長かった戦乱の世が終わり江戸幕府が樹立されて間もない頃の、長崎でのお話です。
「華丸」という狆の男の子がおりました。
華丸は、大村藩の藩主の家老として仕える立派な武士の愛犬でしたが、その武士は、主君が32歳という若さで亡くなったため、後を追って切腹しました。
そして、お寺で武士の火葬が行われていると、華丸が涙して鳴き、なんと荼毘の炎の中に身を投じて武士の後を追ったのでした。1650年(慶安3年)のことです。
高潔な華丸の殉死を深く悼んだ家人らが、武士の墓によりそうように彼のお墓を建ててあげ、「義犬」と讃えました。
華丸のお墓は、武士のそれと並んで、現代でも大切に保存されています(お寺は、「本経寺」)。
史実に残る動物の墓としては日本最古のもので、平成16年に、国の史跡として指定されました。
これは、私が先日帰省した折、長崎新聞の報道を読んでいて初めて知ったことです。
ここで、さっそくそのお墓の写真をアップしたいところでしたが・・・・時間の都合上、今回は本教寺を訪れること叶わず・・・私自身が撮った写真がありませんので、マイナビニュースのこちらの記事で、ぜひご覧ください(写真をクリックすると大きくなります)。なお、この記事中の「前親」の読みが「まえちか」とあるのは誤記で、正しくは「あきちか」です。
それで、長崎新聞の記事というのは、今年が華丸の365回忌で、あらたに華丸の石像が建立され、大村市が顕彰記念行事を開催するという報道でした
(出席したかったなあ!)。その可愛い石像は、こちら(長崎新聞のサイト)。記念行事のレポートはこちら。
そんな立派で健気な狆が、長崎にいたなんて、それだけでも感動したのですが・・・この「武士」の名前を知って、私はさらに驚きました!
その武士とは「小佐々市右衛門前親(こざさいちうえんもんあきちか)」という方ですが・・・・小佐々氏とは・・こちらの記事で紹介した、中浦ジュリアンの一族です!
ジュリアンの殉教は1633年ですから、前親と華丸の死はそれから17年後の出来事であり、前親が、ジュリアンに対してどういう関係にあったのかは、私が調べた限りではまだ分からないのですが・・・推測するに、従兄弟とか、あるいはその子とかではなかったかと??
ともかく、中浦ジュリアンの一族と狆との間に、これほどまでに深い絆があったということを知って、現代の狆愛好家の一人として大変嬉しくまた誇らしい気持ちでいっぱいになりました。
(この前親だけが、たまたま狆が好きだったのだろうか・・いや、中浦城の城内でも、ジュリアンの家族らに可愛がられていたのではないか、と私は想像するのです。というのは、前の記事にも書いた通り、小佐々氏は、強大な水軍をもって五島灘海域に君臨して南蛮と交易し繁栄していましたから、狆が南蛮船に乗って中浦の地に渡来した可能性は十分考えられるのではと・・・。)
それから、小佐々家と大村家との関係について少しだけお話しておきますと・・・
ジュリアン記事でも触れたように、日本初のキリシタン大名であった大村純忠(すみただ)の統治の時代から、小佐々一族は、その臣下として仕えていました。
ジュリアンの父も熱心なキリシタンであり、純忠を守るための戦で、ジュリアンが2歳のとき戦死したのだそうです。
そのこともあって、純忠は、聡明なジュリアンを可愛がったということらしく、天正遣欧少年使節が計画されたとき、自分の名代として一員に加えたのでした。
純忠が55歳で病死すると、その嫡男喜前(よしあき)が後を継ぎ、豊臣、徳川の軍門として軍功を上げたため、「大村藩」として所領安堵され、この善前が正式に初代「大村藩主」となります。注1)
喜前も、もともと父と同じようにキリシタンであったわけですが・・・
家康が弾圧を強化するに至ると、速やかに棄教し、親しかった加藤清正の勧めにより、日蓮宗に改宗します。そうして、大村藩の菩提寺として本教寺を建立しました。
本教寺には、善前以降代々の藩主とその重臣たちのお墓があります(この頃になると、小佐々家もやむなく主君に追随して棄教していました。注2)
華丸の主人小佐々前親の主君は、大村純信(すみのぶ)という人で、三代目藩主でした。
漢学者でもあった前親は、純信が幼少のころから傳役(もりやく)として仕えていました。傳役とは、いわゆる養育係のことで、人格としても学者としても立派な、信頼のおける人物しか任命されませんでした。ですから、この主君が、江戸に赴いた際、急死してしまったという知らせを受けて、前親は大変動揺し、主君を護れなかったことに責任を感じて追腹しました。
そして、その前親に命を捧げた華丸・・・
それぞれに、「主」(あるじ)に対する義を貫きました。
華丸の墓碑には、132文字にもおよぶ漢文の由緒書が残されており、「前親と華丸はお互いに親しんでおり、前親は、常に華丸を愛して膝元に置いていた。」
云々と明記されているそうです。この中に華丸の犬種は狆だったということも明記されているのでしょう。注3)
どんな狆だったのでしょうか。栗之介のようにミニ狆だったのか、光之介のようなワイルドでか狆だったのか、、毛吹きはどんなだったのか・・
いろいろ想像してしまいますね。
白装束に着替えた前親さんが、華丸を抱きしめながら、こう言います。
「わしは、殿のもとに参らねばならぬ。もうお前のそばにいてやれぬ。新しい飼い主のもとで、穏やかに暮らすのじゃぞ。」
大きなお目々に涙をためながらも、何かを決心する華丸・・・
中浦ジュリアンの人物と生涯でも明らかなように、小佐々家は「義の精神」を重んじる高潔な一族でした。
奉じる宗教は変わっても、その精神は代々引き継がれ、人間ばかりでなく愛犬たちのなかにも、その精神が宿っていたのですね。
小佐々家の子孫の方々の会「小佐々会」では、6月21日に本教寺において、法要と華丸像の除幕式をしめやかに営んだそうです。
私も、お正月の帰省の際は、ぜひとも、本経寺を訪れて、華丸の墓参りをさせていただきたいと思っています。
注1) ですので、大村純忠の時代はまだ「大村藩」ではなく「大村氏」だったのですね。「藩」は江戸幕府が決めたものなので・・・私もそのあたり、混乱していました。
注2) ちなみに、天正遣欧少年使節のジュリアンの同僚千々石ミゲルは、この喜前の従兄弟です。
ミゲル自身いろいろあって、キリスト教に醒めていたころ、喜前が棄教したので、一緒にさっさと棄教してしまい、その後は、ふたりとも弾圧側に回ります。
それを知ったジュリアンは、絶望のどん底に叩き落とされた・・・と『小説中浦ジュリアン』にも書いてありました。
それから、喜前は、Wikiによれば、迫害を恨んだキリシタンにより毒殺されたのですって!(キリシタンがそのように仕返しをしたというのも驚きですが・・・)
なお、上記では小佐々家が大村家に「仕えた」と簡単に書きましたが、両家がどのように関わり、その中でジュリアンがどう考え、行動したのか・・・などについては、また別記事で語るつもりです。
今日の記事の主役は、華丸と前親さんでしたので!
