「中上が被差別部落の出身とは知らなかった」と、柄谷行人がある場所でインタビューで答えていた。10年前、あるいは15年ほど前だろうか。
私は言葉を失った。そんなことがありえるのかと思ったのだ。もちろん被差別部落出身であることをカミングアウトしている人は、圧倒的少数派で、中上も何もいわなかったのだろう。それでも、中上文学を読んでいてわからないなんて、信じがたいことだった。
『紀州』という彼自身による中上文学ガイドがある(彼は当時評判の映画『ルーツ』になぞらえていたと記憶する)。上原善広さん風にいえば、このドキュメントは中上版『紀州の路地を歩く』だった。本書の解説にも出てくるが、若き中上は野間宏らが編纂した『差別・その根源を問う』で、アメリカにおける黒人の人種差別と日本の部落差別の違いについて問い、狭山集会で無実の石川青年を思って涙した青年について語った。三人称だけれど、彼自身であることは明白だった。『物語・差別・天皇制』における赤坂憲雄・山本ひろ子とのエキサイティングな討論も忘れがたい。柄谷も尼崎出身で(阪神ファンらしい)、結婚式のスピーチも頼まれた友人が知らないなんてありうるのか。
もちろん柄谷が、部落差別について知らず育った可能性もある。そう思うようになったのは、やはり兵庫育ちの村上春樹のエッセイを読んでからだ。このエッセイは『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に収録されている。中上は村上のジャズ喫茶店時代の客でもあった。
芦屋・西宮で育った村上は、「おまえが生まれたあたりにも被差別部落があっただろう」と中上健次に問われ、知らなかったので怒られたという。
これも最初は「えっ?」と思ったが、村上は同和教育を受けていない世代である(もちろん柄谷も)。同和教育が始まるのは、同和対策事業特別措置法が施行された1969年以降。村上は1949年1月生まれで、1967年には高校を卒業、早稲田大学に入学している。
村上の本を探したのだが、奥深くにしまいこんだので、出てこない。以下の藤田孝志先生の講演録で詳細に紹介されていたので転載させていただく。
時分の花を咲かそう -私自身の『部落史像』を見直す-
藤田孝志
(滋賀県近江八幡人権センター:部落解放・人権塾 )
被差別体験について書かれた本はあります。でも「自分が差別しました」と書いている本はほとんどない。「こんな差別を私はした」と,村上春樹は書いています。『村上朝日堂はいかに鍛えられたか』というエッセイ集の一番最後のエッセイに書いています。この話をして終わります。彼は兵庫県の高校に通っていました。ある日,村上春樹が教室に入っていったら,友だち同士で,ある女の子のことについて話をしていた。聞き慣れない言葉が耳に入ってくる。「何だろうか。彼女のことを言っているのかな」と漠然と思った村上春樹は黒板に先ほど聞いた言葉を書いた。その女の子が教室に入ってきて,黒板を見てびっくりして教室から飛び出していった。村上春樹は何のことかさっぱりわからない。何日かしたある日,二人の女の子が彼のところに来ます。「村上君,黒板に書いたの,あんたやろ。あれがどんなことか知っとる」「知らない」「あのな」と教えてくれた。実は彼が書いたのは被差別部落の俗称です。兵庫県にある被差別部落の名を彼は黒板に書いた。彼は同和教育を一切受けていない。部落のことも知らない。言葉の意味も知らずに黒板に書いた。二人の女の子は彼に兵庫の部落の歴史を語ります。そして村上春樹は,その時,気がつきます。「ああ,そうか。俺が彼女を傷つけてしまったのか」と。
エッセイの最後に,彼はこう書いています。「その時の私にはそんなことで人が人を差別するという事実がよく飲み込めなかったからだ。でも,ただそれだけではない。私にとってそれよりももっとショッキングだったのは,この世界では人は誰でも無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという,残酷で冷厳な事実だった。私は今でも一人の作家としてそのことを深く深く怯えている」
