【くりのみ会】を江東区で開催していた頃からの会員のMさんは、私より一回り上の先輩です。
【くりのみ会】が、参加者が少なくて開催が中断しそうな時にも参加していただき、会の大恩人でもあります。
Mさんは、大変な読書家でもあります。読書家といってもたくさんの本を読んでいるだけでなく、理解が深い。
また、Mさんは、点字翻訳のボランティアにも熱心で、人生師匠のようなお方であります。
Mさんと話をすると、いつでも、ハッとするよなお話を聞かせていただけるので会うのが楽しい。
今日のお昼、近くの喫茶店で1時間ほど雑談した。
Mさん曰く、
「初期教典を読んでみると繰り返しが多いのにぶつかります。表面的な文字面だけの理解だと、繰り返しの本当の意味がつかめません。“繰り返す”ことの裏には深い智慧が隠されています。それは、“繰り返し”のプロセスの中で人間の根源的な安定への共鳴・共振が醸成させもらえるように感じます」と。
そうですよね。
私たちの毎日は、目先の新しさを求めることに躍起になり、そのことが勉強だと思っていそうです。また、目先の変化を求め続け“迷中迷”“奈落の底”に転落しているのが今日の世界の実情ですよね。
Mさんは続けられました。
「マザーテレサが、列福に叙せられる時の儀式で、次のような言葉を残しています。“〈多くやること〉と〈心をこめてやること〉とは違います”と。〈心をこめてやる〉ということは、〈繰り返す〉ことでもあります」
【落穂拾い】No219で取り上げた次の言葉をあたためたくなった。
いろんなこと
知っているが
本当に大切なことを
しらないことに
気がつかない
また、『歎異抄』には、次の言葉がある。
「念佛には、無義をもって義とす。不可称 不可説 不可思議」と。
>「初期教典を読んでみると繰り返しが多い・・・」
初期経典とは具体的には何を指されるのでしょうか。仏教経典ですと、いずれの時代の成立のそれにも繰り返しは多くあります。
また、
>「念佛には、無義をもって義とす。不可称 不可説 不可思議」と。
の引用は、上段の文から来ているのだと推測致しますが、私にはいま少し理解が難しいので、ご教示頂きますれば幸いです。
恥ずかしながら、歎異抄を講じる機会も少なからずあるのですが・・・。(私は寺の生まれでも何でもありませんが、なぜか僧籍があります。w)
【くりのみ会】さん、素晴らしいですね。あやかりたいです。それではまた。ごきげんよう。
Mさんが、具体的に何を指しているか聞きませんでした。ただ、Mさんは最近、サンスクリットで初期仏教聖典を読んでいるようです。今度会った時に聞いておきます。
・不可称 不可説 不可思議 について
私は、先輩から『歎異抄』をいただきました。
作家の高史明先生の『歎異抄』を中心に読んでいます。先生には、何度かお会いしています。
で、「不可称 不可説 不可思議」ですが、素人のシンプルな理解ですが、(ことばや概念をそっと脇において、向こうから“感じさせてもらえる世界”)といった意味で考えています。
今日のブログに書いたのですが、加島祥造さんの「内から湧いてくるものに気づく」といったことにも重なるのかな・・・と思います。