「小説というのは、基本的にマイノリティを代弁するものだ。社会に受け入れられない人々の声にならない声を翻訳して、人間の精神の自由と社会の公正さを訴える、それが文学である。だから文学は回答を示すものではない。本質的な疑義を提出する。ただ、就職留年やサービス残業とうつ病、自傷癖、通り魔などは、人間の精神の闇を象徴しているわけではない。……そういったわかりやすい病理を担当するのは、文学ではなく、医療や福祉、つまり行政の仕事だ」
村上龍『櫻の下には瓦礫が埋まっている』で気になった文章。
前半はいい。「……」で省略した部分には、いまの「精神の闇」なんて単純で幼稚だ、というニュアンスのことが書いてある。
しかし両者は切り離すことができるだろうか? 「マイノリティ」が同時に「就職留年やサービス残業とうつ病、自傷癖、通り魔など」であることは可能性として充分ありうることである。わかりやすい病理? あなたのいう「マイノリティ」は、わかりづらい何か高尚な存在(コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』のような?)とでもいうのだろうか?
第一、いまの「行政」はマイノリティのために働き、公正に機能しているのだろうか? 社会的弱者にとって、カフカの『城』のように、不条理ワールドそのものではないのか?
マイノリティの傷病を癒やし腹を満たしていくのが行政の仕事ならば、その魂の尊厳を擁護し、救いのない世界から起ち上がらせるのが文学の仕事ではないだろうか。