本屋に田辺聖子の『新源氏物語』が並んでいました。
なるほど、大河ドラマ『光る君へ』が始まったのですね。
貴族社会では低い身分だった安倍晴明が天皇ともパイプのあるフィクサーだとか、藤原道長と紫式部が幼なじみだったとか、史実にない、ありえない設定てんこもりのようですね。飾られた漢画が清代のものという、調度品のミスをツッコんでいる人もいました。
史実を無視した荒唐無稽なストーリーが許されるなら、いっそのこと、Magica Quartet監修で、紫式部は実はあの白い淫獣と契約した魔法少女だった! という歴史ダークファンタジーでよかったのではないでしょうか。能に『源氏供養』がありますが、中世には、紫式部は『源氏物語』に狂言綺語を記して好色を説いた罪で地獄に落ちたと信じられていたわけですからね。
戦後の源氏物語ブームを振り返れば、『潤一郎訳新訳源氏物語』(1951~53年)、『潤一郎訳新々訳源氏物語』(1964~65年)、円地文子『源氏物語』(1972~73)、『あさきゆめみし』(1979~93)、田辺聖子『新源氏物語』(1978~93)、瀬戸内寂聴『現代語訳源氏物語』(1996~98)などがエポックメイキング的な現代語訳作品でしょうか。そして源氏関連本が多数刊行された2008年の源氏千年紀です。
このなかでいちばんわかりやすいのは、宝塚歌劇の原作にもなっている、田辺源氏と『あさきゆめみし』でしょうか。潤一郎訳は原文に忠実な訳であると同時に谷崎オリジナルの作品でもあるという、マニアックな上級者向けですから、初めての人にはあまりおすすめしません。
しかし、結局、どの訳も、初めて源氏物語の現代語訳を手掛けた与謝野晶子訳に及ぶものではありません。現在は角川文庫に収録された完訳版(1938~39)は、著作権も終了したパブリックドメインであることから、青空文庫でも読むことができます。
この完訳版は、中央公論社が派手に広告を打った谷崎源氏のヒットに隠れ、晶子の生前にはほとんど売れなかったそうですが、わかりやすさでは最も定評のある訳です。
しかし晶子訳でも、おすすめなのは、この完訳版より、歌人としての円熟期に晶子が初めて訳した『新訳源氏物語』(1912~13年、角川ソフィア文庫)です。抄訳版ですが、100年以上前の翻訳でありながら、いちばん新しい訳ではないかと思います。
幼いころから三味線や日本舞踊などの古典芸能に触れてきた晶子は、おそらく源氏物語も原文を諳んじていたのではないかと思います。新訳版のまるで鈴を転がすように美しく気韻に満ちたことばの調べは、ことばの意味以前に、原文のリズムがからだに身についていたことが大きかったと思います。
2008年の源氏千年紀のころには、これらの現代語訳は一斉に増刷されたものです。今回はそこまでのブームではないようです。私の本にも増刷の声がかかるとうれしいのですが、無理だろうなあ。期待しないで待っています。
日本を代表する古典文学といわれながら、源氏物語ほど読まれていない作品もめずらしいですね。宇治市が主催する紫式部文学賞受賞作家が集まったトークイベントで、源氏物語を読んでいたのは、司会の俵万智氏ひとりだけだったという、笑えない話もありました。
まあ、「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」で、源氏物語は和歌を詠むためのもので、全文を読む必要はなく、梗概書(ダイジェスト本)で読むのが当たり前でした。第一部の前半は、光源氏のモデルであり、紫式部のパトロンでもある藤原道長のプロモーション小説のようなものですから、いろいろ割り引いて読まねばなりません。いわゆる須磨帰りで終わる人が多いのですが、「若菜を読まねば源氏を読んだことにならない」(折口信夫)と私も思います。田辺聖子のダイジェストでも『あさきゆめみし』でもいいので、ぜひ最後まで読み通してください。
トップ画像は土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1527722
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一年前の今日は、落語のはなしについて書いていましたね。
「鬼の面」はなぜ江戸落語に移植されなかったのか
伊藤晴雨『江戸と東京 風俗野史』はいい。ただし、この本には索引がない。索引がないのは不便である。何かを調べるために手に取ることはなく、仕事の合間の息抜きに眺めていることが多い......