このエッセイを教材に使って授業をしています。社会啓発にも使っています。テーマは「寝た子を起こす」です。人間は知らなくても人を傷つけてしまうことがある。「部落差別なんか,部落問題なんか勉強しなくてもいい。寝た子は起こさなくていいんだ。知らなければ,部落差別なんて起こらない」と言われる方が今もたくさんおられます。そんなことはありません。村上春樹の教訓があります。村上春樹はその後,作家となり,中上健次と知り合います。亡くなった中上健次から部落についてしっかり学んでいきます。人の出会いは大きな成長をあたえてくれます。彼か高校時代に自分のしたことを冷静に分析することがなければ,作家になった後,中上健次と付き合うこともなかったと思います。人の出会いは偶然であり,必然であると感じます。
我が心は石にあらず
「部落史・部落問題」ノート
http://meinherz.seesaa.net/article/479430401.html?1626996190
「時分の花を咲かそう~私自身の『部落史像』を見直す」(PDF)
このエッセイが教材になったり、社会啓発に使われているのは、ファンとしてはうれしい。
補足すれば、村上春樹は作家になる前、ジャズ喫茶の店主時代に、編集者に連れられてきた中上健次に出会って少しも話もしている(『群像』での新人賞インタビューにて)。
ただ、村上が「中上健次から部落についてしっかり学ん」だかといえば、疑問である。作品を読んできた限りは、それは言い過ぎではないかと思う。村上も作家同士の付き合いはあまりないようだ。
近年の作品では、トランスジェンダーやディスレクシア(読字障害)、ギリヤーク人(ニヴフ)などのマイノリティがよく出てくるようになった。そこが学習の成果だと、藤田先生はおっしゃるかもしれない。しかしその取りあげ方には、疑問が残る。
『海辺のカフカ』のフェミニストには、誰しも反発をおぼえる。こういう人達は実在する。しかしその描き方はあまりにもステレオタイプだったし、トランスジェンダーに論破させるやり方も、賛同しかねるものだった。相手をあらかじめ歪曲した上で、その歪曲した相手を、ある特権的な立場で否定するのは、村上の最も嫌うセクト的な言説ではないのか。
以上のことは、村上が中上に何も学ばなかったという意味ではない。
村上春樹の作品が、戦争やテロリズムなどに向かい、直接的な暴力や父殺しのテーマなどが露出してくるのは、『ねじまき鳥クロニクル』以降である。偶然だが、この作品の連載が開始されたのは、中上健次が死んだ年(1992年)である。
『1Q84』の刊行から2年以上、この問題について、考えてきた。書きかけのメモがずっとPCのデスクトップにある。いつかチャンスがあれば書いてみたい。
2019年9月15日の追記。ここまで読んでくださってありがとう。このエントリの続きを書いたので、よかったら、リンクを踏んで、読んでもらえたら嬉しく思います。『ドライブ・マイ・カー』の「炎上」問題から、春樹のリベラルで優しい世界にも潜む「差別」の構造について考えてみました。この世界のどこにも存在することの許されない差別は、「人の心の中」に、デマやフェイクやフィクションの形をとって生き続けようとするのです。
◆白浜残酷物語 村上春樹における〈差別〉の構造
2021年8月8日の追記。講演録を引用させていただいた藤田孝志先生からコメントをいただいた。一時リンクが切れていたけれど、サイトを引っ越しされたとのこと。「はじめまして」とあるけれど、発表直後に直接コメントいただき、恐縮した覚えがある。ただ当時のやり取りが見つからない。コメントいただいた内容は、東京五輪がらみの話題を除けば、一緒だったと思う。以下に先生のコメントを引用させていただきます。ぜひ部落史学習・研究に生かされんことを。
(藤田先生のコメント)
はじめまして
こちらのサイトを拝見しました。私の講演録を引用していただき,ありがとうございます。
諸事情からブログを引っ越したため,リンクが切れてしまい,ご迷惑をおかけしました。
http://meinherz.seesaa.net/article/479430401.html?1626996190
このページの表より,「時分の花を咲かそう~私自身の『部落史像』を見直す」(PDF)を選んでいただけると該当の講演録が表示されます。
