最近再録した三題噺に出てくるゾウの語尾の「〜だぞう」に、既視感があった。
記憶の糸をたぐっていくと、元ネタは『ぐるんぱのようちえん』だった。
ようちえんを開いたぐるんぱが、ピアノを引きながら歌う歌。
みーんな ほっぺが まっかだぞう
おてては どろんこ まっくろだそう
ぼくは おおきな ぞうだぞう
『ぐるんぱのようちえん』西内 ミナミ 作 / 堀内 誠一 絵
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=63
テレビドラマ『天使が消えた街』 で、藤井フミヤが演じた自閉症の青年が、大切にしていた絵本。未視聴だが、名作らしい。
あらすじ紹介。
ぐるんぱは、ジャングルに暮らす、ひとりぼっちの大きなぞう。
「すごく きたなくて くさーい においもします」
このぐるんぱがかわいい。愛されすぎて、くたくたになったわが家のスヌーピーのようだね、れんちゃん(ときどき洗濯してあげています)。
見かねたジャングルのぞうたちが、ぐるんぱをきれいに洗って、働きに出す。
ジャンクルから出発するシーンが、とてもいい。
。
スキップするぐるんぱもいいけれど、ぱおーんと鼻を伸ばしているゾウたちがいい。
はりきるぐるんぱ。
ビスケット工場でがんばるぐるんぱ。でも、ぞうサイズだから、人には規格外でオシャカ。
結局、ビスケット屋さん、お皿屋さん、靴屋さん、ピアノ工場、自動車工場と、どこでも作るものが大きすぎて、「もう けっこう」とクビになってしまうのだ。
指導や研修の義務を怠って能力不足を理由に解雇するのは、法令違反だぞ、社長さんたち。あのな、銀座の柳も、御堂筋の銀杏も、あんたらのような労働者の敵を吊るすためにあるんやで?
ぐるんぱはしょんぼり(ドラマで有名になった、決めフレーズ)。
しかし、子どもがたくさんいるお母さんに出会って、世話をたのまれたぐるんぱは、それをきっかけに幼稚園を開くことになる。それが冒頭のピアノを弾いて、歌を歌っているシーン。
大きすぎるくつではかくれんぼができるし、大きすぎるお皿はプールになったし、大きすぎる自動車ならみんな一緒におでかけできる。大きすぎるビスケットも、まだまだたくさん残っている。めでたしめでたし。
挿絵の堀内誠一は、このほかにも数多くの絵本作品があり、谷川俊太郎との共著「ことばのえほん」シリーズ、「マザー・グースのうた」もある。「ふらいぱんじいさん」はいとこのお下がりで、幼いころの愛読書だった。古本屋で見つけて手に入れ.、今も書架のどこかにある。
私が堀内の絵本デビュー作『ぐるんぱのようちえん』を読んだのは、大人になってからだ。仕事関係だった。
この絵本を読む以前、堀内誠一といえば、『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』のデザインを手がけたグラフィックデザイナーであった。だから絵本作家だったそのこと自体に、まず驚いた。業界的には「神様」のような人であろう。私は無神論者なので、「同志スターリン」とか「偉大な首領様」とか「同志スタハノフ」という感じだろうか。最後の一つ以外は、世間的には悪口でしかないね。でも、同志スタハノフを.思い出してしまうほど、偉いお方であった。
堀内誠一の世界を紹介するこの仕事画で、私は『ぐるんぱのようちえん』の原画を撮影したリバーサルフィルム(ポジフィルム)を見た。
「えっ」と思ったのは、原画のぐるんぱが、青いゾウであったことだ。参考に買った福音館書店の絵本と原画は、全然色が違った。
絵本のほうは、現実のゾウの体色に近い灰色である。教育上、出版社が色を変更したのかもしれない。こういうことはよくある。写植のひらがなの字体が学校で習うものと違うからと、カッターで切ったのかロットリングで書き足したのかは忘れたけれど、版下入稿時に修正をお願いしたものだ。(写研の写植見本帳、どこにいった?)
