新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

[追悼 岡田嘉夫]マルメロ草紙』と岡田嘉夫の世界

2021年02月18日 | 文学少女 五十鈴れんの冒険
[今回のテクスト]
『マルメロ草紙』橋本 治/岡田 嘉夫(集英社)


[登場人物]

アリナ・グレイ Alina Gray
高校1年生。16歳にして様々な賞を受賞している天才芸術家。高校の美術部に所属しているが、後輩の御園かりんいわく「はみ出し者」らしく、普段は一人で黙々と絵を描いている。 生と死というテーマに取り憑かれ、スランプ時は自分を題材にしたこともある。マッドアーティスト的傾向があり、エキセントリックな言動も目立つ。


五十鈴れん
中学3年生。小さい頃から内気で、人と話すことが苦手。御園かりんにアリナを紹介され、商店街のクリスマスイベントを一緒に手伝った。岡田嘉夫画伯には、父に連れられた歌舞伎公演でご挨拶したことがあり、画伯が表紙絵を手がけたプログラムにサインをもらった。画伯と橋本治の共作の歌舞伎絵本『国性爺合戦』がお気に入り。

五十鈴九郎(お父さん)
ひとり娘のれんを溺愛する、コロナで隔日勤務の会社員。あるパーティで岡田画伯に出会い、献呈した著作が気に入られたらしい。美術関連の仕事もしたことがあり、アリナ・グレイも出品したコンクールの審査員を務めた。



(1)アリナが来たりて『死者蘇生シリーズ』

アリナ コンチワ。

れん ぁ……グレイさん、ぃらっしゃい。今日はかりんちゃんは、一緒じゃないんですか?

アリナ アリナとフールガールはセットじゃないワケ。ダディいるヨネ?

れん はぃ、ぉります……。ぉ父さん、グレイさんが、ぃらっしゃいました…。

アリナ ども。はじめましてだヨネ?

お父さん はい、お初にお目にかかります。本日はようこそいらっしゃいました。

アリナ ブックがメニーメニーだネ。これ全部、ムッシュ・オカダのブック? 

お父さん あなたが先生をリスペクトしていると聞いて、用意しました。偶然ですが、岡田先生が亡くなった日の夜、先生が夢見に立たれたので、少し話を聞いてほしいと思ったんですよ。

アリナ アンダスタンド。でも、アリナがお願いした本がないんですケド?

お父さん そうだ。失礼、お貸しする前に、部屋の撮影ボックスで写真を撮っていたもので。

アリナ 撮影ボックス?  ふだんアリカリに出品でもしてるワケ?

お父さん この本はお持ちの方が少ないので、著作権に触れない範囲で、ご関係者に画像でシェアしようと思いました。れん、悪いけど、あの本多取りに行ってきてくれる? 普段は、老眼で文字入力が辛くなってきましたから、テクストを写真に撮って、OCRでテキスト化するのに使っています。

アリナ ようやく二人きりになれたネ。

お父さん その節はどうも。

アリナ 審査委員に、アリナの金賞に一人だけ反対したフールガイがいたって聞いて、アンビリバボーだヨ。作品に使うつもりで冷凍してたキャットのボディからヘッドをセパレートして「死んだら感謝してヨネ!」ってデリバリーしてやったら、ボーンボックスと一緒に返ってきたこの手紙のことだけは絶対忘れられないワケ。ほら!

 「あなたの作品は見る人が死ぬまで考えてしまうような美しさと難解さにあふれています。しかし外なる世界にも、内なる自分にもテーマ持たないあなたの作品は、他者を狂わせ、自らも溶かしかねない劇薬でしかありません。十五歳を過ぎてなお自覚がないなら、あなたの輝きはそこで尽き、すぐに燃え尽きてしまうでしょう。これが私があなたの受賞に反対した理由です」

お父さん 知り合いに審査委員頼まれただけなのに、差し出がましいことをしてしまいました。しかし猫の生首とは、革マル派のナーバスを思い出して、懐かしくなりましたよ。私が書いたとおり、胴体と一緒に埋めてあげましたか? それとも死んだ生き物の遺灰で描いた「死者蘇生シリーズ」の続きにしちゃいましたか? 墨や有機顔料もしょせんは生物の変化したもので、無機顔料も結局は星のかけらです。青臭い能書きがあるだけで、あなたのしていたことは単なる生命の尊厳への冒瀆だけです。

アリナ ヴァァァアアアッッッ!! そうじゃ・・・ないだろぉぉぉ! 

