『反骨の画家 河鍋暁斎』狩野博幸/河鍋楠美(新潮社 とんぼの本)
とんぼの本には、時々ものすごいヒット作がある(これはあくまでも個人の感想です……テレビのCM風。べんりなことばだなあ)。しかしこれはぜひ持っていたい一冊。せめて町の図書館に入れさせよう。
表紙にも使われている、《化け猫》(1870年以前)が素晴らしすぎる。突然出現した巨大ネコに、驚いて腰を抜かす男ふたり。宮沢賢治の『注文の多い料理店』のエンディングのようだ。賢治の山猫たちも、ツシマヤマネコのような野生猫というより、猫またの末裔なのだろうと再発見。
目次ページの《動物図鑑》(1878年)に、人間の生首をくわえたキツネが出てくる。「藤原新也の『メメント・モリ』だ!」と、ひとりでガッツポーズ(なぜ?)。あの「ニンゲンはイヌに食われるほど自由だ」という名コピーがついた、インドの荒野で人の足をくわえたイヌの写真を思い出したのだ。
浮世絵師・歌川国芳に入門した暁斎少年には、1839年(天保10年)、神田川を流れてきた生首を、写生するために持ち帰ったというエピソードがある。当時9歳。大騒ぎになり、元の場所に持ち帰り、写生してから手厚く葬ったという(結局写生したところがすばらしい)。
放逸な国芳の行状がわが子に与える悪影響を心配した父により、今度は狩野派の前村洞和に再入門させられた。当時の大名のお抱え絵師の9割は狩野派だから、バリバリの体制派。浮世絵と狩野派、両方に入門した絵師はめずらしいという。師の洞和は暁斎を「画鬼」とよんでかわいがったそうだ。
暁斎は漢画、狂画、浮世絵、俳画それぞれに腕を振るって人気絵師となる。しかし、1870年(明治3年)、政府批判のかどで逮捕投獄。最初の師の国芳のように徹底した体制批判の反骨の絵師だった。
鳥獣戯画の伝統を受け継いだ動物を描いた絵もいい。相撲を取ったりタバコを吸ったりする蛙たちを美女が眺める《美人観蛙戯図》、幕府と長州藩の戦争を蛙合戦に見立てた《風流蛙大合戦之図》など、墓石にするほど好きだったカエルを描いた絵はどれも楽しい。1887年のブロンズ像の《鴉天狗》もグッズ化したら人気が出そうだ。
《放屁合戦》が男同志の愛をテーマにしていたというのは、「へえー」とつぶやいた後に、その巧まざるオヤジギャグに自己嫌悪。ただ、民俗学的におもしろいテーマ。BLが美しいというのはあくまでも幻想(百合もね)。ヤクザ語に「尻」関連のスラングが多いのはその名残かも知れない(ケツをまくる、ケツを割る。ケツをまくる、etc)。
暁斎はオーバージャンルで、どんなタッチの絵も描くことができた。しかしその代償としてこれという代表作が定まっていないのは残念だ。いわゆる「器用貧乏」である。妖怪画や戯画などでキワモノ扱いされ、近年まであたかも存在しなかったかのように扱われた、忘れられた画家だったという。信じられない。
たしかにいくつもの顔を持った人だ、殺気がありど迫力なのにどこかユーモラスな虎の水墨画《竹虎之図》、「源氏物語」の女三の宮の見立てである美人画《横たわる美人と猫》、極楽浄土をめざす蒸気機関車を描いたシュールな《極楽行きの汽車》の作者が、全部同一人物といわれても、「はあ?」と思うだろう。しかしこのいずれも傑作だ。鹿鳴館を設計した建築家コンドルに弟子入りを決意させたという《枯木寒鴉図》(1881)は、近代日本画の最高傑作のひとつではないだろうか。
筆禍事件で「暁斎」と改名する前は「狂斎」と名乗っていた。長州の過激派も愛好した「狂」が、近代以前には「狂者とは聖人に近いけれど世俗を逸脱する人」といった程度の意味だったことは、再認識しておきたい。ここでフーコーを持ちだしてもいいのけれど、当時の知識階級のスタンダードだった「論語」を見てみよう。そこでは、狂者は「理想家」くらいのニュアンスだ。
「中行を得てこれに与せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者(けんしゃ)は為さざる所あり。」
「もし中庸の徳を心得た人物と交際ができなければ、狂者(理想家)か狷者(頑固者)と交際すると良い。狂者は進んで善い事を受け入れるし、狷者は悪い事をしないからだ。」
江戸と明治、二つの時代を生きた天才画家。明治維新後は、徳川家の駿河移封にともない駿府に移り住んだ。「暁斎の坂の上に雲はなかった」という筆者のひとり、狩野氏のことばが印象に残る。暁斎=狂斎こそは、新時代の文化を貪欲に摂取しながら、一切ブレることのなかったまさに「狂狷」の画鬼だった。
暁斎の《極楽行きの汽車》のなかに、宮沢賢治の《銀河鉄道の夜》に繋がるイマジネーションの源泉を見ることも可能だろう。
最後の画像は、表1/表4のカバー画像より。「風俗鳥獣戯画帖」の《髑髏と蜥蜴》もものすごいインパクトだ。
