、右派勢力に対する国民の不満が高まった際には左派勢力に肩入れし、権力を掌握した左派勢力に対しては意図的に国民の期待を裏切らせて国民の不満を高め(この間、自らに利益となる政策を実行させる…)、結局は右派勢力を勝利に導くといった手法です。このルーティーンを繰り返せば、左右のどちらが政権を担当しても、‘メビウスの輪戦略’を仕掛けた側は安泰であり、しかも、自らの望む政策を実現することができるのです。
もっとも、全ての狩猟が獲物を獲得すれば最早戦略を要しなくなるように、目的を達成した暁には‘メビウスの輪戦略’も終了となります。徐々に輪を狭めてゆくことで人々をメビウスの輪の構造の中に閉じ込め、完全に‘捕獲’してしまったその時こそ、世界支配と人類の隷従化が完成するのです。後は、暴力を以って威嚇すると共に、先端テクノロジーを活用して徹底した国民監視体制を構築すれば、この支配体制は永遠に維持することができます。
‘メビウスの輪戦略’は、政治学の教科書をひっくり返してもその記述を見つけることはできませんが、果たして、‘メビウスの輪戦略’は、現実の世界で秘かに遂行されているのでしょうか。政治の世界を眺めますと、どことなく、思い当たる節があるのが恐ろしいところです。戦略に疎ければ直ぐにでも罠にかかって捕獲されてしまうのが世の常ですので、この世には、表面には現れない様々な戦略があることを認識し、知識として備えておくことこそ、大事に至らないための予防策でもあります。自らが陰謀を立案しないまでも、海外諸国や国際組織等がどのような戦略を展開しているのか、もしくは、仕掛けてきているのかを精緻に分析し、見えざる魔の手に的確に対処することは、自国や自国民の隷従化や滅亡を防ぐと共に、延いては世界支配、並びに、人類全体の家畜化を目的とした陰謀を阻止することとなるのではないかと思うのです。
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昨日、日産の前会長であるカルロス・ゴーン容疑者は、自らの身の潔白を訴えるべく、4月4日の再逮捕の前に撮影されたとされるビデオを公表しました。弘中惇一郎弁護士の指南の下で作成されたのでしょうが、ゴーン陣営の狙い通りの効果を発揮できるのでしょうか。
それでは、どのような論法で陣営は、自らの無実を明らかにしようとしたのでしょうか。同陣営が練った作戦とは、自らへの嫌疑が事実無根であることを証拠を事細かに列挙して立証するのではなく、日産、並びに、東京地検特捜部等によって仕組まれた冤罪であると主張するものでした。自らが逮捕に至ったのは、経営方針をめぐる対立から日産側が裏から陰謀を仕掛けたのであり、日本国の検察も不当な圧力をかけて自白を強要しているとして激しく批判したのです。乃ち、同ビデオは、事件全体の論点や視聴者の関心が日産、並びに、検察の不当性に向かうように構成が組み立てられているのです。
緻密な論理構成を試みながらも、ゴーン陣営の争点誘導戦略は裏目に出たようにも思えます。何故ならば、自らの無実証明を相手方の陰謀や横暴さに頼ったため、むしろ、‘やはりゴーン容疑者は有罪ではないか’とする心証が強まってしまったからです。少なくとも日本国内のマスメディア、並びに、世論を見ますと、ゴーン容疑者に対する世間の風当たりが弱まる気配はありません。
日産側からすれば、ゴーン容疑者が構築してきた裏資金流用のシステムそのものがまさしく陰謀ですし、仏ルノーとの完全統合計画も、日産の意向を無視した形でゴーン容疑者が自らの個人的な保身と栄達のために進める可能性もありました。これらの嫌疑については日本国内ではマスメディアが詳しく報じていますので、同容疑者が、今になって日産側の陰謀を主張しても、どこか空しく響いてしまいます。
また、弘中弁護士は、ゴーン容疑者に対して「黙秘するようアドバイスした」と述べていますが、そもそも黙秘権自体が権利としての正当性に疑いが持たれる時代にあって(容疑者には自白の義務があるのでは…)、その権利の積極的な行使は、逆に有罪論を強めてしまいます。ゴーン陣営の戦略は‘疑わしきは罰せず’に持ち込み、‘グレー’なままで無罪判決を勝ち取ることなのでしょう。同容疑者が取り調べに際して黙秘を貫くことも、動画において自らの犯罪容疑に対しては口を噤むのも、同戦略に沿ってのことと推察されます。
そして、黙秘を続けながら懸命に無罪を主張しているゴーン容疑者の姿は、それを見る人々に同容疑者はサイコパスなのではないかという疑いを抱かせます。仮に、報じられているように、日産から流用した資金を以って個人的な投資や遊興に費やしていた事実がありながら、ゴーン容疑者が無罪を主張しているとすれば、同容疑者には基本的な倫理観が欠如しているとしか考えられないからです。グローバル企業の会長職にあり、世界にその名を馳せた経営者であれば、私邸の購入費、高級リゾート地でのクルージング、子弟の教育費等を会社に負担させ、親族や友人を自社に登用し、機密費を私的目的のために使い放題するのは当然、と考えていたことになるのですから。つまり、ゴーン容疑者の無罪主張は、自らがサイコパスであることを証明しているように見えるのです。ゴーン容疑者一人ではこうした大掛かりなシステムを構築するのは難しいでしょうから、おそらく社内の取り巻きのみならず、その背後にあって国際的な組織、あるいは、国境を越えたコネクションが協力していたことは想像に難くありません。そして、これらの協力者達もまた、倫理観を失ったサイコパスかもしれないのです。
ゴーン容疑者はビデオにおいて‘日産を愛している’と主張していましたが、日産側に同容疑者を慕っている様子は窺えません。仮に、双方向性の愛であるならば、日産社内にあって同容疑者の身を案じて擁護し、その復権を訴える人々が現れるはずです。しかしながら、こうした動きは殆ど皆無であるところからしますと、同容疑者は、やはり社内にあって無慈悲な暴君であったのかもしれないと思うのです。