れん ひ、ひぃっ! ど、どうしたのでしょう…か?

お父さん いや、いまのは私が悪かった。謝罪します。表面的な類似で、天才芸術家を、凡庸なカルト集団と一緒にしたのは誤りでした。あの後にあなたが発表した「争いのない完成品」は素晴らしいものでした。体中が絵の具だらけでキャンバスの木片が散らばっているあの自画像は、外なる世界にも内なる自分にも妥協せず、全存在をもって対峙する誇りに満ちた傑作でした。

アリナ 勝手に酔い痴れて勝手に評価してヨネ。アナタの手紙読んで、アリナはエンプティって気づいたから、あの絵が描けたのはファクトだケド。

れん はぃ、グレイさん、これがご希望の岡田先生のご本です。





(2)『マルメロ草紙』 岡田画伯の思い出

アリナ サンクス! ムッシュ・オカダのこの本、アリナがこの本の存在を知ったときにはソールドアウトだったんだヨネ。

 『マルメロ草紙』橋本 治/岡田 嘉夫(集英社)

お父さん 岡田先生は、グレイさんが尊敬する数少ない現代画家でしたね。

アリナ イエス。モーニングヨミウリでムッシュのデスを知ったんだよね。ダディの読んでるアサヒもマイニチもニッケも書いてなかったヨ。ゴミね。

お父さん ああ、岡田先生と親しかった女性ジャーナリストが、読売の人でした。美人でかわいらしく優しくて頭が良くて、奥様と同じタイプの方とお見受けしました。

アリナ アリナはそのヨミウリ美人が書いたアーティクルを読んで、『マルメロ草紙』をリメンバーしちゃったんだヨネ。ユースドブックストアのリトルガールに聞いたら、五十鈴れんのダディがムッシュ岡田の知り合いで、この本も持ってるって聞いたワケ。知らない仲じゃないカラ、連絡してもらったんだヨネ。


れん 稀覯本、とぃうのでしょう…か? 恐れ多くて私もぁんまり見たこと、ないです…。いまテーブルにあるご本は、読ませてもらったけど…はぃ。

お父さん 稀覯本といえばそうなるのかな。150部限定で、定価3万5千円、消費税と送料で1冊4万円近くだった。

アリナ ワオ!

れん よ、よんまんえん?

お父さん 驚くことはない。原価だけで桁が一桁、原稿料や画料、デザイン料、出版社の取り分を入れたら二桁ちがってもおかしくない。安い買い物だと思ったよ。『世界一美しい本を作る男 シュタイデルとの旅』に、限定300部1冊1万ドルの写真集の話が出てくるが、この本はそれと同等か、それ以上の価値がある。

アリナ はあ〜〜〜(ひたすら絵を見ている。話は聞いてない)

れん どんなお話なの?

