万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

天皇家とロックフェラーとの密約説について

2019年11月14日 15時03分35秒 | 国際政治
 本日11月14日、皇居では新天皇の大嘗祭がとりおこなわれます。同儀式は室町時代に一旦途絶えたものの、江戸時代に幕府の許可の下で復興されたそうです。秘儀とされてきたためにその始終は詳らかではなく、古くから伝わる伝統には常々謎があるものなのです。そして、現代にあっても天皇家は謎に満ちているように思えます。本ブログでも、ここ数日にわたりまして日本国の未来ヴィジョンの観点から天皇の位置づけ等の問題について記事を認めてきたのですが、読者の方からいただいたコメントの中に、天皇家とロックフェラーとの密約に関する情報がありました。本日の記事では、同密約について考えてみたいと思います。

 天皇家とロックフェラーとの密約とは、ロックフェラーが100年間皇室を維持することを約したと言うものです(皇室なのか、天皇と云う位なのかは分からない…)。しかも、天皇とロックフェラー家との関係は深く、ロックフェラーが自らの私邸に招いたのは日本国の天皇のみなそうです。ここで云う天皇訪米が、1975年秋の昭和期なのか、1994年6月の平成時の時なのかも分かりませんし、フェイクニューズの疑いもありました。そこで早速ネットの検索で調べてみたところ、早急には偽情報であると断言はできないようにも思えてきました。昭和天皇は、訪米中の1975年10日4日にロックフェラー邸を訪問しておりましたし、宮内庁の公式サイトにも、1994年の明仁天皇訪米時のスケジュールの6月16日の欄に「ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)」と記されているからです。他のスケジュールは全て、大統領、州知事、市長といった公人や教育・福祉関係者、並びに在米邦人等との面会や晩餐会で占められていますので、天皇が直々に私人であるデイヴィット・ロックフェラー氏の自宅を訪問したのには、異例中の異例の出来事なのです。

 こうして両天皇共にロックフェラー氏と直接に会談の場を持つ機会があったことが確認されたわけですが、それには、それ相応の特別の理由があったはずです。ロックフェラー家は金融界において財をなし、アメリカ経済、否、世界経済を支配するほどの大富豪に伸し上がった一族です。同氏は親日家としても知られ、仮に天皇家と同家との間に接点があるとしますと、両者の間に何らかの金融に関する関係があったと推測せざるを得ません。となりますと、スイスの秘密口座、あるいは、規制強化によって東南アジアの何れかの国に移したと噂される皇室の秘密財産が関係しているとも疑われるのですが、謎は深まるばかりです。なお、仮に莫大な皇室の隠し財産が存在しているとしますと、それは天皇家の私有財産ではなく日本国の国有財産ですので、国に返還され上で日本国政府よって管理されるべきものとなりましょう。

 また、ロックフェラー邸訪問が事実であったしても、皇室を100年間維持するとする密約の方はフェイクである可能性もあります。真偽のほどは分からないのですが、仮に事実であるとしますと、1975年10月を起点にすれば2075年9月まで、1994年6月を100年を数える起点とすれば、2094年5月までとなります。もっとも、約束した時期が訪米時とは限りませんので、戦後の1945年9月から数えるとすれば、2045年8月が期限となります。何れにしましても、この説が正しければ、日本国は、アメリカではなく、私人であるロックフェラー家の庇護の下にある、あるいは、冊封を受けた属国か‘私有国家’ということになるのです。しかも、100年間の維持を約束したとすれば、その期間にあっては日本国民がその‘総意’によって現皇室の廃止を求めたとしても(天皇という役割を廃止するとは限らない…)、ロックフェラー家がそれを許さないことを意味します。果たして日本国民は、このような状態を受け入れるのでしょうか。また、ロックフェラー家には、日本国の政治を動かし、日本国民の言論の自由を封じるほどの、かくも巨大な権力を保持しているのでしょうか(なお、デイヴィッド・ロックフェラー氏は、2017年3月に死去…)。同情報が事実であれば、日本国は、もはや独立した主権国家とは言えなくなります。

 天皇家と海外勢力との関係については戦国期、並びに、明治期に注目すべきであり、特に後者では、東インド会社やイルミナティー、フリーメイソン等の秘密結社の関与、並びに、これらの組織の主要メンバーでもあるロスチャイルド家等のユダヤ系金融財閥が暗躍していた形跡があります(戦後はロックフェラー家に変えた?)。日本国は、全世界が植民地化される時代にあって独立を維持した稀な国として評価されていますが、植民地化の主要な手法は王家の懐柔や乗っ取りですので、直接支配ではなくとも、間接支配を受けてきた可能性を否定はできないのです。否、世界支配を目指す勢力が、日本国の皇室に対して無関心であり、そのまま気にも留めずに放置したとは思えません。日本国から利益を吸い取り、自らの目的をも達成するために、日本国民には気が付かれないように皇室を利用しようとしたとしても不思議ではないのです。

 状況証拠からしますと、上述した密約説の信憑性は相当に高いのですが、皆さまがたは、どのようにお考えでしょうか。中国共産党政権の異様なほどの皇室接近が見られる中、日本国民は、今日、もしかしますと国家の独立性と云う最も重大な政治問題に直面しているのかもしれないと思うのです。

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統合の象徴と天皇の人格

2019年11月13日 15時03分56秒 | 日本政治
 戦後における現行の日本国憲法の制定により、天皇の役割は大きく変わることとなりました。GHQの草案を下敷きにしているとはいえ、天皇は政治的権能を有さないとされ、形ばかりの国事行為を残しつつも、実質的な明治来の統治機能を失ったのです。ここに権力と権威が切り離され、日本国の国制は、幕末まで続いていた権力と権威が分離する伝統的な二元体制に戻ったのです。

 明治憲法では天皇に対して統治権を総攬する権能を認めていましたので、当時の国制は一元体制と言うことができます。明治維新に際し、西欧諸国の立憲君主制を模して導入された国制が、戦勝国の手によって明治以前に回帰したのですから、それが意図せぬ出来事であったにせよ、歴史の皮肉とも言えましょう。そして、この二元体制への復帰が天皇と政治における民主主義との調和をもたらしたのであり、この点、現憲法が国民に広く受け入れられた理由の一つなのかもしれません。

 しかしながら、現憲法における二元体制と伝統的な二元体制とは全く同一のものではありません。前者における天皇の憲法上の公的な役割とは‘統合の象徴’であり、宮廷祭祀等を中心とした後者とは違っているのです。それどころか、現憲法はその第20条において政教分離を定めていますので、後者への回帰を拒んでいるとも解されます。乃ち、戦後の日本国は、二元体制に回帰しつつも、過去の伝統的な祭祀上の役割は天皇の私的行事とされ、‘統合の象徴’という極めて曖昧な役割を担うこととなるのです。

 そして、‘統合の象徴’には、予期せぬリスクも隠れていたようにも思えます。統合の手法や形態には様々な類型があるのですが、その一つに、求心型というものがあります。求心型とは、上部において個々から超越した地位に統合の役割を担う‘要’を置く手法です。‘要’の位置には、憲法において統合の役割が明示されてはいないものの、一般的には国旗、国歌、あるいは、自由、民主主義、法の支配、平等・公平といった国民が共有する共通の価値といった非人格的なものが置かれます。ところが、日本国の場合には、憲法の第1条と云う極めて重要な条文において、天皇を以って国家及び国民の‘統合の象徴’と明記しています。つまり、天皇の地位にある人の人格を以って統合の役割を担わせているのです。もっとも、独裁者が好むカリスマ支配と称される形態は、人々が自発的に魅力に満ちた独裁者に従うことで成立する体制もあり、求心型の統合形態は日本国の国制に限ったことではありません。