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北朝鮮への独自制裁 2年間延長を閣議決定
最近、北朝鮮は、自国に外国人観光客を呼び込むべく、積極的に広報活動を行っているそうです。海外向けの観光PRを意識しての動画も制作されており、観光地として自国をアピールしています。しかしながら、ここで一つの謎が生じます。厳しい経済制裁を科せられている北朝鮮は、一体、どこから観光資源開発のための資金や技術を入手しているのでしょうか。
国連安保理で成立した対北制裁決議では、人の移動に関する項目として、これまで北朝鮮の外貨獲得手段となってきた同国労働者の海外での雇用については契約の更新が禁じられたものの、観光分野については制裁対象に含めませんでした。このため、国境を接する中国をはじめとした諸外国からの観光客の流入は途絶えず、これらの人々が北朝鮮内で落とす外貨は経済制裁の抜け穴とも指摘されてきたのです。北朝鮮が、今般、観光事業に力を入れるのはこのためであり、観光事業は、僅かに残された貴重な外貨獲得の手段なのです。
その一方で、北朝鮮には、冷戦終焉後も重い鉄のカーテンに閉ざされた国とする暗いイメージが染みついてきました。その実像を見ても、国民が恒常的な飢餓に苦しむ国であり、地球上に現存する最も残酷な全体主義国家にして世襲独裁国家でもあります。人権軽視は自国民のみならず外国人にも及び、日本人拉致事件に留まらず、観光目的で同国を訪れた米国人大学生は、絶対不可侵とされる独裁者に対する不敬の廉で死に至らしめられているのです。こうした実情を知れば、たとえ割安な観光地であったとしても、誰もが北朝鮮を訪問することを躊躇することでしょう。一歩、足を踏み入れたら最後、二度と帰国できないかもしれないのですから。
北朝鮮によるPR動画の制作の意図は、外貨不足を解消するための暗黒イメージの払拭にあるため、そこに映し出された同国の姿は、前者とは全く以って正反対です。首都平壌にはICカード用の自動改札システムを駅に設置した地下鉄が運行され、街行く‘平壌市民’もスマホを手にしています。新設されたレジャーランドには、人工の波が打ち寄せるプールも設けられ、そこでは‘平壌市民’の家族連れに混じって多くの外国人観光客も戯れているのです。過去とは異なる新時代の幕開けを印象付ける狙いが読み取れるのですが、この動画の色調が明るければ明るいほど、その不自然さも際立ちます。厳しい経済制裁下に置かれているはずの北朝鮮が、自力で‘未来都市?’を実現できるはずはないからです。
しばしば北朝鮮は劇場国家とも揶揄されてきました。恰も映画の撮影スタジオの如く、海外向けに公開された映像の多くは、パネルに描かれた絵を背景とした作り物に過ぎなかったからです。レジャーランドといった狭い空間の施設であれば、こうした手法も使えるのでしょうが、先進国と比較しても遜色のない新型車両のIC改札の導入ともなりますと(新型車両の導入は2016年元旦から…)、相当の資金とIT関連を含む高度な技術を要します。長らく先軍政治を敷いてきた北朝鮮では、サイバー攻撃関連のIT技術は有しているのでしょうが、米朝首脳会談の開催地にも旧来の鉄道を利用するぐらいですから、交通関連のテクノロジーのレベルについては怪しい限りです(1973年の地下鉄の開通に際してはロシアの技術支援を受けおり、エスカレーターは中国製とされる…)。それにも拘わらず、平壌においてインフラのIT化が進展しているとしますと、親北諸国による資金、並びに、技術支援を推測せざるを得ないのです。
仮に、PR動画が映し出したように、‘北朝鮮市民’が何不自由なく日常生活を満喫しているのであれば、経済制裁は、全く効果がなかったこととなります。つまり、‘動画が真実であれば動画を制作する必要もない’という大いなる矛盾を秘めているのです。その一方で、この件ではっきりしたことは、経済制裁を以って北朝鮮の非核化を成し遂げようとするならば、観光事業、並びに、技術移転を制裁対象に含める必要があると言うことです。米朝首脳会談が始まって以来、交渉の扉を閉じないためにトランプ大統領は制裁強化には消極的な姿勢にあり、国連安保理も静観を決め込んでいます。しかしながら、北朝鮮が秘かに核・ミサイル開発を継続している以上、CVID方式による北朝鮮の非核化を実現すべく、国際社会は、対北制裁に関する次なる一手を考えてもよい時期に至っているのではないかと思うのです。
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道府県議選投票率、最低に=4道県知事選も
中国ほど国家を挙げてITテクノロジーを国家体制に組み入れている国はありません。凡そ全国民が携帯しているスマートフォンは国家レベルの情報収集ネットワークであり、国民各自の公私両面にわたる言動がデータベースに集積されています。いわば、ITテクノロジーは共産党一党独裁体制を支える重要な基盤であり、今後、データ解析力を飛躍的に向上させたAIや生体認証技術等がさらに高度化されれば、体制維持のための国民監視体制はなお一層強化されることでしょう。その先には、頭の中で共産党を批判しただけで‘思想犯’としてこの世から抹殺される‘反体制派自動排除システム’が登場しないとも限らないのです。
こうしたITの国民監視ネットワークとしての側面は、中国が仕掛けている国境を越えたサイバー攻撃やスパイ活動に留まらず、GAFA等のIT大手の情報収集活動にも指摘されており、自由主義国の国民と雖も、『1984年』に描かれたような監視社会化の脅威と無縁なわけではありません。そして、ここでふと湧いてくるのは、何故、ITテクノロジーの開発の方向性が、民主化、あるいは、民主主義の強化に向かわないのか、という素朴な疑問です。