お父さん えーっと、ストーリーはこうだね。iPad貸して? 売り切れで取扱は終わっているが、ネット書店の紹介ページはまだ残っているはずだ。ほら。


 「時は二十世紀初頭の巴里。ブーローニュの森近くの瀟洒な屋敷で暮らす大実業家エミール・ボナストリューと慎ましやかな夫人のシャルロット。
その妹で、貞淑な姉とは対照的な生き方を求め、華やかなパリで女優を目指すナディーヌ。
その館に陽に灼けた美しいショーマレー中尉が招かれた後、ボナストリューとナディーヌに、そしてシャルロットの心にも、波風が立ち始める。
そこへ、パリ社交会の中心に座す、エナメルで固めたような美貌で名高いヴェルチュルーズ侯爵夫人の仮装舞踏会から、招待状が届く。
ロダン、ジャン・コクトー、ニジンスキーなども登場して、館の大広間で繰り広げられる仮装舞踏会。扇情的な異国の音楽が奏でられ、エミールとナディーヌに、そしてシャルロットと侯爵夫人、ショーマレー中尉にも官能の波が押し寄せる。
アールデコ様式全盛の時代、煌めきに満ちた女性たちの甘酸っぱく、香気に満ちた物語。
限定150部。シリアルナンバー入り。岡田嘉夫氏描き下ろし美麗画付。
【体裁】B4版、上製、紙クロス装、箔押し美麗本。

れん すごーい!『フランス文学入門』の柏木先生が喜びそうなぉ話だ…ね!

アリナ チョーエキサイティングでゾクゾクするぅ……フフッ、アハハハハ……!!

お父さん 喜んでもらえて何よりです。インスピレーションは湧いたかな?

アリナ イエス!

お父さん この本の印刷は、私が過去見たことがある中で、五本の指に入るハイレベルな仕事です。印刷したのは、日本で一、二を争う印刷会社ですが、中の人に聞いたら、こういう会社のアピールにはなるが面倒くさい仕事は、研究開発費で全部下請けに丸投げだそうですよ。版元も印刷会社も、二人の大先生に出血大サービスだったのでしょう。
あるパーティで、その本が見本に置かれていて、「あなた、むかし出版や印刷の仕事もしてたんでしょ? あなたに頼んだら、この本おいくら?」って聞かれました。そうそう、先生はおねえことばなんです。

アリナ ハア〜サイッッッコ~~~!!!!!」(再び絵に見とれていて聞いていない)




れん ぉ父さんは、ほんとは四十万円はするって、考えたんだよ…ね?

お父さん デザイナー、製版所、印刷所、製本所、どれも一流どころを揃える必要があるからね。私のフィーも15%は必要だ。大手出版社や大手印刷会社なら他の仕事も出しているから下請けの値段を思い切り叩けるだろうけれど、私はイチゲンのスポット客だから、正規料金を支払わなければ相手にしてもらえない。頭の中でソロバンを弾いて、「しめて6000万円、一冊あたり40万円です。しかし一億いただいても、割りに合わない仕事だと思います」とお答えすると、先生は愉快そうに笑っていたよ。これは原価で、橋本治の原稿料と岡田先生の画料、版元の取り分は入っていない。

れん それで四十万円だっていったんだね……。シュタイデルさんの一冊一万ドルもすごいけれど。

お父さん 日本の富裕層は、馬鹿な世襲ばかりで、文化や教養を備えた人が少ないから、シュタイデルの商売は成り立たないだろうなあ。四十万が百万でもほしい本だが、ローンがきかないと厳しいね。
しかしシュタイデルの写真集も、手間暇はかけているが、こんなやややこしい仕事はやっていないと思うよ。この本は特色インキをふんだんに使っているけれど、それだけではこの鮮やかで力強い色は出せない。「どうやったんですか?」と聞いたら、ハンマーで裏からアルミの版をトントン叩いたそうだよ。版が盛り上がれば、それだけゴムのブランケットに圧がかかってインキが紙にたくさん転写される。いまどき誰もやらない荒技をやらせている。

アリナ ワオ、ハンマーでストライク! エキサイティング!

お父さん 昔はそういうやり方もあったと、印刷所のおじいさんに聞いたことはあります。この本を出したころには印刷もAIでデジタル管理の時代でしたし、「いまどきそんなことをやる印刷所はないが」とおじいさんにその話を聞いたのは二十年以上前です。先生は印刷の仕上がりに不満で、言い訳を繰り返す印刷会社の営業さんにブチ切れちゃって、「文句いわないの!版を叩けばいいじゃない!」と言い出してやらせたそうです。そうなんですよ。先生が現役のグラフィックデザイナーだった半世紀前と今とで、オフセット印刷の原理や機構そのものは変わりませんからね。インキを盛りたければ版を叩けばいいんです。正解ですがメチャクチャです。
印刷所も無茶をしたものです。しかし、気持ちはわかります。タダっ子ですがピュアで憎めなくて、どんなわがままでも聞いてあげたくなるんですよね。実際、世の中の大抵のことは、お金と時間と体力さえ惜しまなければ解決します。
でもね、この本、一つだけ惜しむらくは……

アリナ ストーップ! ノー・タッチ、ノー・タッチね、OK?