 象徴が非人格的なものであれば超越性の問題は生じませんが、人格を以って統合の象徴としますと、ここで、一個の人格が他の全ての国民を超越する存在となり得るのか、という問題が生じます。人格を以っての求心型の統合という構図が国制に組み入れてしまいますと、それが世襲であれ、カリスマであれ、普通の人間でありながら超越性を示さなければならいという自然界にあって到底不可能な要求が生じるのです。もっとも、超人の存在を近代科学は否定するのですが、国民の心理状態やそれに対する心理的な操作を用いれば不可能ということはありません。中国や北朝鮮のみならず独裁体制ではしばしばこの手法が採られており、指導者の超越性や神格化が人為的に演出されると共に、国民に対して上からの強力な強制力を以って同調圧力をかけるのです。個人独裁は、しばしばパーソナルカルトを伴うのであり、機能と人格が一体化する前近代的、否、より一層抑圧的な全体主義体制となり易い傾向にあるのです。

そして、この観点から日本国のケースを見ますと、天皇、あるいは、皇族のパーソナルカルト化の徴候は既に現れているように思えます。即位の礼の日に、朝からの雨天にも拘わらず、儀式が始まる間際に晴れ間がのぞき、空には薄らと虹もかかったそうですが(因みに北京オリンピックで試みられたように、人工的に晴れを造ることはできる…)、自然現象であれ、この現象を天からの吉兆として報じる向きもありました。最近のメディアの報道ぶりもどこか中国中央電子台や平壌放送を髣髴させるのですが、特に日本国憲法には政教分離の条文があるためか、皇族各自の人格そのものが信仰の対象であるかの如くなのです。

昭和天皇から3代を数える今日、天皇をめぐる歪は日に日に増すように思え、それが一人の人格を頂点とする求心型であるが故に、海外勢力に操られるリスクも否定できない状況にあります。こうした状況を踏まえますと、政府も国民も、皇位の安定的な継承を論じるよりも、天皇の地位や役割について抜本的な見直しを行う時期に至っているのかもしれません。リスク回避の意味からも、天皇を統合の象徴に据える求心型の構図よりも、日本国の統合は非人格型、かつ、分散的な形態に変えた方が安全なのかもしれないのです。近年、GHQの呪縛を解くべきとの声も聞かれますが、仮に、GHQが基本設計を施した国家体制を変更するならば、天皇の位置づけを明治憲法の一元体制に戻すのではなく、むしろ、それ以前の伝統的な二元体制を踏まえた、より民主主義と調和し、かつ、無理のない形態に変えてゆくべきではないかと思うのです。

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皇族と平等-身分から公職へ

2019年11月12日 15時08分04秒 | 日本政治
 新天皇の即位を機にして、女性天皇の即位や女系天皇の容認、さらには女性宮家の創設案も再浮上しているようです。これらの問題は、主として性差別の解消に焦点を当てた議論なのですが、皇族をめぐっては、性差別のみならず様々な差別が絡んでいます。長子とそれ以外の子供達との間の差別に加え、実のところ、身分差別の問題も軽視はできないように思えます。

 天皇とは、今日の日本国憲法下において唯一特定の個人に対して公的に認められている特別の地位です。憲法では‘統合の象徴’の役割、並びに、立憲君主制の形式を残す国事行為が定められていますが、皇室典範等の法律によりその家族や分家(宮家)を含めて世襲的な特権身分として認識されています。つまり、前近代における大半の国家がそうあったように、天皇にあっても機能と身分が一体化しており、それは世襲として特定の一族によって世襲されているのです。

 さて、何故、ここで皇族の身分のお話が重要なのかと申しますと、性差別の問題は、身分と密接に関わっているからです。例えば、天皇位に女性が付くことができないのは女性差別であるとする批判がある一方で、女性は、婚姻によって皇族になれるから男性差別であるとする反論もあります。この‘水掛け論’は、どの身分の視点から見るかによる違いであり、皇族の女性達の視点から見れば、皇位継承が男系男子に限定されている現行の制度は女性差別ですが、女性皇族と婚姻しても皇族にはなれない一般国民の男性からすれば、生まれによって越えられない壁のある男性差別となるのです。つまり、皇族を含めた国民は、この問題について視点を同じくして論じているわけではないのです。

 身分制度が存在した時代や地域では、こうした問題は一般市民の日常的な問題でもありました。このため、大抵の場合、市民法によって身分の異動が定められており、例えば、ローマの市民法では、奴隷身分の男性であっても、市民身分の女性と婚姻すれば市民権を得ることができたとされます(古来、イタリアでは‘男子力’が重要であったのかもしれない…)。また、国によっては、その逆に、貴族以外の配偶者を持つことによって貴族身分を離れる場合もありました。

このように、身分法とは、実に多様性があります。多種多様な身分法における婚姻の形態を分類しますと、まずは一夫一婦制に限定しても、(1)同一身分間での婚姻しか認めない(2)異なる身分間の婚姻をみとめる、の二つに大きく分かれます。そして後者の場合には、「A.両者とも元の身分を保持する」、「B.どちらかの身分に合わせる」に分かれ、さらにB.の場合にも、男女間の身分差の扱いによって違いが生じます。大まかには上昇と下降に分かれ、上昇するケースは、a.男性の身分が高い場合、配偶者の身分も上昇する(今日の皇族男性)、b.女性の身分が高い場合、男性の配偶者の身分も上昇する(ローマの市民法)であり、下降のケースは、d.男性の身分が低い場合、配偶者の身分は降下する(今日の皇族女性)、e.女性の身分が低い場合、男性の身分も降下する、となります。これらの形態が混在する身分法もありましたし、イスラム社会のように一夫多妻制ではさらに複雑になります。かつ、子の身分を加えればさらに多様性が増すのです。 

近代以降、身分制は平等原則の前に姿を殆ど消しており、その復活を主張する人も極稀となりました。誰にとりましても、身分によって自らが遜らなければならない状態は心地よいものではなく、かつ、社会全体にとりましても、上位の身分のものに阿る者ばかりが増えて活力を失いかねないリスクがあるからです。皇族とは身分制が法的に今日に残る唯一の場なのですが、それでは、平等原則を徹底しようとする場合、上記の形態の内でどれが最もその原則を実現するのでしょうか。実のところ、どれをとりましても、何らかの問題が生じてしまいます。全てのケースについて検討しますと長くなりますので、目下、皇女と婚姻した男性に皇族身分を認めるという案について考えてみることにします。

同改革案は、一般男性にも皇族になる道を開くのですから、一見、極めて平等のように思えます。しかしながら、性差に関係なく平等に降下する、即ち、皇族男子も配偶者に合わせて降下させるという平等化の選択肢もあるのですから、先ず以って、何故、上昇させる必要性があるのか、その理由を見出す必要が生じます。また、同改革では、女性天皇も女性宮家も可能となるのですが、性差なく一般の国民も皇族の身分を獲得できるわけですから、数世代を経れば殆ど一般国民の血脈と変わらなくなります。今日でさえ皇統には強い疑義が生じていますが、Y染色体論に基づく万世一系の主張も通用しなくなるのは言うまでもありません。さらに男女平等を突き詰めようとすれば、天皇と皇后、並びに、女性天皇とその夫君との同格化も主張され、仮に両者が同格となれば、誰でも天皇になれる時代が到来するのです。加えて、家と家との同格が求められれば、天皇家とその配偶者の家とを同等に扱わなければならないとする要求も上がってきましょう。

かくして訳の分からない状況となるのですが、平等化を徹底しますと、最も基本的な問題である身分による差別に行き着いてしまうように思えます。すなわち、結局は、‘世襲的による法的身分’と云うものを止めない限り、国民間の平等は実現しないという厳粛なる事実に突き当たってしまうのです。この段に至りますと、日本国民は、無意味となった皇族と云う身分を残すのか、それとも、別の道を選択するのか、という重大な岐路に立たされることとなりましょう。こうした問題の解決方法については様々な意見があり、完全廃止論もあるのでしょう。しかし、ここは、天皇と云う地位のみを日本国の伝統的文化継承者にして祭祀職として残し、皇族と云う身分制を廃止するのも一案なのではないでしょうか。

このように考えますと、天皇位については、祭祀職に相応しい候補者のなかから選ぶなど、制度改革を通しての身分から公職への流れこそ、現代と云う時代には相応しいように思えるのです。

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アメリカの皇室軽視の意味とは?