2010年から2012年にかけて中東諸国で‘アラブの春’の嵐が吹き荒れた時、インターネットは民主化革命の立役者として注目を浴びました。携帯電話を通してネット上にアップされた動画が人々の独裁体制に対する怒りに火を付けたからです。この時ほど、IT技術と民主化とが結びついた時期はなく、インターネットの波及性と拡散力が革命への動因力として働いたことが、民主化革命を成功に導いたのです。インターネットが怒れる国民を結び付ける役割を果たし、国民の連帯感と団結が独裁体制を倒す力となったのは言うまでもありません。
しかしながら、独裁体制を倒して民主化を成し遂げた中東諸国では政情不安が収まらず、民主化の勢いは急速に萎んでゆきます。人とは‘共通の敵’や‘共通の目的’があれば一致団結しますが、それがなくなりますと、砂粒状にばらばらになり易い傾向があります。独裁者の打倒や体制転換が実現してしまうと目標を失い、むしろ、5月病と同じく目標達成感からアパシーに陥いってしまいがちなのです。そして、この時ほど危険な状態はなく、より優れた国家体制を構築する意欲やエネルギーまでもが著しく低下するため、体制崩壊後の無秩序や混乱が長引き、国を建て直すことが難しくなるのです。突発的な動員による革命は、それに先だって綿密に新たな民主的国家体制に関する構想が準備されているわけではありませんので、得てして‘独裁体制のほうがましであった’とする結果を招きやすいと言えましょう。
加えて、中国を筆頭とする独裁体制を維持したい勢力は、ITと民主主義との連携を断ち切るべく、ITの利用法を逆の方向に急回転させます。冒頭で述べた中国によるITテクノロジーによる国民監視体制の構築はまさしく‘反革命’のリアクションであり、ここに、政治的文脈におけるITの活用法が国民情報収集と監視の方向へと反転してゆくのです。シリコンバレーであれ、深センであれ、近年、情報・通信分野で開発された技術の多くはこの方向性に合致しており、収集された膨大なビッグデータもまた、民主主義の芽を踏み潰し、国民や人類に対する独裁的な支配のために利用されることでしょう。
以上に今日に至るまでのITと民主主義との関係を簡単に概観してきましたが、ITは、結局は、反民主主義の道具に堕してしまうのでしょうか。あらゆる技術には、天使となる可能性と悪魔と化す可能性がありますので、ITにも、前者となる道が残されていないわけではないはずです。昨日、全国各地で地方自治体の選挙が実施されましたが、投票所において投票用紙に候補者の氏名を書き込む際に吐いたのは、書き込むのが候補者の氏名ではなく、‘こういう政策を実現して欲しい’、‘このような問題を解決して欲しい’、あるいは、‘この政策や法律は止めて欲しい’などなど、政治に対する要望であればよかったのに、というため息です。そして次の瞬間に、今日のIT技術力を以ってすれば、国民の声を統治機関に直接に届けるシステムも夢ではない、という考えが頭に浮かんだのです。配布された選挙公報を見ても、所属する政党こそ異なるものの候補者の間には然したる政策上の相違はなく、むしろ、住民の関心が高く、世論の反対が強そうな政策については沈黙してしまっている候補者も少なくありません。国民の政治不信が高まる一方で、投票率が低い現状は、現行のシステムに原因があるのかもしれないのです。
IT技術に関する開発の方向性を再度民主主義の方向に転換させれば、直接民主主義とは言わないまでも(完全なる直接民主主義を実現させれば、むしろ、国民には過大な負担になる…)、政治と国民との双方向性が強化され、両者の距離が一気に縮まる可能性があります。選挙制度に拘らず、IT技術を用いれば、個々の国民の声が政治に届く様々なシステムが可能なはずなのです。少なくとも、国民が忌避する法案や政策が強引に押し付けられることはなくなることでしょう。デモ動因のツールに過ぎなかったアラブの春が失敗例となり、IT技術と民主主義とは不幸にも対立関係に至りましたが、自由主義国家であればこそ、同技術を悪用する中国等に対抗し、より高度で洗練された民主的システムの実現に資する善きIT技術、並びに、統治システムの研究・開発に努めるべきではないかと思うのです。
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北、米朝会談物別れで実務交渉者を更迭
報道に拠りますと、北朝鮮では、ベトナムで開催された第2回米朝首脳会談が物別れに終わった責任を問われ、事前交渉を担当した北朝鮮の金革哲米国担当特別代表が対米交渉の職を解かれたそうです。いかにも北朝鮮らしいこの処分、図らずも独裁体制の限界をも示しているようにも思えます。
金革哲氏の他にも、交渉団の一員であった金聖恵統一戦線策略室長にも責任追及が及ぶと共に、同会談に臨席した女性通訳も決裂を決する重要な場面で通訳を怠ったとして処分対象に名を連ねているとされます。これらの処分理由を検討してみますと、簡潔に表現すれば、政策決定者に正確な情報を伝えず、また、交渉相手にも同決定者の意思をそのまま伝えなかったという、情報伝達の不正確さや歪曲が問題視されたこととなります。
独裁者のご機嫌を損ねぬように部下達が独裁者の耳に心地よいように情報を改竄して独裁者に伝えたり、マイナス情報を勝手に握りつぶしてしまう現象は、しばしば独裁体制の欠陥として指摘されております。政策決定権の個人への集中を特徴とする独裁体制では、収拾された情報の真偽を慎重に分析したり、重要案件を合議に付すシステムはありませんので、誤った情報に基づく判断が国を傾けるリスクが高いのです。部下達は、国家や国民ではなく、独裁者個人に対して自らの忠誠心を捧げ、ひたすらに奉仕する立場にあり、人事権をも独占する独裁者の不評を買えば即座にその首は飛ばされます。国民のみならず、統治機構の官僚層にも恐怖政治が厳格に敷かれているのであり、このため、独裁者の権力掌握レベルに比例して判断ミスのリスクも高まるのです。