お父さん ははは、たしかに手垢まみれ脂まみれになったらいけないですが、印刷の仕上がりを見るには手触りも重要な要素なんですよ。
何か何まで素晴らしいこの本なのですが、一つだけ難点をいえば、指で触れてみるとわかりますが、ところどころザラザラしています。インキの裏写り防止用のパウダーが残ってしまっているんですよ。
これは、さっきの印刷所のおじいさんに教えてもらいました。この本を見せたら、「べっぴんさんやが、この娘は鮫肌やな。抱いたら美人も形無しや」と一言、ボソリでした。「鮫肌ってどういう意味ですか?」と聞いたら、こういうベタベタな仕事はパウダーをふんだんに使いますから、印刷が終わったらパウダーを除去するために印刷機でから回しするんだそうですよ。ゴムのブランケットに空回しして、紙の表面に残ったパウダーを吸着させる。その仕事が不十分で、UV印刷みたいに表面がザラザラしているって、おじいさんは残念がっていました。ザラツキが残ると、光を乱反射してしまい、ちょっとぼやけた感じになってしまうんだと。先生にこの話をして、「歌舞伎絵本の方が、最後の仕上げはいいし、お安く手に入るところはいいですねえ」と思わず本音をつぶやいたら、大激怒です。しばらく会っても口もきいてくれませんでした。

れん えーっ。先生いつもニコニコ、やさしかった…よ?

お父さん 「子はかすがい」というやつだねえ。あの日れんちゃんを連れていってからだね、また口をきいてくれるようになったのは。
おじいさんや私が残念がったのは、印刷の最後の仕上げに関する部分で、先生の絵も素晴らしいし、物語もおもしろいし、デザインもクオリティが高い。たとえばこのページの男女の女の人、肌がパープルでしょ?





アリナ ワンダホー! ムッシュ・オカダは、人類の肌の色が白とか黒とか黄色とか常識に縛られないワケ。ハア〜…はぁ、ぞくぞくする!!!!!」


お父さん でもそれはね、デザイナーがオリジナルの肌の色をデジタル処理で勝手に変更してしまったものなんです。岡田先生の描いたオリジナルの色は、次のページのこれだね。この女の人は、前のページと同じ女性です。





アリナ ホワッツ? ハア〜〜〜!? 人の作品に手出すとか、それギルティーなんですケド!?

お父さん 岡田先生も激怒していました。しかし怒り方がいかにも先生らしくて、あれはおかしかった。「でもあたしがいちばん頭来たのは、こっちの方がいいってことよ!」って怒りながら笑っていました。「デザイナーに負けた」とくやしがり、面白がり、喜んでいました。
「北斎の肉筆画はつまらない。やはり北斎は木版画に限る」が先生の持論でした。絵師と彫師(ほりし)と摺師(すりし)の三位一体があって、初めてあの北斎の傑作があるというんですね。いまでいえば、絵師はアーティスト、彫師はデザイナーや製版所、摺師は印刷所です。