2019年11月11日 15時13分40秒 | 国際政治
 先月10月22日、日本国では新天皇の即位の礼がとりおこなわれました。この際、海外からも賓客を招いたのですが、同盟国であるアメリカは、当初予定されていたペンス副大統領に替えてイレーン・チャオ(趙)運輸長官を出席させるという‘異例’の変更を行っています。この件については政府もマスメディアも何故か詳しくを語ろうとしません。触れたくない話題のようにも見えるのですが、アメリカの皇室に対する冷たさにはどのような意味が込められているのでしょうか。

 即位の礼への出席を見送ったペンス副大統領は、僅か3日後の10月25日に、トーンは落としてはいるものの、昨年に引き続き厳しい対中批判の演説を行っています。ペンス副大統領にはトランプ大統領よりもさらに反中のイメージがあるのですが、中国側もまた、日本国の皇室に対して‘異例’の好意を示しているところを見ますと、アメリカ側の皇室に対する‘格下げ’の背後には、米中対立が潜んでいる可能性もあります。日本国内でもサーチナやレコードチャイナなどの中国系メディアでも、期待を込めてなのか皇室に関する所謂‘よいしょ記事’が並んでおり、習近平主席に対する礼賛と然程に変わりはありません。

 加えて、イレーン・チャオ運輸長官がトランプ政権の閣僚にあって唯一の中国系の政治家である点にも、何らかの米側のメッセージが込められているに思えます。日本国でも、国土交通省のポストにしがみついて離れない公明党は、親米保守と見なされてきた自民党との連立政権にあって親中政党として知られています。その母体である創価学会は皇室の新たな藩屏の役割を担うと共に、同宗教団体を介した皇室の中国接近が懸念されてきました。チャオ運輸長官は台湾系ではありますが、父親は上海出身の運輸事業者ですので、ここに、運輸を介して上海、台湾、皇室を結ぶ線が見えてくるのであり、それは、明治以来、日本国民には隠されてきた歴史と関連している可能性もあります。アメリカは、皇室をめぐる何らかの機密情報を入手しており、チャオ長官の人選は、皇室、並びに、中国に対する‘意趣返し’的な意味があったのかもしれません。

 そして、第三に指摘すべき点があるとすれば、それは、皇室側の民主党寄りの姿勢です。上皇后の美智子さんとヒラリー・クリントン氏は古くからの親交があるとされてきましたし、数年前、愛子さんの卒業作文が公表されましたが、文中にはオバマ前大統領の広島訪問に触れた件もありました。「世界の平和を願って」という題ですので一般論として作文なのでしょうが、同作文を敢えて公表した背景として政治的意図が疑われても致し方がないかもしれません(これまで、皇族の作文が公表されるのは稀ですので、政治性に配慮して非公開にするという選択もあったはず…)。愛子さんの作文におけるオバマ前大統領の登場は、共和党の候補者として就任したばかりのトランプ大統領の皇室に対する心象を損ねたかもしれないのです。

 あるいは、二期目を目指すトランプ大統領としては、日本国の皇室を厚遇しても票にはならないと読んだのかもしれませんが、些細な事柄であっても、皇室の政治的な動きは思わぬ波乱要因ともなりかねません。国益を害するリスクさえあるのですから、要注意であるとも言えましょう。そして、アメリカの冷めたい態度は、皇室にのみ向けられたものなのでしょうか、それとも、日本国並びに日本国民に対しても向けられてしまっているものであるのでしょうか、大変、気になるところなのです。

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民営化とは私物化?

2019年11月10日 13時23分41秒 | 国際政治
 80年代以降、グローバリズムは、民営化の流れと共に全世界を席巻しました。東欧革命を機に社会・共産主義国諸国は相次いで市場のメカニズムを導入し、国営企業や公営企業を民営化しましたし、自由主義国でもインフラ事業の多くは株式公開により民間の手に移ったのです。軍隊や刑務所の民営化さえ主張されたのですから、民営化原理主義者の主張は留まるところを知らなかったのです。

 しかしながら、今日、水道事業の民営化に対する反対論が強まっているように、全ての事業を民営化の対象とすることには疑問が呈されております。何故ならば、一つ間違えますと、民営化は公的事業の私物化を招き、民営化を正当化してきた消費者負担軽減論とは逆に負担増に帰結しかねないからです。

 旧社会・共産主義国であれ、自由主義国であれ、民営化の一般的な手法は、新規に株式を発行するというものです。同時に事業体自体も組織改革が行われ、職員は公務員採用手続きから一般の民間企業と同様の採用形態に移行すると共に、経営陣の人事も政府から切り離されます。つまり、資本関係や人事・経営面における政府とのリンケージを断つことにより、他の企業と同列の独立した事業体となるのです。

しかしながら、とりわけ独占や寡占が生じ易いインフラ事業といった公共サービスの必要性に基づく事業分野である場合には、それが経済活動や人々の生活にとりまして必要不可欠であるために、同事業体の経営方針、料金設定、並びに、事業収益の使途や分配等により、消費者は‘搾取’されかねない立場となります。例えば、水道事業の民営化に伴い水道料金が上がるのも、株主が存在すれば国営や公営時代には必要のなかった配当金を払わなければなりませんし、自治体等からの赤字補填がなくなれば、民間企業として黒字経営を目指して水道料金を値上げするのは理解に難くありません(民営化されても、その分が減税されるとも思えない…)。また、政府の規制が緩く、かつ、民間事業者が公共性よりも利益幅の拡大を優先すれば、料金設定も自由自在となりましょう(特にインフラ事業は独占・寡占となり易いので、価格引き下げ競争も起きない…)。

また、天然資源の採掘や輸出入に関する事業である場合には、株式保有者による国家財産の私物化と云う問題をも起きます。目下、サウジアラビアでは、国営石油会社のサウジアルコムが株式の公開を計画していますが、その公開数は全体の数パーセントとは言え、石油採掘販売事業の性質からしますと、国家の資源に関する権利を売り渡したに等しくなります。

しかも、上述したようにグローバル化と民営化は一体化して進行していますので、問題はさらに深刻になります。加盟国のデジタル時代を迎えた今日では、IT大手によるプラットフォームの構築が問題視されていますが、こうした問題も、インフラ事業の私物化を理解するのに役立つことでしょう。例えば、先日、ソフトバンクが赤字決裁を公表した際に、ウィワークへの出資が指摘されていましたが、グローバル化と一体化した民営化は、日本国の通信事業等で得た利潤は必ずしも国内の消費者に還元されるわけではなく、むしろ、有望な投資先があれば優先的に海外に流れる現実を示しています(本当に有望な投資先であるのか否かは別として…)。さらに、上述したサウジアラコムの民営化では、中国の国有企業や政府系ファンドが同社の株式引き受け先の候補として名が挙がっていますので、このケースでは、民営化を介してサウジ権益の中国への譲渡と云う、主は違えども新たな‘国有化’とも言える状況、すなわち、サウジの石油企業の中国国営企業化が出現しているのです。

 こうした現状を見ますと、‘民営化信仰’には要注意なように思えます。民営化が私物化を招き、さらには、外資や外国企業による国内市場の支配や国家資産の海外移転(新たな植民地化の手法?)にも繋がりかねないリスクがあるのですから、グローバリズムと共に民営化についても再検討すべき時期に至っているように思えるのです。

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米ドルvs.人民元-注目されるサウジアラビアの動向

2019年11月09日 15時08分36秒 | 国際政治

 サダム・フセイン政権を崩壊に導いたイラク戦争の背景には、イラクが、石油輸出の決裁通貨を米ドルから別の国際通貨に替えようとしたためとする説があります。真偽は不明なのですが、同説は、貿易決済に際してどの通貨を使用するのか、という問題が、戦争を誘発するほど重要であることを物語っています。

 