こうした独裁体制の欠陥を解消しようとすれば、独裁者は、部下の介在を排して自ら全ての統治に関わる行為を行う必要があります。例えば、米朝首脳会談においてトランプ大統領との決裂を回避したいのであれば、金委員長は、予備交渉の段階で直接に交渉に参加し、アメリカ側の意向を正確に把握しておくべきでした。また、通訳ミスによるリスクをなくすには、英語等の語学力を磨くといった課題を自らに課すべきでもありました。もっとも、金委員長は、スイスの学校で教育を受けていますし、英語を含む数か国語に通じているとも伝わりますので、通訳ミスの件はやはり責任転嫁なのかもしれません。
日本国内でも忖度問題が政界を揺るがしていますが、一人の人間が全ての決定権を握る独裁体制ともなれば、同問題の深刻さは民主主義国家の比ではありません。軍事といった政策目的が明確であり、上意下達の指揮命令系統に適する分野では、リーダーへの決定権の集中は、戦略に従った迅速な組織的行動を可能とする効果的な形態ですが、今日のように、政治、経済、並びに社会といったあらゆる分野において政策領域が多様化し、様々な利害関係が複雑に絡み合い、かつ、政府も国民も民主主義、自由、法の支配、基本権の尊重、平等・公平といった諸価値の実現を求める現代の国家では(もっとも、政府については怪しい…)、独裁体制は、もはや成立不可能といっても過言ではありません。人間の能力を超えているのですから。仮に、今後、北朝鮮が改革開放路線を選択するとすれば、現行の独裁体制の維持はさらに困難となることでしょう。先軍政治の時代には、軍事独裁体制の下で国家全体を恰も軍隊組織の如くに運営することができましたが、国民に経済活動の自由を保障し、市場経済が順調に発展すれば、通商政策、産業政策、金融政策、通信政策、エネルギー政策、インフラ政策、社会保障政策、福祉政策、雇用政策…など、様々な政策分野が出現しますし、それに伴い、警察・検察機構のみならず、民事上の争いを解決するための司法制度の整備をも要します。これらの分野における膨大な決定を、一人の独裁者が行えるはずもないのです。
以上に北朝鮮の独裁体制が曲がり角に至る可能性について述べてきましたが、その一方で、現代国家の特徴の一つが統治機能の多様化であるとしますと、現代の中国の動きには警戒を要します。統治上の諸価値の実現など眼中にない中国では、IT技術を駆使した徹底した国民監視体制の構築することで、共産党一党独裁体制、否、習主席独裁体制の維持を図ろうとしているからです。北朝鮮もまた、ITの導入には積極的ですので、中国に倣って情報・通信分野における先端技術を体制維持の道具としたいのでしょう。あるいは、自らに替ってAIに政治的決断を任せようとするかもしれません(AIが真に賢ければ、独裁者の退場を勧めるかもしれない…)。
しかしながら、政府の役割とは、国民に対する統治機能の提供という、いわばサービス事業の一種ですので、水も漏らさぬ監視体制の構築が、統治機能の質の高さを約束するわけでもありません。これらの諸国の方向性が、独裁者並びにその取り巻きと言った一部の特権層のみに権力も富をも独占させるとするならば、やはり、独裁体制に対する国民の不満は高まることでしょう。そして、中国であれ、北朝鮮であれ、今やテクノロジーが独裁体制維持のカギを握っているとしますと、自由主義諸国は、発想を転換させ―国民に対する監視から国民による自治へ―、国民のニーズや要望を統治機構に届ける新たな政治参加のシステムを開発するなど、先端テクノロジーの民主的な利用法を考案し、全体主義国家に対抗すべきではないかと思うのです。
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特別背任罪等の容疑で長期拘留の憂き目にあったカルロス・ゴーン容疑者は、漸く保釈となったと思いきや、再逮捕によって再び拘置所に舞い戻ることとなりました。保釈中の再逮捕も異例なそうですが、同容疑者は、フランス政府に対して救出を訴えたとも報じられています。
長期に及ぶゴーン容疑者の勾留については、フランス側は、メディアを挙げて日本国の検察・司法制度に対するネガティブ・キャンペーンを張ってきました。有罪判決を受ける以前の長期拘留は、推定無罪を原則とする近代国家にはあるまじき行為として、日本国に対する制度批判を展開したのです。拘留期間の問題の他にも、弁護士の隣席なき取り調べ等も批判の対象とされ、フランス側は、日本国という国を、あたかも魔女狩りがまかり通っていた中世にタイムスリップしたかのような、前近代的な国家とみなしています。この文脈にあって、ゴーン容疑者は、‘東洋の古めかしい国で不条理にも無実の罪を着せられて獄に繋がれてしまった哀れな文明人’なのです。
フランスにおける日本国の描写は、スウィフトが『ガリバー旅行記』を著した時代と然程変わりはないように思えるのですが、前近代性においてはフランスも負けてはいません。事件発覚当初、フランス政府の介入については、ルノー・日産・三菱自動車の三社連合の行方に関心が集まっていましたが、ゴーン容疑者の救済の訴えに応じたのか、フランスのルドリアン外相は、日仏外相会談の席でフランス側が東京地検特捜部による逮捕・拘留を問題視している旨を伝えたと報じられています。言い換えますと、それが牽制を意図した‘口先介入’に過ぎないとしても、フランス政府は、同事件を政治問題化し、外部から日本国の司法に政治介入しているのです。この段に至ると、推定無罪を掲げて日本国を批判したフランスに対して、日本国側も、外国政府、並びに、閣僚による司法介入は近代国家の原則の一つである司法の独立に対す侵害として批判し得る立場を得ます。この発言は、国家の独立性にも関わりますし、司法の独立は、近代国家の統治機構上の大原則である三権分立を基盤としていますので、ある意味、推定無罪の原則に対するよりも深刻な侵犯とも言えましょう。
同容疑者による本国への救済要請は、西欧列強に領事裁判権が認められていた不平等条約の時代に逆戻りした感覚に襲われるのですが、ゴーン容疑者からすれば、ルドリアン外相の発言は、本国への救済の訴えが功を奏したこととなります。しかしながら、国家間の関係が平等化した現代では、本国が易々と同氏を救い出せるわけではありません。否、日産のみならず、仏ルノー社に対しても背任行為を働く、あるいは、損害を与えた事実が判明すれば、同容疑者は、日仏両国の捜査当局から追われ、両国の裁判所において判決を言い渡される身となるのです。