アリナ イエス、アリナの画集を出したいなら、製版所も印刷所も、アリナの美の奴隷になって完全服従してもらわないと困るワケ。

お父さん その点で、グレイさんは岡田先生より北斎に近いのかもしれませんね。私は大阪市立美術館が所蔵する『潮干狩図』が好きだし、晩年の肉筆画もいいじゃないかって思いますよ。しかしまあ、錦絵の方が面白いのは確かですね。浮世絵の魅力は、絵柄だけでなく、雲英摺り、から摺り、あてなしぼかし、きめ出し、彫りや擂りの力も大きいですからね。
北斎が晩年肉筆画に傾いたのも、後進の広重に人気が出たからだといわれます。北斎はこだわりが強く気むずかしかったけれど、広重は作品どおりに気さくでおおらかな人で、版元も仕事を頼みやすかったんですね。彫りや摺りにも口をはさまず、自由に仕事をさせたようです。だから腕のよい彫り師や摺り師が集まってきて、腕を競いました。結果として、私の見てきた限りでは、彫りや摺りの傑作も、北斎より広重の作品の方に数が多いのではないですか。
浮世絵の注文が少なくなった北斎は、肉筆画に新しい境地を求めるしかありませんでした。
岡田先生も、広重よりは北斎に似ているかな。田辺聖子の挿絵で活躍したところは、北斎が馬琴とタッグを組んでいたことを思い出させますね。令和の中高生にはもはや古典ですが、いとうのいぢのイラストがなければ『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒットはありえなかったように、逆にあの作品に出会っていなければ彼女のいまがなかったように、馬琴と北斎、田辺聖子と岡田嘉夫は完全に共犯関係でした。還暦を迎えられてから以降は、橋本治とウマが合ったようで、歌舞伎絵本シリーズを刊行されました。この二人の出会いは、文学界と美術界の孤独な巨大彗星どうしの、ニーチェのひそみにならえば「星の友情」でした。しかし橋本さんとの共作もこの2013年の『マルメロ草紙』が最後で、自分でデザインしたシャツの写真集は出されていましたが、絵の本としてはあの仕事が最後ではないでしょうか。先生は現代の浮世絵師として、現代の彫師や摺師たちともっともっと仕事がしたかったはずです。新作の構想も私は聞いています。残念です。


(3)ある老技師のはなし 岡田嘉夫の「魔眼」のなぞに迫る

アリナ 生きたらグッドで死んだらバッド、ふたつにひとつなんてB級ムービーの発想だカラ。あのムッシュ・オカダが本当にこの世からデスしちゃうなんてありえないヨネ。 アートの本質は、デス・ビヨンド・ライフなワケ。
いまだってほら、ムッシュの本がメニーメニーで、エキサイトしちゃう……ワオ! このリトル・ヴァイオレットのパーフェクトボディ! まだジュニアハイスクールのエイジなのに、十九歳のみふゆにも負けてないネ。それにこのディンジャラス・ヒップ! 「ウーマンのビューティはボトムにコレクトされる」って、ジュコー・ニシムラもいってるワケ。

お父さん 「女の美は尻に集約される」って、どうして令和の高校生女子が昭和のバイオレンスロマン作家の迷言を知ってるかなあ。あなたはいろいろ謎の多い人ですね。
その本は田辺聖子との共著の『絵草紙源氏物語』ですね。この本の「若菜」の光源氏を見てください。

アリナ AH〜〜〜ビューティフル!

お父さん 妻の女三の宮と柏木の不義密通に気づいた源氏が、「柏木が老人を笑っておるわ」と強烈な皮肉をいう場面です。このあと、柏木は死の病に伏せるわけですが、こんな恐ろしい目で見据えられたら生きた心地もしなかったでしょう。氷柱で心臓を剔られたようなものです。「邪視」とか、最近のエンタメ作品では「直死の魔眼」といいますが、こんな恐ろしい魔眼を描ける現代画家を、私は岡田先生以外に知りません。この『雨月物語』の「白峯」の崇徳院も同じように描かれています。
ああ、歌舞伎絵本もいいでしょう? 百人一首の本でも、古典まんだらでも、どれでも好きなの借りていってください。

アリナ そういえば、ムッシュの夢を見たんだヨネ? アリナ的にはフロイトには興味ないケド、ユング的な話なら聞いてもいいかと思ったワケ?