 全世界において使用される単一の‘世界通貨’が存在しない現状にあって、米ドルこそが、戦後の国際通商体制において‘自由で多角的な貿易’を支える基盤を提供してきました。少なくとも自由貿易主義を採用している西側諸国であれば、何れの国もブロックに囲い込まれることなく他の諸国と自由に通商関係を築くことができたのも、米ドルと云う国際基軸通貨がどこでも通用する国際決裁通貨として機能したからに他なりません。しかしながら、冷戦が終焉しますと、EUを基盤にユーロが誕生すると共に、中国の人民元が国際基軸通貨の地位を窺うようになります。IMFにおいても、今年に予定されていた出資比率の変更は見送られたものの、2016年9月から人民元を含む新規SDRバスケットが導入されています。

 

 人民元の国際基軸通貨化については、2019年3月の時点の統計では、36.5%の米ドルには及ばないものの、中国政府による自由化が不十分なために遅れているとはいえ、13.5%にまで拡大しています。近い将来、デジタル人民元の発行により個人レベルでの送金等にも利用されるようになれば、同通貨の利用率はさらに上昇することでしょう。先端的なITをも武器とした人民元圏拡大政策とも相まって、通貨の分野でも中国はその覇権主義を露わにしているのです。

 

こうした中、注目されるのがサウジアラビアの動向です。同国の独裁者とも称されるムハンマド・ビン・サルマーン皇太子は、昨今、国営石油会社であるサウジアラコムの再民営化を打ち出しております(国営化は1962年に始まり1980年に実質的に完了…)。当初、同社の再民営化に際しては、東京を含む海外の証券取引所が候補として挙げられていましたが、同国の石油施設に対する攻撃という事態を受けて延期となっています。こうした中、中国の国有企業、並びに、政府系ファンドとの間で最大100億ドルの新規株式の引き受けが検討されているとの情報が報じられています。サウジアラコムIPOの時価総額は1兆から2兆ドルを超えるとされ、この数字からしますと、中国の株式保有率は然程には高くはないようにも見えます。しかしながら、新規株式の大半はサウジ国内の証券市場で公開され(その大半は王族の保有になるのでは…)、海外での上場は1%から2%に過ぎないそうです。既に安定株主の役割を期待する声があるように、100億ドル分の株式を保有すれば海外上場予定分の大半を占めますので、海外株主としての中国の地位は決して低くはありません。

 

サウジアラビアの歴史を見ますと、1927年5月の独立に際してはジッダ条約をイギリスと締結する一方で、アメリカとの関係も深く、サウジアラコムの正式名称も国営企業でありながら「サウジアラビア・アメリカン・オイル・カンパニー」なそうです(因みに、1944年の設立時にはスタンダード・オイル系のカソックとテキサコが同社株式を50%づつ保有していた…)。反米色が強い中東にあって親米色の強い国としても知られており、そのサウジアラビアが中国を特別に優遇するとなりますと、その影響は決して小さくはないはずです。そして、仮に中国がサウジアラコム株を取得するとしますと、注目されるのは、その際に使用される通貨です。果たして中国は、人民元での取得をサウジアラコム側に提案するのでしょうか。そして、サウジアラビアもこの提案に応じるのでしょうか。

 

中国の拡張主義的な通貨戦略は、それが全体主義体制の拡大を伴うだけに、何れの国であれ、一般の国民にとりましては脅威ともなります。また、米ドルが国際基軸通貨である限り、ロシア、北朝鮮、イランといった国際法に反する行為を行った諸国に対して経済制裁の効果を及ぼすことができるのですが、人民元が国際基軸通貨ともなれば、無法国家はもはや経済制裁を怖れなくなるかもしれません。

 

 世界屈指の石油産出国であるイランをめぐる問題の背景にも、貿易決済通貨の問題が潜んでいるのかもしれません。サウジアラビアをはじめ、中東諸国が雪崩を打つように米ドルから人民元へとシフトするとしますと、同地域から石油資源を輸入している日本国もまた対応を迫られることとなりましょう。米ドルを唯一の基軸通貨とするブレトンウッズ体制の再構築も難しく、かつ、中国人民銀行のみならずECBもデジタルユーロの発行に言及し、そして、フィンテックの導入を伴いながら国際基軸通貨の問題が政治的にも国際社会を揺るがす現実を目の当たりにしますと、人類は、未だに誰もが納得するような通貨制度の構築に至っていない現実を痛感させられるのです。

 

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中国の輸入拡大は罠では?

2019年11月08日 18時59分52秒 | 国際政治
 中国の習近平国家主席は、11月5日から10日にかけての日程で上海にて開催されていた第2回中国国際輸入博覧会において、「保護主義や一国主義に断固として反対し、継続して貿易障壁を取り除く」と述べたと伝わります。続いて‘国際社会は壁を作るのではなく、壊し続ける’必要があるとも主張しており、北方遊牧民の侵入を防ぐために万里の長城を建設した時代とは隔世の感があります。

 中国ほどグローバリズムの恩恵を受けた国はなく、鄧小平氏が改革開放路線を選択して以来、中国は、外資導入を梃子とした輸出促進策を強力に推し進め、瞬く間に世界第二位の経済大国にまで成長しました。国策としての輸出拡大は貿易黒字に伴う巨額の外貨準備をももたらし、これを資源として一帯一路構想を打ち上げることができたのですから、中国が自由貿易、あるいは、グローバリズムを死守したい気持ちも分からないでもありません。しかしながら、中国の貿易黒字は他の諸国の対中貿易赤字を意味しますので、全ての諸国にとりまして歓迎すべき状況とは言えません。リカード流の自由貿易論では、自然調和的に相互利益が実現するはずなのですが、理論と現実間には雲泥の差があります。因みに、日本国の対中貿易赤字は、米中貿易戦争による対中輸出の減少が影響したこともあり、2019年上半期のデータでは2兆493億円にも上っています。アメリカの対中赤字のみが注目されていますが、日本国の対中貿易赤字も決して小さな数字ではありません。

 深刻化する対中貿易赤字問題からしますと、冒頭で述べた上海の国際輸入博は、グローバリズムの波に乗った輸出大国としての中国に対する不満を解くための国際社会に対するデモンストレーションなのでしょう。習主席の演説も、‘中国は自国の市場を開放する、すなわち、輸入を増やす用意があるので、諸外国も速やかに関税を撤廃し、中国製品を輸入して欲しい’と解されます。言葉では輸入増を約束していますが、現実は、期待通りとなるのでしょうか。

少なくとも、中国の国家計画である「中国製造2025」を見る限り、中国が、今後、自発的に輸出を減らすつもりは毛頭ないようです。否、同計画が実現されれば、これまで先進諸国から輸入してきた高度先端技術を用いた製品や部品、素材等も内製化され、さらに先進国の上を行くテクノロジーも独自開発されますので、中国製品の輸出競争力を増すと共に、先進諸国からの輸入も減少することが予測されます。最近に至り、アメリカからの強い要請を受けて中国市場に参入した国外企業の知的財産権の保護を強化する方針を示すようになりましたが、この譲歩も、ITやAIといった先端分野においても独自開発の目途がついたからなのかもしれません。

 そして、何よりも中国が輸入拡大に消極的である理由は、輸入の増加が外貨準備の減少を招く点です。先述したように、一帯一路構想は、周辺諸国のインフラ・プロジェクトに対する融資を手段としており、中国は、AIIB等の基金や個別融資に対して膨大な外貨準備を投じています。外貨準備の減少は、中国の覇権主義的な対外戦略のフィナンシャルな基盤を掘り崩しますので、輸入拡大策とは二律背反となるはずのです。

おそらく、輸入拡大に伴う外貨準備の減少問題の打開策こそ、デジタル人民元の発行なのでしょう。人民元の国際基軸通貨化と人民元圏の構築が同時に実現できれば、上述した問題を一気に解決できるからです。人民元が国際基軸通貨となれば、外貨準備の増減やデフォルトのリスクに頭を悩ませる必要はなくなりますし、国境を越えた広域的な人民元圏が実現すれば、貿易収支に関係なく輸入も増やせるのです。そこで推測されるのは、中国は、自国への輸出に際して人民元を決裁通貨として使用するように条件を付すことです。つまり、中国市場への輸出に際して海外企業は人民元の使用を義務付けられるのであり、上記の輸入博は、人民元戦略の一環である可能性が高いのです。ブロックチェーンを用いたデジタル化も手伝って、各国は金融政策の権限を中国に奪われかねないこととなるのですが、中国の輸入拡大方針につきましては、十分な注意を要するように思えるのです。

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国賓は‘天皇陛下のお客様’なのか?