何れにしましても、今般の事件における‘曲者’は、ゴーン容疑者であることは疑いようもありません。金銭に対するおぞましいまでの執着心と強欲さは、日本人一般の想像をはるかに超えています。カルロス・ゴーン容疑者とは、時代の先端を颯爽と駆け抜けたグローバリストにして辣腕のカリスマ経営者なのでしょうか、それとも、前近代の時代感覚を持つ非文明的な犯罪者にして詐欺師なのでしょうか。ジーギル博士とハイド氏の如くに善悪の二面性を自らに体現しているものの、有罪判決を受ければその人物評価は後者、即ち、稀代の悪党として落着することとなりましょう。政治と経済がクロスする同事件の重要性に鑑み、日仏両国は、批判合戦にエネルギーを消費するよりも、同事件に関連するブラジル、オマーン、サウジアラビア等諸国の捜査当局にも協力を求め、ゴーン容疑者が奇しくも浮かび上がらせた、国境を越える‘悪のシステム’の解明に全力を尽くすべきではないかと思うのです。
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‘適者生存’はダーウィンの進化論におけるセントラルドグマですが、ある特定の環境において最もそれに適応した者が生き残るのは、あらゆる分野で通用する自然の理であるかもしれません。この観点から経済を眺めて見ますと、劇的な環境変化の末に現れつつあるグローバル市場にあっても、同環境において自らの有利性を発揮できる適者と不利な境遇に置かれる不適者の両者が生じるのは当然とも言えましょう。
一般的には、グローバル時代の到来は、全ての国、企業、そして個人に対してチャンスを与える人類の理想郷として宣伝されています。しかしながら、現実には、チャンスは必ずしも全てに対して公平ではありませんし、‘適者生存’の結果として絶滅、即ち、淘汰される危機に直面する者もあり、結果の平等も望むべくもありません。グローバリズムの進展とともに格差が拡大したのも、環境の変化という要因によって説明できなくもないのです。もっとも、グローバリズムの効用として途上国における貧困の改善がしばしば指摘されますが、現象としてはファクトであっても、富裕層50%:先進国中間層45%:途上国貧困層0%の富の配分図が、富裕層90%:先進国中間層6%:途上国貧困層4%となったのであれば、全体を見ればやはり格差は拡大したこととなります。
それでは、グローバル時代においては、どのような要素を有していれば‘適者’となれるのでしょうか。それは、言うまでもなく‘規模’です。グローバル市場とは、人類が到達したこれ以上の大きさはない究極の市場であり、そこでは、人口、資金、経営組織、人材…等において規模が大きければ大きい程に有利となるのです。規模を基準とすれば、13億の人口を擁する中国や資金力に優る米国にとりましては、グローバル市場は最適の環境とも言えるのです。
この点から見れば、日本国政府が、グローバル市場の実現に協力すべく自国を無防備に開放する政策は、規模に劣る日本企業にとりましては、過酷な環境に放り出されるに等しくなります。言い換えますと、日本国政府は、自国企業にとりまして生存が難しい環境を自ら造りだしていることを意味します。実際に、全世界レベルで導入が予定されているG5の政府調達の分野では、日本の通信機器メーカーは、絶滅寸前の状態にあります。政府の国家戦略の下で特許の大半を有する中国のメーカー、5Gの中核技術を押さえる米国企業、そして、ノキアやサムスンといった企業がシェアを寡占すると予測されており、日本の通信機器メーカーは、今や風前の灯なのです。
そして、規模に加えて、グローバル市場において優位性をもたらすもう一つ要素は‘スピード’です。‘スピード’にあっても‘規模’が関係する場合もありますが、特に時空の占有を伴うインフラ事業やプラットフォーム型のビジネスでは、‘先手必勝’の側面があります。また、新ビジネスはいわばフロンティアの開拓であるため、各国とも政府の規制がほとんどなく、一気に事業を広げるチャンスにも恵まれています。知的財産権の独占性も最大限に活かされるのであり、中国企業が、5Gの導入を機にグローバル・スタンダードの設定者の地位に上り詰めたのも、それが新規導入というフロンティアの分野であったからです。日本国政府は、スピード感をもった改革を訴えていますが、実のところ、この方針は、逆に自国経済の衰退を速めている可能性さえあるのです。
‘規模’と‘スピード’を兼ね備えれば鬼に金棒であり、ここに、グローバル時代における‘適者’の条件が見えてきます。そして、この条件を備えているのは、米中企業、並びに、極少数のその他のグローバル企業となるのですが、これまでの日本国政府の政策は、自国企業が敗者となることを忘却し、‘適者’のために立案されてきたように思えます。仮に、G5の分野において日本企業が‘絶滅’するならば、米中企業に対して支払われる特許の使用料だけでも膨大となり、エネルギー資源と同様に、構造的な知財依存体質が国際収支の悪化を招くかもしれません。中規模国家における成功例であるノキアやサムスンと比較しますと(ノキアは欧州市場を背景に独仏等の大手企業を買収し、サムスンには政府や国際金融の支援があった…)、技術立国であった日本国がG5においてグローバル市場から姿を消すとしますと、これは、日本国政府の産業政策上の失策であったとも言えるのではないでしょうか。かつて、保護主義の根拠として幼稚産業の保護が挙げられてきましたが、今日のIT大手がグローバル市場を瞬時に席巻してしまう状況を見ますと、この説にも一理があるように思えます。