とんぼの本には、時々ものすごいヒット作がある(これはあくまでも個人の感想です……テレビのCM風。べんりなことばだなあ)。しかしこれはぜひ持っていたい一冊。せめて町の図書館に入れさせよう。
表紙にも使われている、《化け猫》(1870年以前)が素晴らしすぎる。突然出現した巨大ネコに、驚いて腰を抜かす男ふたり。宮沢賢治の『注文の多い料理店』のエンディングのようだ。賢治の山猫たちも、ツシマヤマネコのような野生猫というより、猫またの末裔なのだろうと再発見。
目次ページの《動物図鑑》(1878年)に、人間の生首をくわえたキツネが出てくる。「藤原新也の『メメント・モリ』だ!」と、ひとりでガッツポーズ(なぜ?)。あの「ニンゲンはイヌに食われるほど自由だ」という名コピーがついた、インドの荒野で人の足をくわえたイヌの写真を思い出したのだ。
浮世絵師・歌川国芳に入門した暁斎少年には、1839年(天保10年)、神田川を流れてきた生首を、写生するために持ち帰ったというエピソードがある。当時9歳。大騒ぎになり、元の場所に持ち帰り、写生してから手厚く葬ったという(結局写生したところがすばらしい)。
放逸な国芳の行状がわが子に与える悪影響を心配した父により、今度は狩野派の前村洞和に再入門させられた。当時の大名のお抱え絵師の9割は狩野派だから、バリバリの体制派。浮世絵と狩野派、両方に入門した絵師はめずらしいという。師の洞和は暁斎を「画鬼」とよんでかわいがったそうだ。
暁斎は漢画、狂画、浮世絵、俳画それぞれに腕を振るって人気絵師となる。しかし、1870年(明治3年)、政府批判のかどで逮捕投獄。最初の師の国芳のように徹底した体制批判の反骨の絵師だった。
鳥獣戯画の伝統を受け継いだ動物を描いた絵もいい。相撲を取ったりタバコを吸ったりする蛙たちを美女が眺める《美人観蛙戯図》、幕府と長州藩の戦争を蛙合戦に見立てた《風流蛙大合戦之図》など、墓石にするほど好きだったカエルを描いた絵はどれも楽しい。1887年のブロンズ像の《鴉天狗》もグッズ化したら人気が出そうだ。
《放屁合戦》が男同志の愛をテーマにしていたというのは、「へえー」とつぶやいた後に、その巧まざるオヤジギャグに自己嫌悪。ただ、民俗学的におもしろいテーマ。BLが美しいというのはあくまでも幻想(百合もね)。ヤクザ語に「尻」関連のスラングが多いのはその名残かも知れない(ケツをまくる、ケツを割る。ケツをまくる、etc)。
暁斎はオーバージャンルで、どんなタッチの絵も描くことができた。しかしその代償としてこれという代表作が定まっていないのは残念だ。いわゆる「器用貧乏」である。妖怪画や戯画などでキワモノ扱いされ、近年まであたかも存在しなかったかのように扱われた、忘れられた画家だったという。信じられない。
たしかにいくつもの顔を持った人だ、殺気がありど迫力なのにどこかユーモラスな虎の水墨画《竹虎之図》、「源氏物語」の女三の宮の見立てである美人画《横たわる美人と猫》、極楽浄土をめざす蒸気機関車を描いたシュールな《極楽行きの汽車》の作者が、全部同一人物といわれても、「はあ?」と思うだろう。しかしこのいずれも傑作だ。鹿鳴館を設計した建築家コンドルに弟子入りを決意させたという《枯木寒鴉図》(1881)は、近代日本画の最高傑作のひとつではないだろうか。
筆禍事件で「暁斎」と改名する前は「狂斎」と名乗っていた。長州の過激派も愛好した「狂」が、近代以前には「狂者とは聖人に近いけれど世俗を逸脱する人」といった程度の意味だったことは、再認識しておきたい。ここでフーコーを持ちだしてもいいのけれど、当時の知識階級のスタンダードだった「論語」を見てみよう。そこでは、狂者は「理想家」くらいのニュアンスだ。
「中行を得てこれに与せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者(けんしゃ)は為さざる所あり。」
「もし中庸の徳を心得た人物と交際ができなければ、狂者(理想家)か狷者(頑固者)と交際すると良い。狂者は進んで善い事を受け入れるし、狷者は悪い事をしないからだ。」
江戸と明治、二つの時代を生きた天才画家。明治維新後は、徳川家の駿河移封にともない駿府に移り住んだ。「暁斎の坂の上に雲はなかった」という筆者のひとり、狩野氏のことばが印象に残る。暁斎=狂斎こそは、新時代の文化を貪欲に摂取しながら、一切ブレることのなかったまさに「狂狷」の画鬼だった。
暁斎の《極楽行きの汽車》のなかに、宮沢賢治の《銀河鉄道の夜》に繋がるイマジネーションの源泉を見ることも可能だろう。
最後の画像は、表1/表4のカバー画像より。「風俗鳥獣戯画帖」の《髑髏と蜥蜴》もものすごいインパクトだ。