また,下記に引越し先のブログアドレスを記載しておきます。
講演で引用した村上さんの小文は,知人に見せていただいた『週刊朝日』でした。現在は新潮文庫『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に収録されています。
最初に読んだとき,なんと正直な人だろうと思いました。そして,彼を諭してくれた女子生徒に感動を禁じ得なかった。このエッセイから学ぶべきことはたくさんあります。差別の本質,「知らないこと」(無自覚)の恐ろしさ,差別への対処…など。
オリンピックがらみの辞任・解任が物議を醸していますが,まさしく村上さんが伝えようとする「無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうる」が今も変わっていない真実なのだと痛感します。今回は意図的・作為的ですから少しちがうかもしれませんが,「知らないこと」が生み出す恐ろしさ,軽率な言動が当事者の心身をどれほど傷つけているかについては村上さんの一文を教訓として学んでほしいですね。
よろしければ,リンクの張り直しをお願いします。
私のブログは,ジャンル別に5つに分けて作成しています。メインのhttp://meinherz.seesaa.net/(時の流れの中で)の「MyBlog」より他のブログにアクセスできます。
私は言葉を失った。そんなことがありえるのかと思ったのだ。もちろん被差別部落出身であることをカミングアウトしている人は、圧倒的少数派で、中上も何もいわなかったのだろう。それでも、中上文学を読んでいてわからないなんて、信じがたいことだった。
『紀州』という彼自身による中上文学ガイドがある(彼は当時評判の映画『ルーツ』になぞらえていたと記憶する)。上原善広さん風にいえば、このドキュメントは中上版『紀州の路地を歩く』だった。本書の解説にも出てくるが、若き中上は野間宏らが編纂した『差別・その根源を問う』で、アメリカにおける黒人の人種差別と日本の部落差別の違いについて問い、狭山集会で無実の石川青年を思って涙した青年について語った。三人称だけれど、彼自身であることは明白だった。『物語・差別・天皇制』における赤坂憲雄・山本ひろ子とのエキサイティングな討論も忘れがたい。柄谷も尼崎出身で(阪神ファンらしい)、結婚式のスピーチも頼まれた友人が知らないなんてありうるのか。
もちろん柄谷が、部落差別について知らず育った可能性もある。そう思うようになったのは、やはり兵庫育ちの村上春樹のエッセイを読んでからだ。このエッセイは『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に収録されている。中上は村上のジャズ喫茶店時代の客でもあった。
芦屋・西宮で育った村上は、「おまえが生まれたあたりにも被差別部落があっただろう」と中上健次に問われ、知らなかったので怒られたという。
これも最初は「えっ?」と思ったが、村上は同和教育を受けていない世代である(もちろん柄谷も)。同和教育が始まるのは、同和対策事業特別措置法が施行された1969年以降。村上は1949年1月生まれで、1967年には高校を卒業、早稲田大学に入学している。
村上の本を探したのだが、奥深くにしまいこんだので、出てこない。以下の藤田孝志先生の講演録で詳細に紹介されていたので転載させていただく。
時分の花を咲かそう -私自身の『部落史像』を見直す-
藤田孝志
(滋賀県近江八幡人権センター:部落解放・人権塾 )