上記の諸点を考慮すれば、日本国政府が今後において目指すべき方向性とは、徒に自己を不利にする極端なグローバリズムに同調するのではなく、内外両面において自国企業を保護・強化する必要があるように思えます。基本的には、(1)外部環境への働きかけにより、日本企業のサバイバル環境を整えること(この点については、他の中小諸国と連携できる…)、(2)独自技術を育成すべく、国家レベルでの情報・通信インフラに関する研究・開発体制を再構築する(3)自国の5G関連の政府調達に際しては日本企業を優先する(情報・通信分野であるために、安全保障を理由に認められる可能性がある…)(4)ポスト5Gを睨んだ新たな分散型システムの開発を促進する…といった方策が考えられます。不適者が苦境にあって適性を獲得してゆくことで生物に多様性がもたらされ、高い知性を有する人類をも誕生させたのであるならば、日本国もまた座して‘淘汰’を待つのではなく、その知恵を以って難局を乗り越えるべきではないかと思うのです。
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令は「美しい」の意=外務省、新元号の対外説明を統一
新元号の令和については、マスメディアが祝賀ムードを演出する中、ネット上では芳しくない情報も流布しているようです。人は情報によって物事を判断しますので、マイナス情報接した国民の令和に対する感じ方も、今後は変わってくるかもしれません。そしてこの現象は、元号選定に際しての秘密主義の限界をも示しているように思えるのです。
令の文字については、最も一般的に使われている意味が命令の令であるため、政府は、‘良い’という別の意味があることを国書である『万葉集』を典拠として懸命にアピールしています。言い換えますと、政府が特別な解釈を付さない限り、令は、国民にとりましては受け入れ難い文字であったことになります。また、外務省が使用拒否の意向を示したのは、令和を他の言語に翻訳した場合の意味や発音に問題があったからであり、‘使わない’のではなく‘使えない’のかもしれないのです。その他にも、元号選定の手続きの不透明性に加えて、令和には様々な観点からの問題や難点が指摘されています。
こうした混沌とした事態に陥った最大の理由は、元号を、事実上、密室で決定したからなのではないでしょうか。一般の国民が新元号を知るのは、官房長官が公表した瞬間です。現行の手続きですと、たとえ決定された元号に重大問題が潜んでいたとしても、そして、好感を持てない元号であったとしても、国民は、同元号を使用せざるを得ないのです。これでは‘後の祭り’になりかねませんので、現行の手続きには看過し得ない欠陥があると言わざるを得ないのです。
仮に、数か月前に元号案を試案として公表していたら事態はかなり違っていたはずです。特に今般の改元は、崩御ではなく譲位(生前退位)に伴うものですので、より丁寧な手続きを試みるだけの時間的な余裕もありました。予め試案が分かっていれば、多数の専門家の方々が学問的な見地から慎重に吟味を加え、政府に具申したでしょうし、一般の国民からも様々な意見が寄せられたことでしょう。また、当該漢字2文字を人名に持つ人物、その発音の海外の言語における意味や使用例等についても調査する時間もあったはずです。少なくとも、今般の令和のように、決定後に次々と問題が噴出すると言った事態は回避できたはずなのです。
また、新元号の発表前夜までは、ネットではさながら‘元号コンペ’のような状況にあったそうです。中には不真面目な案もありましたが、元号の試案についても、広く国民から募集する公募方法もあり得ます。言葉や文字に対する感性が問われるため、専門家の案が必ずしも優れているとは限らないからです。令和の他にも英弘、久化、広至、万和、万保の5案が提出されたものの、何れも魅力的な案ではありませんでした。消去法の結果として令和が残ったとも言え、委託した考案者や候補数の少なさが、選択肢を狭める要因ともなったのです。
政府は、令和の選定に際して厳密な秘密主義を貫き、一切の情報が漏れないように細心の注意を払いましたが、結果的には、こうした権威主義的な態度が仇になったようにも思えます。政府の令和についての説明に付されたように、国民の誰もが新しいことにチャレンジできる時代の到来を期待するならば、政府が率先して新たなる、より国民に開かれた元号制定の手続きを考案し、それを実行すべきであったのではないでしょうか。近年の政府の言動をみておりますと、言動が真逆であるケースが多々あり、右に行くと左に行き、上に向かうと下に行くメビウスの輪がふと思い起こされるのです。
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政府説明、実態と乖離=「令和」の選定過程
4月1日に発表された新年号令和につきましては、マスメディアが街角で拾った国民の声はおおむね好意的なようです。改元を以って新たな時代の到来と捉え、天皇の代替わりを日本国を覆ってきた閉塞感を打破する好機として期待する声もあります。しかしながら、マスメディアによる新元号礼賛一色の報道ぶりこそ、実のところ、国民に閉塞感を与える元凶なのではないかと思うのです。
閉塞感とは、外部からの自由の束縛によってもたらされる感情です。自らの考えるところ、並びに、感じるところを素直に、かつ、正直に行動や言葉で表現できない状況にある場合、人は、内面の心の動きを外部に表出できないもどかしさ、即ち、閉塞感というものを感じるのです。閉塞感に覆われた社会では、人々は、心身両面において伸びやかに自分自身というものを他の人々に伝えることができませんし、コミュニケーションもぎこちないものとなります。お互いに本心を語ることもできず、人々は、常に自らの心に嘘を吐くことともなるのです(二重思考…)。こうした状態は、精神的にはストレスとなりますので健康を害する要因になると共に、社会全体の空気も淀み、息(生き)苦しくなるのです。閉塞感とは、個人にとりましても、社会にとりましても、成長や発展をも妨げる阻害要因に他なりません。