2019年11月07日 13時20分16秒 | 日本政治
 ネット上のニュース記事を読んでおりましたところ、見慣れない表現が目に留まりました。それは、国賓は‘天皇陛下のお客様’というものです(フジテレビ平井文夫上席解説委員)。今まで国賓に対してこうした言い方がされているのを見たことがなく、どこか違和感があったからです。

 令和への改元以来、即位したばかりの新天皇の権威を高めるためなのか、政府やマスメディアなどの対応には、何気ないところで全体主義的な手法が混ぜ込まれているように思えます。天皇を日本国の‘主’と見なす、‘天皇陛下のお客様’という発言もその一環なのかもしれません。さりげなく表現や扱いを同調圧力が働く方向に操作したり、虚飾を施す方法は、マスメディアが世論を誘導する際に用いるステマ的な常套手段でもあります。記事そのものは、横柄、かつ、覇権主義的な中国のトップを、多額の公費を費やし、況してや‘天皇陛下のお客様’として国賓待遇で招くべきではない、という反中的なスタンスで書かれているのですが、同表現には、日本国は天皇のものであるとする、独裁体制擁護に近い家産国家観が潜んでいるようにも思えます。

 そもそも家産国家観とは、国家を、王家といった特定の家族の所有財産と見なす前近代的な考え方です。同国家観は、古今東西を問わず世界各地に散見され、ヨーロッパ中世の封建国家もその典型例です。国家を一つの家族に見立てる家族主義であれば利点もあるのですが、家産国家では、封建君主は、自らの財産でもある領地や領民を剣を以って護る一方で、これらを私的な財産として好きなように処分することができました(‘家’の概念には使用人等も含まれており、国民は‘家族の一員’というよりも使用人に近い…)。そして、外部に対しては、‘家長’として他国の君主とも交際したのです。例えば、現代の家産国家であるサウジアラビアでは、目下、最高実力者となったムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の下で国営石油会社サウジアラコムの民営化が進められていますが、中国の国有企業が同社の株主取得に向けて協議中との情報が流れています。家産国家では、天然資源に関する権利も国家の‘主’である王家に独占されているのです。‘天皇陛下のお客様’の発想も、まさにこの前近代的な国家観がその源にあるのかもしれません。

しかしながら、江戸時代までは藩主の治める藩を一国と見なす封建的な家産国家観が幕藩体制等を支えていたとしても、少なくとも天皇については、世俗の‘家長’よりも、国家と国民のために天神地祇に祈るという聖なる領域における役割の方が遥かに国民に馴染んでいたように思えます。天皇を国父に、皇后を国母に擬える皇室像は、むしろ、天皇が世俗の世界に降りてきた明治以降に国民に広められた家族主義的なイメージであるのかもしれません。戦後は、日本国憲法が、象徴という表現を以って位置づけたため、天皇の役割そのもの曖昧模糊になってしまったのですが、何れにしても、何れの時代の天皇像との間にも‘ずれ’があるのが、‘天皇陛下のお客様’という表現が与える違和感の原因なのでしょう。

そして、この表現がさらに深刻となるのは、日本国憲法に定め、今日の日本国民が共有している国民主権の原則や民主主義の価値観との間に齟齬がある点です。同原則や価値に従えば、国家のお客様を招くのは、主権者である国民です。世論調査によれば国民の8割以上が中国を否定的に評価していますので、この時期に日本国民が中国のトップの国賓として招待を望むはずもありません。また、仮に、外国の賓客の訪日に際して天皇の役割があるとすれば、それはおもてなし、すなわち、接待の役割ですが、晩餐会主催でさえ、明治以来の慣例に過ぎないかもしれないのです。(憲法第7条に定める接受の対象は外国の大使や公使であり、厳密に憲法を解釈すれば国事行為であるかどうかも疑わしい…)つまり、国賓を天皇が招く賓客とする見方は国民主権の時代に相応しいはずもなく、この発想は、国家の‘主’が上から国民を束ねるもう一つの現代の家産国家である北朝鮮を思い起こさせます。あるいは、一党独裁制の下で独裁権力を手に入れた国家主席が‘習おじさん’として君臨している中国こそが、世界最大の現代の家産国家なのかもしれません。

細かいことに煩いようにも感じられるかもしれませんが、‘天皇陛下のお客様’という表現にことさら敏感に反応してしまうのは、昨今、現在の皇室を擁護し、パーソナルカルト化を是認する人々の中には、前近代的な家産国家観が染みついている人々が多いように思えるからです。それは、一般的な日本国民の考え方とは異質であり、日本国の歴史に根差しているわけでもありません。否、日本国の全体主義化を志向している勢力が水面下にあって蠢いている証であるかもしれないのです。皇室については、外部勢力による傀儡化、あるいは、政治利用のリスクがあるのですから、わずかな空気の変化にも注意を払うべきように思えます。そして、習主席が国賓として来日した際に開かれる晩餐会において(反対意見も強いので、実現するかどうかは分からない…)、新天皇がどのように日中関係を語るのか、今から憂慮されるところなのです。

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‘徴用工問題’で自己崩壊する韓国-三権分立の果てに

2019年11月06日 13時19分06秒 | 国際政治
 所謂‘徴用工問題’は、反日を国是とする韓国による日本国に対する‘嫌がらせ’とされています。同問題は1965年の「日韓請求権協定」にて解決したはずなのですが、戦前の日本国による朝鮮半島統治を違法な植民地支配として糾弾したい韓国は、同問題を蒸し返すことで‘謝罪と賠償’を何としても勝ち取りたいようなのです。かくして対日敵対政策として始まった‘徴用工問題’なのですが、今やその攻撃力が逆を向き、自らの国を壊しかねない勢いなのです。

 自己崩壊に拍車をかけているは、訪日の際に明らかにした韓国国会の文喜相議長の私案です。解決の糸口が見えないまま悪化する一方の日韓関係に業を煮やし、同議長は、一つの解決案を提示しました。それは、日韓両国の企業や個人に呼びかけて寄付を募り、‘徴用工’を救済するというものです。韓国側としては、この案ですと、上述した「日韓請求権協定」の枠組と切り離されますし、日本国政府が韓国裁判所の判決に従う形でもありませんので、日本国政府も受け入れ可能と読んだのでしょう。一見、妙案のようにも思えるのですが、細部を見ますと自己矛盾に満ちているとしか言いようがないのです。

 そもそも、‘徴用工問題’とは、韓国最高裁判所が原告側の訴えを認め、日本企業に賠償の支払いを命じたことに始まります。この判決に際し、韓国側は、司法の独立を意味する三権分立を盾にして日本国政府による対処要求を退けました。つまり、韓国側の対外的名基本スタンスは、‘司法判断に政治は介入せず’であったはずです。ところが、今般、韓国国会の議長が解決案を作成し、国会における同法案の成立を以って‘徴用工問題’に終止符を打つとしますと、立法府と雖も政治解決となるわけですから前言を覆す行為となります。

 そして、さらにここで問題がややこしくなるのは、他の二権、即ち、韓国の司法部と行政部の存在です。立法府である国会が解決に乗り出したとしますと、最高裁判所と韓国政府の両者は、どのように対応するのでしょうか。原告が訴えを取り下げる可能性もありますが、最高裁判所の判決は宙に浮くことになります(今後とも、同様の訴訟が起きる可能性もある…)。否、司法の独立を逆手に取り、韓国国会の法案を無視して粛々と日本企業の資産売却手続きを進める、あるいは、違憲立法審査権を発動して同法を葬り去るかもしれません。