被差別体験について書かれた本はあります。でも「自分が差別しました」と書いている本はほとんどない。「こんな差別を私はした」と,村上春樹は書いています。『村上朝日堂はいかに鍛えられたか』というエッセイ集の一番最後のエッセイに書いています。この話をして終わります。彼は兵庫県の高校に通っていました。ある日,村上春樹が教室に入っていったら,友だち同士で,ある女の子のことについて話をしていた。聞き慣れない言葉が耳に入ってくる。「何だろうか。彼女のことを言っているのかな」と漠然と思った村上春樹は黒板に先ほど聞いた言葉を書いた。その女の子が教室に入ってきて,黒板を見てびっくりして教室から飛び出していった。村上春樹は何のことかさっぱりわからない。何日かしたある日,二人の女の子が彼のところに来ます。「村上君,黒板に書いたの,あんたやろ。あれがどんなことか知っとる」「知らない」「あのな」と教えてくれた。実は彼が書いたのは被差別部落の俗称です。兵庫県にある被差別部落の名を彼は黒板に書いた。彼は同和教育を一切受けていない。部落のことも知らない。言葉の意味も知らずに黒板に書いた。二人の女の子は彼に兵庫の部落の歴史を語ります。そして村上春樹は,その時,気がつきます。「ああ,そうか。俺が彼女を傷つけてしまったのか」と。
エッセイの最後に,彼はこう書いています。「その時の私にはそんなことで人が人を差別するという事実がよく飲み込めなかったからだ。でも,ただそれだけではない。私にとってそれよりももっとショッキングだったのは,この世界では人は誰でも無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという,残酷で冷厳な事実だった。私は今でも一人の作家としてそのことを深く深く怯えている」
このエッセイを教材に使って授業をしています。社会啓発にも使っています。テーマは「寝た子を起こす」です。人間は知らなくても人を傷つけてしまうことがある。「部落差別なんか,部落問題なんか勉強しなくてもいい。寝た子は起こさなくていいんだ。知らなければ,部落差別なんて起こらない」と言われる方が今もたくさんおられます。そんなことはありません。村上春樹の教訓があります。村上春樹はその後,作家となり,中上健次と知り合います。亡くなった中上健次から部落についてしっかり学んでいきます。人の出会いは大きな成長をあたえてくれます。彼か高校時代に自分のしたことを冷静に分析することがなければ,作家になった後,中上健次と付き合うこともなかったと思います。人の出会いは偶然であり,必然であると感じます。
我が心は石にあらず
「部落史・部落問題」ノート
http://meinherz.seesaa.net/article/479430401.html?1626996190
「時分の花を咲かそう~私自身の『部落史像』を見直す」(PDF)
このエッセイが教材になったり、社会啓発に使われているのは、ファンとしてはうれしい。
補足すれば、村上春樹は作家になる前、ジャズ喫茶の店主時代に、編集者に連れられてきた中上健次に出会って少しも話もしている(『群像』での新人賞インタビューにて)。
ただ、村上が「中上健次から部落についてしっかり学ん」だかといえば、疑問である。作品を読んできた限りは、それは言い過ぎではないかと思う。村上も作家同士の付き合いはあまりないようだ。
近年の作品では、トランスジェンダーやディスレクシア(読字障害)、ギリヤーク人(ニヴフ)などのマイノリティがよく出てくるようになった。そこが学習の成果だと、藤田先生はおっしゃるかもしれない。しかしその取りあげ方には、疑問が残る。
『海辺のカフカ』のフェミニストには、誰しも反発をおぼえる。こういう人達は実在する。しかしその描き方はあまりにもステレオタイプだったし、トランスジェンダーに論破させるやり方も、賛同しかねるものだった。相手をあらかじめ歪曲した上で、その歪曲した相手を、ある特権的な立場で否定するのは、村上の最も嫌うセクト的な言説ではないのか。
以上のことは、村上が中上に何も学ばなかったという意味ではない。
村上春樹の作品が、戦争やテロリズムなどに向かい、直接的な暴力や父殺しのテーマなどが露出してくるのは、『ねじまき鳥クロニクル』以降である。偶然だが、この作品の連載が開始されたのは、中上健次が死んだ年(1992年)である。
『1Q84』の刊行から2年以上、この問題について、考えてきた。書きかけのメモがずっとPCのデスクトップにある。いつかチャンスがあれば書いてみたい。