それでは、どのような要因が閉塞感をもたらすのでしょうか。閉塞感とは、内面の思考が言葉や行動として外部に表出される際の経路において、その円滑な移行が外部要因において遮断されることによって起こされますので、その要因は、外部の環境にあります。つまり、自らの心の内に生じた感情や思考が外的障壁によって閉じ込められてしまうのであり、その主要な要因として指摘されてきたのが公的な強制や同調圧力です。もちろん、内面において犯罪や反倫理的な行為を思考した場合には、法律や道徳律を以って外部表出が抑制されるのは当然ですが、しばしば政治の世界では、権力者が自らへの批判を封じ込めるためにも使われてきました。前者の代表的な事例としては言論統制があり、後者についてはマスコミによる世論誘導等があります。上部からの力が働いて、反対意見や批判的意見が表にできない時こそ、閉塞感が強まるのです。
こうした閉塞性の弊害を考えますと、今般の改元に際してのマスメディアの歓迎一色の報道ぶりは世論誘導の感を否めません。令和の新元号に全ての国民が好印象を抱いたわけではありませんし、これらの文字には多義性がありますので批判的な意見があってもおかしくはありません。国民の中には、保守であれ左翼であれ現在の皇室に疑問を持つ人もいますし、中には元号制度を含めて皇室の廃止を望んでいる人さえ存在しているはずです。反対意見や批判的見解が存在しないはずはなく、マスメディアの世論誘導により、国民が自らの批判や否定的な見解を含めた多様な意見が自由に表出できない状況にあるとしますと、現在の日本社会は、やはり重苦しい閉塞した空気に覆われていると言えましょう。このような状態では、令和への改元を以って閉塞感を打ち破ることは、到底、無理なお話となるのです。
令和については脱漢籍が強調されましたが、『万葉集』を典拠としつつも強引に令と和を引き出すぐらいならば、‘万葉’という元号の方がよほど日本らしさを醸し出したかもしれません。文中の離れた二文字を拾うよりも、二文字一体で意味を成す美しい日本語はたくさんあります。また、7世紀の‘朱鳥(あかみどり)’のように、漢読みではなく訓読みとする方法もあったはずです。様々な可能性があるのですから、元号の選定については、国民による自由闊達な議論があって然るべきです。政府解釈のように、令和に国民一人一人の個性や才能が花開く時代の到来を託するのであればこそ、国民から自由な空気を奪うような言論統制や世論誘導をゆめゆめなしてはならないと思うのです。
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昨日決定された令和という新元号については、初の国書からの起用となったため、マスコミ各社とも、日本国の独自色の強さを強調した報道が並んでおります。令と和の二文字は、日本最古の歌集『万葉集』第五巻梅花の歌三二首併せて序を典拠としています。確かに出典に注目しますと、令和の元号は漢籍を離れた点で‘国風化’されたのですが、令和ほど人によって解釈が違ってしまう元号もないように思えます。解釈によっては、真逆ともなり得るのです。
もちろん、国民に対する説明として披露された政府解釈が、日本国としての正式の解釈となりましょう。しかしながら、漢字とは、そのそれぞれの原義のみならず、その文字に因む過去の歴史や出来事等を多少なりとも背負っておりますので、自ずと人々の想像力を掻き立ててしまうものです。今般の令和の二文字も、過去の使用例を引き出すことで命名されており、それ故に、『万葉集』が8世紀にあって国民的歌集として編纂され、かつ、初春(令月)に大宰府の大伴邸で催された梅見の宴に添えられた序を典拠とすることを以って、その非政治性のみならず、和歌等の伝統や歴史の継承、美しく豊かな自然、国民文化、多様な個性の開花への願いが込められているとする由来解説を要するのです。
その一方で、令和の二文字、あるいは、『万葉集』の典拠箇所を読んで、全ての国民が同様の印象を持つとは限りません。政府の説明を受けて初めて令和が選定された理由を知るのであり、個人的な受け止め方には当然に相違が生じます。菅官房長官が令和と墨書された額を掲げた瞬間、令の一文字を見て、まずは命令の令を思い浮かべる人も少なくなかったはずです。同じ漢字であっても、それの用い手と読み手とでは、想像力や連想力も手伝って認識に違いが生じるという厄介な問題があるのです。そしてそれは、国民皆が使用する漢字の選定に際しては、慎重にならざるを得ない理由ともなります。
漢字の意味の多義性、あるいは、重層性を考慮しますと、政府の公式解釈が存在する一方で、個人的な主観であれ、他にも様々な解釈も成り立つ余地があります(実際に、識者やコメンテーター等の見解にも開きが…)。例えば、国風元号としての令和が前面に打ち出されつつも、出典の序が漢文体であること(‘国風化’であれば古今集か新古今和歌集の方が適しているのでは…)、梅が中国を象徴する花であること、序には蘭も登場すること(蘭は満州国の国花でありオランダの略語でもある…)、大宰府は唐や朝鮮半島諸国との外交の窓口であること(もっとも、梅と風と大宰府の三者が揃うと、左遷され、彼の地で失意のうちに没した菅原道真をも想起させる…)、ラ行音は外来音であること(斬新である反面、大和言葉からは離れる…)、ローマ字表記のRは、LとRの区別することが難しい日本人には極めて発音が難しく、ラ行音はLの方が自然…等の諸点に注目しますと、むしろ、令和には、中国、満州、オランダといった諸外国との関連性や外交といった政治性までも帯びてきます。京都産業大学の所功名誉教授によれば、江戸時代に令徳という元号が候補に挙がったものの、徳川幕府に命令を下しているように解されるとして採用が見送られた事例があるそうです。和は古代日本国の呼称であった倭に通じる文字ですので、最悪の解釈としては、中国等が倭=日本国に命じる、即ち、外部からの支配をも含意しかねない危うさを秘めているとも言えましょう。