注3) このような碑文でも分かるように、義犬華丸のお話は単なる「伝説」レベルのことではなく、史実であり、ジュリアンのことなどと並んで、小佐々一族の大切な歴史の1ページとなっているわけですが・・・
「小佐々会」の代表を務めておられ、著名な獣医学者でもある小佐々学先生の「日本愛犬史 ヒューマン・アニマル・ボンドの視点から」という大変興味深い論文がこちらで全文読めます。全国の犬のお墓(犬塚)をつぶさに調査し、伝説か史実かに分類して、詳細に論じておられます。
華丸の墓碑について、p.13 に詳細がありますので、読んでみてください。
佐々木先生によれば、この碑文は、「前親の高弟が選じたもので、『孟子』を引用した格調高い漢文で、前親と華丸の日頃の親密な交情が見事に活写されている。」とのことです。
<やっとテンプレートをオリジナル写真が使えるのに変更したのですが、、、肝心の本文欄が見づらくてすみません。なお、現在の写真は、下関の壇ノ浦の海です!>
飼い主の後を追って火の中に飛び込んだという
狆の華丸のことは 知っていました
でも こんな物語があった なんてね・・・
ままさん スゴイねぇ・・・
知識の塊だな
華丸くんのこと、すでにご存じだった?!さっすがあ、、私は恥ずかしながら先月初めて知りました。長崎県人のもぐりか。。
西日本最大の花菖蒲園ですって!長崎の見どころ、タツママさん、またこれからもいろいろ教えてくださいね。
人の心を持つと思っていますが、
まさしく。
お名前もいいわね。
「華丸」ちゃん、では失礼かしら、
華丸どの、かな。
みゆきさんの名言、久々に出ましたね!!!
そうですよね~~華丸どのが、殉死なされたから、というより、とりわけ高潔な「人のこころ」をもっておられたから、時代を超えてこうして感動をよぶのですよね~~
動物は火を怖がるものですが、主人を慕って自ら火の中に飛び込むなんてけなげです~
狆は時代劇にもよく登場しますけど(犬公方の綱吉とかが抱いてたりしますね)ペットを飼う余裕のある人たちの間で人気があったのでしょうね。NHKの「美の壷」で、白黒の毛並がカラフルな着物によく似合うって紹介してましたっけ。
おおっ、やはり地元では話題になってるんですね。私は叔母法事で帰らなかったら、長崎新聞見なかったし、、全然知らないところでした。
華丸ゆるキャラつくったりして、大村市としては地域おこしに張り切ってるらしいし。
そうですね、武家の狆といえば、徳川のイメージが強いので、、(良くも悪くもね)、長崎でしかもジュリアンさま一族とは、、驚きでした・・・とはいえ、そもそも小佐々氏は交易で裕福だったので、南蛮の珍しいものいっぱい所有していたわけですから、(綱吉に先駆けて?!)狆を愛好していたのも不思議ではないかな~~。
「美の壺」ね、私も見ました!
主君に殉じるとはあっぱれ!
華丸ゆるきゃらにも期待してしまいます。
銅像になったふたり、いつまでも
寄り添って楽しく暮らしてほしいな。
ままさんの博学にはいつもいつも
感心します。
また、一つ賢くなったわ♪
ゆるキャラにまでなるなんて VS足立区のあだ狆ですね。
ママさんの博学には私も毎度脱帽。次に会ったらつめの垢いただかなくちゃね。
徳川綱吉に狆がかわいがられたといっても、こんなに殉死するほどの強い絆はなかったと思うのですが・・この二人の絆は、まさに赤い糸だったんですね。。
(像のほうはね、華丸だけなんですけどね・・墓碑はずうっと二人一緒に並んでいます。)
華丸ゆるキャラね、、そのへんは、お正月までお待ちください。私自身が、大村へ行っていろいろ取材して、また記事を書きますのでね。(お盆はとてもその時間がないので。。冬の帰省はゆっくりできるだろうと思うので)
(ただ、あれは、「あだち」だからもじったもので、実際ほとんど意味ないんですよね??
華丸キャラは、、もうちょっとカワイイ系かな。
いずれにせよ、こうして狆キャラが町おこしに一役買っているというのは、嬉しいですね。
力也おねえさんも、とむとむさんもぉ~~~博学なんて言われると、まま本気にするよーー