司法部が独自路線を歩む可能性がある一方で、韓国政府もまた、対立法府にも苦慮することが予測されます。おそらく、同法案は、議員立法として国会に上程されるのでしょうが、まずは与党議員が同法案への対応をめぐって混乱するかもしれません。仮に、同法案に賛成票を投じれば、日本国政府に対しては司法の独立性を口実に政治介入を否定しながら、自国の議会による政治介入についてはこれを認めたこととなるからです。さらに、仮に国会において法案が成立したとしても、その後の文在寅大統領の動向が注目されます。何故ならば、韓国憲法では、大統領に対し、国会で成立した法案に反対の場合には再審議するよう差し戻す権限を与えているからです。(議会が原案を再可決するハードルは高い…)。また、大統領が同法案に反対しない、あるいは、原案どおりであれ、修正案であれ、国会が再可決しても、大統領が対外政策における権限の優位性を国会に認めたに等しくなり、自らの権限を損ねることにもなりかねないのです。

そして、実のところ、仮に民間企業や個人に寄付を募るという方法であれば、そもそも立法措置を経る必要さえないという問題もあります。法律とは、基本的には政策目的を実現するために公的な強制力を要する場合にのみ制定されるものであり、原告救済のための‘寄付法’を制定すれば、それは、‘自発的寄付’というよりも‘強制寄付’という性格を強くなります。しかも、その対象が日本企業ともなりますと(おそらく、韓国政府から寄付を強要される…)、請求権問題を完全に解決させた「日韓請求権協定」に抵触しますので、日韓間の対立は振り出しに戻ることにもなりましょう。

以上に述べましたように、三権分立論をご都合主義で持ち出したばかりに、韓国は、三権のそれぞれが異なる立場から自らを主張し、収拾がつかないレベルに混乱する事態に陥っているように見えます。国家崩壊の危機に瀕するに至れば、結局は、日本国政府の提案、すなわち、「日韓請求権協定」の規定に誠実に従って紛争の解決を仲裁に付すという、現代国家に最も相応しい解決案に帰着するかもしれません。あるいは、三権分立、否、’三権分裂’に疲れ果てた挙句、北朝鮮の独裁体制に向けてまっしぐらに逃走するのでしょうか。

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RCEPの幻想-アメリカと中国は違う

2019年11月05日 14時06分47秒 | 国際政治
 年内にも交渉の妥結が期待されていたRCEP。今般、閣僚会議が開かれたものの、インドが対中貿易赤字を懸念して難色を示したことから、先行きに不透明感が漂うようになりました。メディア等の反応は交渉妥結の遅れを嘆く論調が強いのですが、自由貿易主義、あるいは、グローバリズムに内在する問題点を考慮しますと、RCEPの頓挫は歓迎すべきなのかもしれません。

 今日、多くの人々が自由貿易主義に全幅の信頼を寄せ、その推進こそが全世界を豊かにすると信じるようになったのは、第二次世界大戦後に成立した自由貿易体制の成功体験にあります。連合国諸国は、1941年8月に米英首脳が発表した大西洋憲章において、戦前の経済ブロック化への反省から既に戦後の自由貿易構想を示しており、戦争の終結を待たずしてアメリカで開催された連合国諸国による国際経済会議において具体案が合意され、ブレトンウッズ体制が成立しました。この時、貿易の多角化に伴う貿易決済を円滑にするための機関としてIMFの設立と共に、事実上、金との兌換性有する米ドルを国際基軸通貨とする固定相場制度が採用されたのです。

 ブレトンウッズ体制と呼ばれた同体制の下で、戦争で疲弊した世界経済は急速に回復し、戦後復興も順調に進むこととなります。敗戦国であった日本国も同体制の恩恵を受けたことは言うまでもなく、自由貿易主義の信奉者の多くは戦後モデルが理想像として刻み込まれているのでしょう。しかしながら、戦後の自由貿易体制の実像を具に見つめてみますと、リカード流の比較優位による国際分業が上手に働いたわけではなく、同モデルがアメリカの‘自己犠牲的’な政策によって支えられてきたことに気付かされます。

 どのような点において‘自己犠牲的’なのかと申しますと、アメリカが、米ドル高の相場を維持することで自国の市場を他の諸国に開放した点です(もちろん、米ドルが兌換紙幣であったこともありますが…)。乃ち、日独をはじめ戦後復興を成し遂げた諸国は、アメリカ市場と云う巨大な自国製品の輸出市場が存在したからこそ自国の産業を育て、経済成長を実現したと言っても過言ではありません。もちろん、米ドルレートの高値固定化により、アメリカの消費者も、安価な輸入製品に囲まれた生活を謳歌し、豊かなアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを満喫できたのですから、‘自己犠牲的’という表現は相応しくないとする意見もありましょう。イソップ童話の『アリとキリギリス』に喩えるならば、キリギリスは自業自得とする冷たい見方もあることはあるのですが、産業力や輸出競争力の面からしますと、アメリカの製造業は衰退の道を辿った点は疑い得ません。長期的なスパンから見れば、自由貿易主義の最大の受益者であったはずの消費者も、失業や賃金の低下等に苦しめられることとなったのです。

 この‘自己犠牲的’な基調は70年代にブレトンウッズ体制が崩壊して変動相場制に移行し、80年代以降にグローバリズムが本格化した後も変わらず、21世紀に入っての中国の経済大国としての台頭も対米輸出がその踏み台となりました。アメリカ市場なくして今日の中国はなく、ソ連邦が喉から手が出るほどに欲していた自由主義国の先端技術もグローバル化の波に乗ることで難なく手にすることができたのです。一方、アメリカでのトランプ政権の誕生は、‘自己犠牲的’な自由貿易主義、もしくは、グローバリズムの放棄、あるいは、その軌道修正に他なりません。言い換えますと、戦勝国として繁栄を極めた戦後のアメリカの寛大さに依存した自由貿易主義は限界を迎えたのであり、戦後のアメリカ中心の自由貿易主義のモデルは破綻をきたしているのです。

 このように考えますと、戦後の自由貿易主義とは、人類史において例外的に生じた一極主義型のモデルであり、しかも、それは、中心国の自国通貨高と云う犠牲の下に成立した期間限定つきものに過ぎないように思えます。そして、同モデルの再来を期待してRCEP構想を進めるとしますと、期待と現実との間のギャップに呆然とさせられるかもしれません。中国が、自由貿易主義、あるいは、グローバリズムを支える中心国として、戦後のアメリカのように自己犠牲を払うとは思えないからです。中国は、輸入を拡大させたアメリカとは逆に自国製品の輸出を促進させ(’輸入博’は囮?)、日本国を含めた他の加盟国にこそ犠牲を強いることでしょう。RCEPとは、中国の市場開放ではなく、中国のための加盟国諸国の市場開放となる公算が高いのです。この点、RCEPへの加盟による対中貿易赤字の拡大を懸念したインドの判断は、賢明と言えるかもしれません。メディアはしばしば‘固定概念’や‘常識’を疑い、発想の転換を求めますが、何故、自由貿易主義やグローバリズムを疑おうとしないのか、不思議でならないのです。

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民主主義と独裁はどちらが国家の独立にとって危険か?