元号制度そのものが中国由来であるために、その存続につきましても根本から考えてみる必要もあるのでしょうが、少なくとも現行の制度では、令和という元号が公式に使用されることとなります。日本国は‘言霊の幸はふ国’であるだけに、令和の二文字が禍をもたらさぬよう、国民は心して新しい元号に接してゆかなくてはならないのではないかと思うのです。
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新元号 首相「心寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味」
本日4月1日、新天皇即位に伴う改元を前にして、日本国政府より新元号が発表されました。自ずと皇室に対する国民の関心も高まるのですが、マスメディアの論調は、現代という時代における天皇の存在意義やそのあり方については深く踏み込もうとはしておりません。しかしながら、天皇の代替わりという節目の年を迎えた今日こそ、二千年を越える日本国の長き歴史を振り返り、天皇について熟慮するに適した時期はないのかもしれないのです。そこで、まずは、天皇の国制における位置づけをめぐって繰り広げられている祭政二元体制対祭政一元論の論争について考えてみたいと思います。
祭政二元論とは、日本国の国制のユニークな特徴としてしばしば指摘されており、精神的な権威と政治的な権力とを分離させた体制を意味しています。日本独自の形態ではあるものの、中世ヨーロッパでは、国家の世俗権力と教会の宗教権力が分離していましたし(キリスト教の二剣論による…)、近代以降では、合理主義の下で政教分離の原則が定着しましたので、精神世界と世俗の政界を制度的に分離する形態は、人類に普遍的に見られる一種の知恵なのかもしれません(企業などでも、実権を持たない名誉職が設けられることがある…)。何れにしましても、日本国の歴史を見ますと、古代にあっては女王卑弥呼と弟の難米升や推古天皇と甥の聖徳太子の関係、あるいは、幼年天皇の即位等に二元体制を見出せますし、中世以降になりますと、摂関政治、院政、幕政などの何れもが権威と権力が分離する二元体制として理解されます。天皇は、神仏に国家と国民の安寧のために祈ることはあっても、直接に統治権力を行使することはなかったのです。歴史においては二元体制の時期が大半を占めており、この意味において、日本国は祭政二元体制であったと見なすことができます。
その一方で、祭政一元論を唱える人々も少なくはありません。一元体制とは、祭祀の長である天皇が直接に統治権をも行使したとする立場であり、記紀に見られる古代天皇や後醍醐天皇の事績が根拠となります。幕末における王政復古とは、西欧の立憲君主制をモデルとしながらも、基本的には祭政一元体制の再現を意図したものです。しかしながら、上述したように、長期に亘って天皇、あるいは、朝廷に統治権がない体制が定着しておりましたので、歴史的な事実としての祭政二元体制を否定するには無理があります。そこで、一元論者の中には、天皇と統治者との関係を前者の後者への委任、あるいは、奉仕として捉え、両者の上下関係を以って説明しようとする試みもあるのですが、この説も、統治者への委任であれ、統治者からの奉仕であれ、天皇が国民に対して統治機能を提供したり、あるいは、政治的問題を解決してはいませんので、人々を納得させるほどの説得力があるわけではありません。
大雑把であれ、祭政二元論と祭政一元論との相違点を描いてみましたが、歴史的事実を基準としますと、祭政二元論に分があることは言うまでもありません。そして、民主主義の価値に照らしますと、政治と切り離された天皇であればこそ、今日の日本国の国家体制にあってその地位を維持し得るとも言えます。権力世襲の弊害は誰もが理解するところであり、世俗的な政治権力の行使こそが天皇家を危機に陥れるとする説が主張されるのも、アクトン卿が述べたように‘権力は必ず腐敗する’ものですし、政争に巻き込まれたり、国民からの恨みをも買うリスクが高いからです。また、日本国憲法が定めるように天皇が統合の象徴であれば、皇族の腐敗や堕落、あるいは、内紛は、最悪の場合、国家や国民の分裂を招きかねないのです。
そして、ここで一つ、疑問となるのは、祭政二元論が歴史的事実にも合致し、かつ、最も民主義国家との軋轢が低いにも拘らず、何故、かくも根強く祭政一元論が唱えられているのか、という点です。一元論は、実のところ歴史的事実とは無関係であり、上述したように過去において例外的に成立していた一元体制を根拠としております。その意図を推測して見ますと、そこには日本国の国制を変革したいとする願望が見え隠れしているように思えます。この意図が表面化した途端、歴史学上の論争にも見える二元論と一元論の対立は、日本国の将来に向けた国家ヴィジョンをめぐる極めて今日的な論争へと一気に時代の最先端に駆け上るのです。昨今、一元論が流布されている目的が、日本国に北朝鮮と同様の全体主義的な天皇親政体制を確立するところにあるとしますと、日本国民は、『日本国憲法』の定める自由、民主主義、基本権の尊重、並びに、法の支配といった諸価値を失いかねない危機にあるとも言えましょう。
なお、新元号は「令和」と公表されましたが、漢和辞典を引きますと(『新選漢和辞典』第五版、小林信明編、小学館)、令の解字として「…天子が諸侯を集めて、方針を示して、新しく辞令を出すこと。一説に、…令は、人を集めて命令を下し、屈服させることをいう。」とあります。令の一文字を見た最初の国民の印象も、命令の‘令’であったのではないでしょうか。また、日本国政府は、令には良いという意味があると強調しておりましたが、同解字では、「令は霊と通じて「よい」という意味にも使われる」としています。確かに、ご令息やご令嬢といった使い方が日常的にされてはいますが、この用法は、本来の意味からしますと主流ではないようなのです。「令和」の元号の名称は、一体、何を日本国民に語っているのでしょうか。
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