原画を見た後では、印刷された絵本のぐるんぱは、まるで別人(ゾウ)であった。それはコンクリートの護岸で埋め立てられてしまったコバルトブルーの海を思わせた。
最近印刷された絵本は、原画に近づいているような気もしないではない。いや、フィルム刷版からCTP刷版、アナログからデジタルに移行して、シュッとして見えるようになっただけかな? コンクリートのように見えたのも、増刷を繰り返して劣化したフィルムの網点の焼け太りのせいだったかもしれない。デジタルはスカスカだけれど、版の経年劣化はない。
私がその仕事をしたころは、堀内さんはとうの昔に亡くなっていた。仕上がった色校を著作権継承者にお送りして、チェックいただいた。首尾は上々だった。
しかし、印刷物はしょせん複製にすぎない。またあの原画を見るチャンスがあったらぜひ見てみたいものだと思う。
ところで、堀内が澁澤龍彦編集の『血と薔薇』のアートディレクションを手がけていたことは、知っていた。しかし、小学生のころに読んだ澁澤訳『シャルル・ペロー童話集』が、70年代前半の『an・an』に連載されたものだったことを知って、また驚きを新たにした。
小学4年生だった私は、名古屋の郊外の図書館で、この本を見つけた。片山健の妖しく残酷でエロティックな装画に惹かれたのはいうまでもない。私は本書の訳者解説で、「ロリータ」「エロティシズム」「少年愛」「カニバリズム」「クリトリス」「フロイト」などのことばを覚えた。
柏木隆雄先生がエッセイに書いていた、「太鼓のおっさん」のエピソードを思い出す。
先生の幼少時代は、ネットはもちろん、テレビもない時代。紙芝居が、江戸時代の浄瑠璃、また現代のSNSのように、リアルタイムのメディアだった。紙芝居屋さんで、ずば抜けて面白く、語りも上手だったのは、太鼓を叩いて幼い客を集める「太鼓のおっさん」だったのだそうだ。
先生がお醤油のお使いに行くと、店の片隅に腰掛けて「太鼓のおっさん」が、梅酢入りの赤い焼酎をコップで旨そうに飲んでいることがよくあったという。
やがて『人間喜劇』のバルザックの国際的権威となる、貧しい生活の中でも明るく楽しくたくましく生きていた少年の純粋な目に、彼はこのように映った。
「そこには何かただ者ではない、優れた芸術家の持つ何か、紙芝居屋ではあるけれども、なにかそれが世を忍ぶ名士のような雰囲気さえ感じて、いつもその焼酎をあおる姿を印象深く眺めていたものだった」
かっこいい。大人の男だ。おれもあんな風になりたい。そんな感じだろうか。
『ふらいぱんじいさん』でひらがなを覚え、ふらいぱんさんじいさんの冒険物語を楽しんだ幼稚園児は、小学生となり、『長靴をはいた猫』でエロティシズムの扉を開いた。
本文の挿絵は、猫本専門店 書肆 吾輩堂のサイトより画像をお借りしました。
https://wagahaido.com/shopping/21846
『青ひげ』の挿絵はいま見てもゾワゾワする。
私がよく使う、マルクスの格言のパロディ「非人間的なもので、私に無縁なものは何もない」は、直接には、晩年には反共に転落してしまったらしいグリュックスマンのことばだけれど、原点にあるのは、この『ペロー童話集』である。それだけ本書のインパクトは大きかった。
私にとって堀内誠一という人は、松阪の紙芝居のおっちゃんのように、人間と社会が、昼と夜で顔が異なることを教えてくれた「大人の男」だった。
(余談。昨年、卒論のテーマに澁澤龍彦を選んだという若者に出会った。澁澤がライトノベル原作の劇場版アニメのラスボスになったのにも驚いたが、学術研究の対象になるのにもさらに驚いた。バタイユ全集も出しているし、十分に資格があるとは思うのだが……。『少女コレクション』からの『ローゼン・メイデン』、そして夜汽車さんのイラストについて語りたくなったが、それはまたの機会に)
そういう本があったのですか。知りませんでした。澁澤龍彦とか三島由紀夫とかは思春期のうちに通過しておくものだとばかり思っていたので。驚きです。貴重な画像upありがとうございます。
ではでは。
狼がベッドで全裸の赤ずきんを押し倒すイラストなどもあって、昔はゾーニングもゆるゆるでしたね。
しかし、堀内誠一と片山健の絵を同一エントリで見られるのは、このブログくらいでしょうねー。