2019年11月04日 16時50分26秒 | 国際政治
 戦前のドイツにあってはナチスの台頭を招いた一因ともされているため、今日では偽書とされている『シオンの議定書』では、全世界を支配する手段として各国に独裁者を配置する計画が記されています。この恐るべき独裁者コントロール構想、オーウェルの『1984年』にも通じるのですが、『シオンの議定書』の真偽は別としても、同書に記されている世界支配の構想は、純粋な比較統治論、あるいは、システム論的な見地から、注意深く考察しみるだけの価値があります。その理由は、民主主義、自由、法の支配といった人類の普遍的価値の弱点や盲点を狡猾に悪用しているからです。乃ち、サタニックな魅力に引き寄せられるというわけではなく、人類が知性と理性を以って発展させてきた統治制度の脆弱性を知る上で、同書は反面教師として大いに参考になるのです。

 例えば、冒頭で述べた独裁者の全世界的な配置というシステムを考えて見ますと、そこには、世界支配と中央集権体制との密接な繋がりを見出すことができます。世界支配を目論む者が存在するとすれば、各国ともに、自らの手下とななる独裁者の下で中央集権体制を敷くことが最も好都合なのです(もっとも、既存の国家を全て廃絶して世界政府を樹立させる方法もありますが、このケースでも、同政府のトップに据えられるのは世界支配者その人、あるいは、その忠実なる下僕として据えられた独裁者と云うことになりましょう)。

 その理由は、一人の人物に全ての権限が集中する中央集権体制では、内部のみならず、外部からの統治システムに対するチェック機能が一切働かないからです。このことは、独裁者の地位に自らの息のかかった人物を就任させることができれば、自由自在にその国を外部から操ることができることを意味します。このためには、被支配の側となる国民からの一切の抵抗、反発、批判等を封じ込めることができる体制が望ましいのは言うまでもありません。かくして独裁者は絶対的な権力者かつ、権威者として国民の頭上に君臨し、全体主義体制に帰結されるのです。

一旦、独裁体制が成立すれば、自らが裏から糸を引いて操れば、自らの利益となる政策を実行させることはできますし、同国に埋蔵されている天然資源の権益も自らの手中に収めたに等しくなります。また、全体主義体制と軍事体制は類似していますので、全世界に配置した独裁者達に命じて安全保障上の危機を煽り、国民の愛国心を利用して同体制を強化し、永続性を高めようとするかもしれません。『1984年』の世界でも、ビッグブラザーを独裁者とするオセアニア政府による国民徹底監視体制の維持には、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三カ国間の半永久的な覇権争いが利用されていますが、ビッグブラザーもまた、決して表舞台には姿を見せない‘世界支配者’の操り人形なのでしょう。あるいは、首脳間の会談を演出して紛争を解決すれば、国民の目には、外交手腕にも長けた頼りになる‘偉大なる指導者’に映るかもしれません。

独裁体制を擁護する人々は、常々、上意下達の軍隊的なシステムを以ってその効率性や迅速性を同体制の民主主義を基盤とする権力分立に対する優位点として挙げています。他国からの侵略に対しては強力なリーダーシップの下で国民が一致団結して戦う必要がありますので、この一面だけを切り取れば一理はあるのですが、同擁護論は、独裁者が外部勢力の操り人形と化すリスクを全く考慮していません。国内向けの閉鎖的体制として捉えられる傾向にある独裁体制には、実は権力も資源も全てを含めて国家が丸ごと外部に奪われるという重大な傀儡化リスクがあるのです。もっとも、スターリンや毛沢東にイメージされるような共産主義型の‘独裁者’に限らず、高度なテクノロジーを悪用し得る今日では、自由主義諸国の大統領や首相、さらには王室や皇室といった世襲のポストについても同様のリスクが認められます。そして、世界支配者の代理人達は‘救国の英雄’や‘偉大なる指導者’を演じるよう命じられていますので、国民に対しては常に‘偽旗’とならざるを得ないのです。

このように考えますと、世界支配者や侵略的な国家の魔の手から逃れ、自国の独立を保つためには、民主主義を手放してはならず、かつ、権力分立体制を維持する必要があることが理解されてきます。それと同時に、『シオンの議定書』を以って反ユダヤ主義を煽ったヒトラーこそ‘独裁者’であったことは、一体、何を意味するのかという疑問も湧いてくるのです。

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日中政治文書は悪しき慣習-属国化への道?

2019年11月03日 11時22分40秒 | 国際政治
 来春に予定されている中国の習近平国家主席の日本国への公式訪問に際して、「第5の文書」の作成が日中両政府間で検討されているそうです。第5という数字が示すように、日中間にはこれまでに、両国間の協力関係の基本方針を定めた文章が公表されてきました。こうした国家主席の国賓としての訪日ごとの文書作成は、凡そ慣例化された感がありますが、こうした悪しき慣習は続けるべきではないように思うのです。

その理由は、第一に、国家の首脳の公式訪問の度に特別の文書を作成するのは、中国の国家主席に限定された特別の‘待遇’です。同盟国であるアメリカ大統領の訪日時に際してさえ、相当に重要な案件がない限り、日米首脳による共同声明が発表されることはあっても、以後の政策を縛るような政治的な協力文書を毎回作成することはありません。70年代の国交樹立に際しの日中共同声明(1972年)、並びに、日中平和友好条約(1978年)については国際法上の手続きにいて要する公式な文書であったとしても、少なくともその後の二つの文書―日中共同宣言(1998年)と日中共同声明(2008)年―については作成するだけの正当な理由を見出すことは困難です。

第2の理由は、中国では伝統的に道徳や法は他者を縛るために存在すると考えらており、同国に合意の双務的遵守を期待できない点です。例えば、「第1の文章」である日中共同声明の6には、「…相互の関係において、全ての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」とありますが、今日、この合意は中国側によって一方的に破棄されています。一事が万事であり、政治文書が積み重なるほど、中国側による日本国側に対する一方的な縛りが強まることが予測されます。香港の抗議活動に対しても、北京政府は新法の制定で抑え込もうとしていますが、中国が積極的に法や文書を用いようとする時には警戒すべきです。それは、支配のための手段なのですから。

第3に指摘すべきは、今般の「第5の文書」の作成に際し、日本国政府が参考にしようとしているのが、宮沢喜一政権時代の92年に当時のブッシュ大統領との間で合意された「グローバル・パートナーシップ」の概念である点です。上述したように、アメリカ大統領の訪日に際しては必ずしも政治文書が作成されるわけではありませんが、冷戦終焉直後に当たる92年当時、日米両国は日米同盟を再定義する必要がありました。日米両国の共通の敵であり‘仮想敵国’であったソ連邦の消滅への対応であったわけですが、この文書がモデルであるとしますと、それは、あまりにも奇妙と言わざるを得ません。何故ならば、今日が歴史的な転換点であり、安全保障上の重要な政治文書を作成するならば、その相手国は同盟国であるアメリカのはずあるからです。軍拡著しく、今日、日米両国にとりまして共通の脅威となった中国を‘仮想敵国’とするならばお話は分かります。ところが、こともあろうことに、その中国との間に「グローバル・パートナーシップ」を結ぼうと言うのですから、正気の沙汰とは思えないのです。

「第4の文書」までの政治文書に携わった田中角栄、福田赳夫、小渕恵三、並びに、福田康夫の何れの政治家も政界屈指の親中派として知られております(福田親子と小渕氏は群馬県出身という共通点がある…)。仮に「第5の文書」の文中に‘新時代’という言葉が登場するとしますと、それは、日本国の政界全体が親中派に転じてしまったことを意味するのでしょうか。ネット上では朝鮮半島の南北両国の再冊封国化が揶揄されてきましたが、足元をしっかりと見ていませんと、日本国の方が先に中国の属国とされてしまう可能性も否定はできません。そして、属国化への道を敷くような悪しき慣習は踏襲すべきではないと思うのです。

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日中協力「第5の文書」は裏切りの文書-日本国のイメージ悪化と信頼失墜

2019年11月02日 14時51分21秒 | 日本政治
本日の日経新聞朝刊の第一面には‘習氏来日時に「第5の文書」’というタイトルの記事が掲載されておりました。2020年の春に予定されている習近平国家主席の国賓としての公式訪問に合わせ、日中両国間で政治文書を作成が検討されているとする記事です。しかしながら、この文書、日本国側が失うものの方が遥かに大きいのではないかと思うのです。