お父さん 先生の亡くなった日の夜に、先生の夢を見る。共時性という意味では、ユング的な話かもしれませんね。
夢に出てきた先生はこういったんです。不機嫌そうでね。

「暮れに何か贈ってくれたけど、悪いわね、まだ食べてないのよ。あれ本当においしいの? それよりね、あれだめよ。あんな漫画の話より私のこと書いた方がよかったわよ。そういうこと。じゃあまたね、わたし忙しいから」

そう、暮れのご挨拶をしたんですが、いつもなら来るユニークなデザインのえはがきが来なくて、心配していたんです。実際、胃の調子が悪かったようで、ありがた迷惑だったでしょう。胃がんが見つかって、誰にも相談せずに手術することに決めたそうです。それが裏目に出た。相談してくれたら、先生、高齢ならがんの進行も遅いから、無理しないほうがいいですよってアドバイスできたでしょうね。しかしまた怒らせて終わりだったかな? おいしいものが大好きで、歯も丈夫で、小魚も骨ごとバリバリ食べたいのに、ホームの人はきれいに骨を処理しちゃうと残念がるような人でしたから。胃を治して、元気になって、またおいしいものを食べまくりたかったのでしょう。
その日は日曜で、グレイさんの後輩さんが訪ねてくれました。フールガール? いえいえ、楽しい子でしたよ。彼女が私を訪ねてきた目的は別にあったようで、れんに話を聞いて、チラシの裏にその日彼女と話したことをメモにまとめきました。誰が読むわけでもないのですが、岡田先生とさっきの印刷所のおじいさんのエピソードを割愛してしまいました。それが心残りになっていたようです。だから岡田先生の夢を見たんでしょう。

アリナ いまのトーク、インタレストあるから、全部話した方がいいと思うワケ? 

お父さん ヴェルレーヌの「秋のうた」で、上田敏訳では「ひたぶるに」、藻風訳では「ひといろの」と訳された、「Monotone」について説明した箇所です。「トーン」つながりで、漫画を描いている後輩さんのために、スクリーントーンの話を取り上げ、『ちはやふる』の話をしました。彼女の反応のよかったこの話は残しましたが、「私の愛する老画家と老職人」の話は難しそうな顔をしていたので省略してしまったのです。
 「モノトンヌは、スクリーントーンがそうであるように白と黒のニ階調であるわけですから、たんなる「ひといろ」、たんなる単色ではありません。しかし、このことばなら、無色に近い陰翳のニュアンスは出せる」
 という文章の前後で、岡田先生と、印刷所の老技師の話をしていたんです。

れん ぅん、していたね。岡田先生も、印刷所のおじいちゃんも、「奇跡」の眼の持ち主だった、って。

お父さん 最近、ある少女漫画の大家の近作を読みました。流麗な絵を描く方だったのに、画力の衰えがあまりにも激しくて、目を覆いたくなりました。しかし画家や漫画家の生命である眼の水晶体は加齢とともに衰えるので、これは避けられないむごい現実です。
しかし岡田先生はなぜかそういうことがなかったんですよ。老いてますます鮮やかにあでやかになっていきました。『マルメロ草紙』はもう八十歳目前でしたし、最近もパーティの案内チラシや、お芝居のポスターやプログラムのために描いていた作品も、全く衰えを感じさせませんでした。こういうお方は、あまり見たことも聞いたこともありません。
私の知っている限り、加齢による衰えを感じさせなかった人がもう一人いて、もうお亡くなりですが、「鮫肌やな」といったおじいさん職人でした。

アリナ 凡人には天才は理解できなくて当たり前だヨネ。でも、いまの話とムッシュ・オカダの夢がどうつながるワケ?


