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プロペラ かなり曲がってますね
海面に激突した時の 衝撃…
翼は バラバラになったでしょう
滑走路とは 真反対に 向いてます
実機だと
天井の切り欠きと プロペラは ギリギリ
くらいの高さかな
なんだろ
表現しづらい 空気
壊れたエンジン 掩体壕は 時が止まっている
来年は 終戦80年
再び 回ることのない エンジン
外に出ました
草刈りして そのまま カモフラージュ
登ってみたいけど 文化財です
こんなのが 近所にあったら 一日中 遊べるね
雨の日も 遊べる
すぐ近くの 別の掩体壕に 行って見ます
個人所有
ロープが張られてます
コンバイン 格納
入口の 経常が ちがいますね
おっと 👍
今年は 雨が降らないんですわ
中津の 耶馬渓ダムは 50%切ったとか
かたや 連日の ゲリラ豪雨 だったり
農作物に 影響が出そうです
この辺 田んぼ だったんでしょうが
住宅地になってたり… 畑になってたり…
大豆が植えられてました
ここは 休耕田ですかね
暑いのと 運転手さんの用事もあり
JR柳ヶ浦 駅に向かいます
帰りは 電車で…
航空隊踏切
柳ヶ浦駅から航空隊資材置き場まで引込線がありました
弾薬 燃料 もちろん 食料
線路特有の カーブした道とか 残ってるんでしょう…
この踏切を越えると すぐ駅です
駅舎は きれいに改築されていて
冷房の効いた待合室で
一時間に一本の特急を待つことに
漱石 ですか!
なんで 漱石?
「しょうじょう」
そう 読むのでありますか
蕭
書き順 むずかしそう
私が 読めもしないものを 見ている間に
売店に 行ってた スケールさん
アイス と…
クリアファイル 買ってきました
こういうことには 抜け目ない
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漱石の句
説明では よくわからないので 調べてみたら
柳ヶ浦駅は 行橋⇔柳ヶ浦 開通して 終点だったわけです
ここから 漱石は 徒歩で 宇佐神宮に 行ったという
その時の 柳ヶ浦駅 を 詠んだ
開通して 2年しか経っていないが 「古驛」…
そうですか 漱石は 宇佐神宮に…
さらに なんでまた?
漱石は 松山で 大暴れした後 熊本に行ったわけですが
1899年 明治32年 正月
冬休みを利用して 宇佐神宮に参詣
1月1日 熊本出発 鳥栖 博多 小倉で宿泊
2日午後 豊州鉄道終点の宇佐駅(現 柳ヶ浦)
到着は 夕方だったのに 徒歩で宇佐神宮
約6キロ 田んぼの中の道だっただろう
初詣後 四日市まで歩き宿泊
四日市=平和資料館の辺り
そうか 初詣に来てたのか~
三日目 耶馬渓の羅漢寺
四日目 柿坂 守実 泊
五日目 日田 .
六日目 久留米 熊本 .
羅漢寺の宿坊に泊まったんでしょうかね
守実 もりざね 温泉郷ですから湯治場もあったかもです
日田街道は 馬車もあったかも…
しかし 今では考えられない
宿泊の予約も無ければ 公共交通もなかった頃
行き当たりばったりが 普通だった頃ですかね
文人は 往々にして 旅 放浪するんですね
東京生まれの ぼっちゃん育ちの漱石も
実は そういう人だった?
でなければ 句も詠めないということなんですかね
ふ~む
宛てのない 旅に 出たくなります
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旧 宇佐駅 現 柳ヶ浦駅 ホーム
まっすぐ つづく 中津方面
向かいのホームの 向こうは 使われていない線路
航空隊への 引込線のなごりでしょうか
けっこう広い
跨線橋も 昭和っぽい
漱石が 来た時は もちろん ありませんでした
駅舎が ポツンとあったのかもです
向かい側のホーム
現ホームの下側
戦時中からの ホームかな~
レンガじゃなくて ブロックみたい
戦後の改修の ホームかな~
白いソニック
急いで帰る必要もないのですが
普通列車は 昼間 走っていない…
柳ヶ浦 次は すぐ 宇佐駅
木が生い茂って 隠れれしまいそうになってる
USA
宇佐平和資料館
宇佐海軍航空隊
これにて 終わりです
面白いですね。昔はそこまでしか駅がなく、夏目漱石が歩いて神宮まで行ったということですか。
興味深いです。
宇佐海軍航空隊編、お疲れ様でした。
宇佐駅の駅票もUSAです。
漱石が歩いたというので、私も歩こうかと思って、ルートはわからないかと調べていたら、
馬車に乗ったという説もありました。
耶馬渓は馬に乗ったとか、、日田から久留米は船に乗ったとか、、、確かに!
宇佐神宮、、いずれ参拝できますように。