 中国側の狙いは分かりすぎる程に分かり切っています。先日のペンス副大統領の演説でも示されたように、アメリカは、膨大な額に上る貿易赤字やIT分野における中国の挑戦的な国家戦略に歯止めをかけると共に、香港や台湾に対する中国政府による弾圧的な政策に対して断固として反対する姿勢を表明しています。否、既に具体的な制裁を科す段階に移っており、自由、民主主義、法の支配等の諸価値を否定する中国との間の価値観をめぐる対立は、妥協の余地を失いつつあります。香港問題もあって国際社会において対中批判が高まる中、中国としての‘最良の策’は、アメリカの同盟国である日本国を丸ごと自陣営に組み込んでしまうことなのでしょう。朝鮮半島の南北両国は常に不安定ですが、安定的、かつ、信頼性の高い日本国を味方にすれば、国際的な批判や圧力を弱めることができます。米市場に代替する輸出市場も確保できます。折しもタイのバンコクではRCEPの閣僚会議が開催されており、経済分野で合意に達すれば、習主席訪日を前にして日本攻略に向けた環境も整うのです。

 もっとも、自らの野望を隠して外観を取り繕うために、‘「第5の文書」は’世界貢献’を謳い文句としています。このキャッチフレーズは、おそらく国民の8割以上が中国に対して悪い感情を抱いている日本国民の反発を恐れた日本国政府側の発案なのでしょう。特に日本政府側が扱いたテーマとして挙げてあるのは、地球環境問題や北朝鮮情勢といったグローバル、あるいは、国際的な問題であり、カモフラージュとしては最適です。しかしながら、中国側の‘世界貢献’の理解が日本国側、あるいは、一般的理解と必ずしも一致しているとは限りません。つい先日、中国は、建国70周年記念の軍事パレードで新型の核ミサイルを披露し、アメリカのみならず周辺諸国をも軍事力で脅したばかりです。また、先端的なITを以って徹底した国民監視体制を実現すると共に、同システムの全世界的な拡散を目論んでいるのは疑いようもありません。香港問題でも公然と一国二制度を踏み躙り、台湾に対しても武力行使を示唆しているのですから、‘世界貢献’は悪い冗談にしか聞こえないのです。同文書には、「一帯一路」や「新時代」といった言葉も文書に書き込みたい意向なそうですが、‘世界貢献’とは、‘偉大なる中国様が、その深い温情によってありがたくも劣った諸国を支配してしんぜよう’ということなのでしょう。このような中華思想の中国が、全世界の人々がその人格を尊重され、基本的な権利や自由が享受し、豊かな生活を送れるような世界の望んでいるはずもありません。

 日本国政府としては、13億の中国市場における経済的利益に目がくらんだのでしょうが、一昔前とは違い、中国企業がその技術力によって急速な成長を遂げ、今や巨大なグローバル企業を擁するに至った今日、その経済的メリットも薄れてきています(人件費も上昇…)。むしろ、中国企業によって日本市場が席巻されるリスクの方が高まっており、アメリカと同様に、攻めよりも守りを考慮すべき時かもしれません。そして何よりも、米中対立の中での日本国の対中接近は、日本国と云う国が、全体主義国に近い国と見なされかねないリスクがあります。

かつて日本国は、ヨーロッパ諸国を破竹の勢いで席巻したナチスドイツに魅せられて同国と同盟を組み、破滅的な運命を辿ることとなりました。戦後に至り、第二次世界大戦によって悪化した日本国のイメージを回復するには、長い時間と努力を要しましたが、今日、時世に流される、即ち、中国の勢いに呑まれて同国と与することとなれば、過去の失敗を繰り返すこととなりましょう。このような事態となれば、日本国民の圧倒的多数は、素人でも分かる中国の謀略に易々と嵌った安倍政権に対して失望すると共に、中国陣営への乗り換えに反対するのではないでしょうか。密室で作られる「第5の文書」は、敵側に寝返ったことで同盟国であるアメリカを、自由、民主主主義、法の支配といった普遍的な諸価値を蔑にしたことで人類を、そして、独立を危うくしし、全体主義化の危機を招いたことで日本国民を裏切ることとなるのではないでしょうか。

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中国の統治体制の優越性は劣位性

2019年11月01日 18時46分59秒 | 国際政治
中国では、第19期中央委員会第4回総会において「国を治めるシステムと能力の現代化」に関するコミュニケが採択され、‘「中国の特色ある社会主義制度と統治システム」の「巨大な優越性」を誇示し、先端技術を駆使しながら2035年までに統治体制の現代化を図り、党の支配を一段と強化する方針を示した’と報じられております。本方針は、‘ITやAI等の最先端技術を用い、2035年までにより一層の徹底した国民監視・管理システムを張り巡らし、何としても中国共産党による一党独裁体制を堅持する’との、内外に向けた宣言として理解されます。11年後の2035年の中国には、生体内チップの埋め込みや脳波の探知技術により、共産党が個々の国民の脳内活動や思考までも科学的にコントロールして管理する、牢獄よりも過酷な社会が出現しそうです。

それでは、「巨大な優越性」とは、一体、何を意味しているのでしょうか。上記のコミュニケの表現からしますと、まずは先端技術、即ち、テクノロジー面での‘優越性’を意味しているのでしょう。つまり、中国は、他の諸国が追い付けない程の超越したレベルのテクノロジーを手にすることで、他の諸国に抜きんでると述べているのです。劇的に計算速度が速まる量子コンピュータなども、こうした技術の一つなのでしょう。そして、開発された情報・通信分野における先端的なテクノロジーが国家機構そのものに組み込まれることで、‘特色ある社会主義制度と統治システムの’巨大な優越性‘が実現するのです。つまり、同コミュニケのロジックは、世界最高レベルのテクノロジー⇒統治システムへの投入⇒社会主義体制の優越性⇒共産党一党独裁の正統化というものなのでしょう。しかしながら、このロジック、よく考えてみますと統治の正当性の観点からしますと破綻しているように思えます。

何故ならば、統治の正当性を支え、真に評価基準となるべきは、人々が必要としている統治機能を果たす実行力、並びに、責任能力であるからです。つまり、基本的にはテクノロジーレベルの高低は、統治の正当性とは無関係なのです。ところが、現代の中国のロジックは、マルクスが提唱した共産主義理論におけるプロレタリアート独裁、即ち、労働価値と平等性に基づく正当化とも違い、テクノロジー上の優越性が共産党による一党独裁体制の正当性を支える根拠とされています。この論理は、中国が低テクノロジー国の状態にあれば、共産党も権力を失うことを意味しますが、少なくとも、今日の中国共産党は、世界最高の性能を誇るマシーンと化した統治システムを以って自らの統治を国民に受け入れさせようとしているのです。

もっとも、統治の正当性が機能上の実行力、並びに、責任能力であるならば、それが防衛力を遥かに超える攻撃力であったとしても、世界大二位の軍事力を以って中国の防衛を確かにしているのだから、共産党は‘巨大な優越’を有しているとする擁護論もあるかもしれません。しかしながら、統治機能とは、防衛に限られているわけではなく、特に重要となるのは国民の基本的な権利や自由を護るという保護機能です。

自由主義国と全体主義国との違いはこの機能に対する考え方において際立っており、全体主義国家にあっては同機能がすっぽりと抜け落ちているのです。そして、保護機能においてこそ、民主的選挙制度を有する自由・民主主義体制は、全体主義国家の統治システムに遥かに優っています。国民の選択によって政権を交代させることができない一党独裁体制では、政権が同機能を放棄したり、停止した場合、それを回復させることはできないのですから。言い換えますと、全体主義体制とは、それが如何に先端的なテクノロジーを駆使した統治システムであったとしても、重大な機能上の欠落がありますので‘巨大な劣位’を抱えているのです。しかも、正当性の根拠となるご自慢のテクノロジーは、国民に対する人権弾圧や自由の抑圧という云う反比例的な逆機能を強化しているのですから、修正されるどころか同欠陥は悪化する一方です。

このように考えますと、中国の自画自賛としての統治システムの優位性は、国民に対して果たすべき統治機能が一部欠落していることにおいて劣位性でもあります。おそらく、中国にとりましての「統治」とは、上からの一方的な人民支配の意味なのでしょう。そして、中国発の統治テクノロジーが他国にも拡散する中、全人類全体を俯瞰しますと、真の意味での統治が劣化するリスクが高まっているように思えるのです。

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