お父さん 写真家はRGBのホワイトバランスで、印刷技師はCMYのグレーバランスで色調が正しく再現されているかどうか判断します。色の三原色の減色混法、色の三原色の加色混法はご存知ですね。

アリナ アリナに講義は不要だカラ。続きを話してネ。

お父さん 理論的には、C、M、Y、シアン、マゼンダ、イエローの3原色インキを同比率、50%ずつかけ合わせたら、グレー、無彩色、モノトーンになるはずです。しかしこれは絵の具を混ぜた場合も一緒ですが、実際の印刷ではグレーになりません。マゼンダが勝って、やや赤みを帯びます。だから製版段階で、いちばんパンチの弱いCに対して、M、Yの網点%を減らしています。
しかし製版でトーンを調整しても、印刷現場にいけば、刷りのよしあし、あと温度や湿度によってインキに変化が起きて、濃度が変わったり、網点が太ってしまったりして、グレーバランスがくずれて、赤っぽくなったり青っぽくなったりします。「そんな単純なもんちゃう」とおじいさんには叱られそうですが、スミ単色の50%の場合と、CMY3色を50%ずつかけ合わせた場合がぴったり一致するように、インキの流量やら何やら調整してやらねばならないわけです。
色を判断するのに、色を見てはいけないんですね。印刷技師はグレーのバランスで判断する。「色仕掛け」とか「色狂い」とかいいますが、色は人を惑わすものです。印刷物の余白に付けられたカラーパッチのグレーバランスで、きちんと刷れているかどうか確認するのです。

アリナ ハア〜サイッッッコ~~~!!!!!」(また絵に見とれていて話は聞いていない)

れん 先生の眼は、普通の人とは違っていたのか…なあ。

お父さん その可能性もゼロとはいわない。先生が常人とは異なり、加齢による水晶体の衰えを見せない、文字どおりの「魔眼」を持っていた可能性もなくはない。しかし医学的科学的には考えにくいね。
先生の絵のタッチが、晩年にかけて、さらに鮮やかにあでやかになっていったのは、視力の衰えから、より強いコントラストを求めるようになっていたからかもしれないね。そして、それは自らの老い、加齢による視力の衰えに抗うものではなかったのだろうか。
加齢による水晶体の衰えにより、特に寒色系の色の網膜への到達率は、老人は子どもの三分の一程度に低下するというんだよ。十代のきみに見えてる世界と、中年の私に見えてる世界と、高齢の先生に見えてる世界は全然違うものなんだ。先生も色の識別は年々むずかしくなっていただろうが、しかし、絵の具のチューブには色番号が書いてあるから、永年の経験で望みの色を描くことができたにちがいない。
しかし、視力が衰える中で、どう色のバランスを判断していたのか、カラーマネジメントしていたのか。モノクロ写真をカラー変換するサービスがあるけれど、その逆で、老技師がグレーバランスで色を判断していたように、トーンの強弱から色を判断されていたんじゃないかな?
「色は光と闇の出会うところから生まれる」といつか話したね。ヴェルレーヌのいう「モノトンヌ」、光と闇、白と黒のおりなす、グレーの陰翳のあわひから色が生まれる。モノトンヌは藻風の訳した「ひといろの」でないのはもちろん、上田敏の「ひたぶるに」でもないわけだけれど、先生に限ってはまさに「ひたぶるに」と訳すのがふさわしかったように感じるな。老化で衰える眼のレンズを振り絞って、水晶体が引きちぎれるくらいに画面を見つめ、ひたすらにいちずに陰翳の中に望みの色を求め続けておられたのだろう。
以上は想像で、実際、先生はどうやって色を選び、色を判断しておられたのか、私にはわからない。いつか聞いてみたいと思いながら、結局聞けずじまいだった。最後に電話がかかってきたのは、コロナによるイベント中止のお知らせで、また落ち着いたらお目にかかりましょうと約束したのが最後になってしまったね。


(4)『マルメロ草紙』よ岡田嘉夫よ永遠に あるいは「愚」(おろか)という貴い徳について

れん ねぇ、ぉ父さん、このご本、売り切れで、単行本や文庫で出せないのかなぁ…? 先生のご本、もっと多くの人に読んでほしいよ…。読んでもらえないの、さびしすぎる…よ…。

お父さん 印刷所に版のデータが残っているはずだと思うけれど、またもう一度作るのは大変そうだねえ。しかし特色インキのところとか、トカトントンとか、先生こだわりの部分は完全に再現できなくとも、とりあえず本の形にはなるだろう。本を一冊解体して、撮影なりスキャンして、復刻することもできなくはない。
しかしこの本はテクストとビジュアルがデザイン的に完全に一体化しているから、文庫サイズはむずかしいだろうなあ。単純に縮小しただけでは読めなくなっちゃう。この本はB4サイズだから、このフォントの大きさなら縮小してA4までが限界かな? B5以下は文字が読みづらくなってしまうね。豆本という文化もあるわけだから、おしゃれなルーペ台とセットで売り出すとか、Blu-rayにデータを焼いて4Kテレビで楽しむとか、そういうことはできるだろう。小説は小説で、別に文字起こししてくれたらありがたいかな。
先生の新作は、『今昔物語』をテーマに、この本ではいわゆる活字、フォントを使っている部分を、全部自分の手書きにして本を作ることだったんだ。

アリナ ムッシュ・オカダの新作? 

お父さん ええ。スポンサーさんを探したんですが、不首尾に終わってしまいました。先生はがっかりされていました。もっとお力になりたかった。

アリナ あ〜あ〜あ!全然エキサイトしない! センセーショナルじゃない!

お父さん あるパーティのスピーチで、先生は谷崎のデビュー作の『刺青』の冒頭の一文にある『愚』(おろか)と云う貴い徳」について力説されていました。「愚」は、常識に縛られないとか、嬉しいときは笑い悲しいときは泣き、打算でなく心の命じるままに生きるとか、子供の頃は誰しも持っていた美しい心根のようなものでしょうか。
谷崎の『刺青』の書き出しの全文は、「それはまだ人々が『愚』と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」でしたが、先生が子どもだった戦前戦中は、この正反対でした。戦争に向かう軍服だらけの「茶色い時代」で、ビードロとかクレヨンとか、自分の好きだった美しいもの、きれいなものが完全否定されてしまった。あの時代への怒りが、自分がデザインの仕事をして絵を描く仕事の原点になった。先生は大体そういう意味のことを語っておられました。

アリナ アートはデス・ビヨンド・ライフだケド、ムッシュ・オカダがいなくなって、アリナの楽しみが一つ無くなったのは事実なワケ。

お父さん 私もです。すごい人ですよね。『サロメ』のビアズリー、「画壇の悪魔派」といわれた初期北野恒富、谷崎に見出され乱歩の装画を手がけた宮田雅之、偉大な画家たちの系譜に直接連なる偉大な芸術家でした。そんな偉い先生と一緒に、船遊びをしたり、お酒を飲ませてもらったり、親子丼をおごってもらったり、遊んでもらっていました。子どもの頃から読んでいて知っていて、岡田先生挿絵の石川淳の『新釈雨月物語』は青春の書で、壮年期に源氏の仕事をして、岡田先生の知遇を得ることができました。直接お目にかかってご交誼いただけたのは、先生の人生の晩秋から冬にかけてのほんの短い時期でしたが、私は人生の春に出会った先生に、人生の秋を過ぎたいままで、ほぼ人生のすべてで先生の作品が傍にあり、この天成の傾き者に鼓舞され続けてきました。
岡田先生が亡くなって、いまはただ寂しく、悲しく、くやしい限りです。一つの時代が終わってしまった。古きよき谷崎の大阪といまを繫ぐ糸がプッツリと切れて、マスクだらけの息苦しい時代に取り残されてしまった。あなたの新作のタイトルは『静かなる人類の報酬』でしたね。「愚」という貴い徳を忘れた従順な静かなる人類に与えられた報酬は、COVID-19という地球から人類というウイルスを駆逐するためのワクチンでした。今日はグレイさんとお話できて、本当によかった。

アリナ こちらこそサンクス。この本、アリナの作品おいてるミュージアムに、永久貸与してくれるんだヨネ? アリナたちの作品を見にきたギャラリーやアーティストは、ムッシュのこのブックを手に取って、本物の美に触れるワケ。ダディは否定したけれど、これもアリナの「死者蘇生シリーズ」の新たなる一章だヨネ?






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