2019年9月15日の追記。ここまで読んでくださってありがとう。このエントリの続きを書いたので、よかったら、リンクを踏んで、読んでもらえたら嬉しく思います。『ドライブ・マイ・カー』の「炎上」問題から、春樹のリベラルで優しい世界にも潜む「差別」の構造について考えてみました。この世界のどこにも存在することの許されない差別は、「人の心の中」に、デマやフェイクやフィクションの形をとって生き続けようとするのです。
◆白浜残酷物語 村上春樹における〈差別〉の構造
2021年8月8日の追記。講演録を引用させていただいた藤田孝志先生からコメントをいただいた。一時リンクが切れていたけれど、サイトを引っ越しされたとのこと。「はじめまして」とあるけれど、発表直後に直接コメントいただき、恐縮した覚えがある。ただ当時のやり取りが見つからない。コメントいただいた内容は、東京五輪がらみの話題を除けば、一緒だったと思う。以下に先生のコメントを引用させていただきます。ぜひ部落史学習・研究に生かされんことを。
(藤田先生のコメント)
はじめまして
こちらのサイトを拝見しました。私の講演録を引用していただき,ありがとうございます。
諸事情からブログを引っ越したため,リンクが切れてしまい,ご迷惑をおかけしました。
http://meinherz.seesaa.net/article/479430401.html?1626996190
このページの表より,「時分の花を咲かそう~私自身の『部落史像』を見直す」(PDF)を選んでいただけると該当の講演録が表示されます。
また,下記に引越し先のブログアドレスを記載しておきます。
講演で引用した村上さんの小文は,知人に見せていただいた『週刊朝日』でした。現在は新潮文庫『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に収録されています。
最初に読んだとき,なんと正直な人だろうと思いました。そして,彼を諭してくれた女子生徒に感動を禁じ得なかった。このエッセイから学ぶべきことはたくさんあります。差別の本質,「知らないこと」(無自覚)の恐ろしさ,差別への対処…など。
オリンピックがらみの辞任・解任が物議を醸していますが,まさしく村上さんが伝えようとする「無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうる」が今も変わっていない真実なのだと痛感します。今回は意図的・作為的ですから少しちがうかもしれませんが,「知らないこと」が生み出す恐ろしさ,軽率な言動が当事者の心身をどれほど傷つけているかについては村上さんの一文を教訓として学んでほしいですね。
よろしければ,リンクの張り直しをお願いします。
私のブログは,ジャンル別に5つに分けて作成しています。メインのhttp://meinherz.seesaa.net/(時の流れの中で)の「MyBlog」より他のブログにアクセスできます。
ネット検索中,貴兄のブログに私の記事が紹介されており,訪問させていただきました。
中上健次は大好きな作家です。以前,彼の故郷を歩きながら問題が彼の原点であることを再認識したことを思い出しました。
村上春樹のこのエッセーは,「朝日ジャーナル」に掲載されたものを友人から送られて読みました。彼の正直さ(誠実さ)が好きになりました。
村上が中上健次から問題を学んだ(どのように…と言えば,確かに疑問ですが…)ことは,どこか(誰か)で読んだ記憶があります。(村上春樹か中上健次に関する本か座談会の記事か…すみません。記憶が曖昧です)
意識しなければ見えないのがであり,どのように意識するか,意識させられるか,それが現代の問題です。
村上春樹の一文からでも,問題を自分のことと受け止めてもらえれば幸いという思いがあります。
私のコメントは、春樹さんの小説を読んできた限りの感想で、インタビューや対談などはチェックしていませんでした。あやふやで、失礼いたしました。
あのエッセイは私も好きです。傷ついた友達を守る女子生徒の絆に感動します。
あのエッセイの連載は、地下鉄サリン事件を取材した『アンダーグラウンド』と同時併走だったはずです。テーマは最近の『1Q84』にも引き継がれているのですが、あの頃にははあった、人間の連帯の可能性(先生のお言葉なら「差別」「賤視」を否定する社会を構築する展望)が後退、あるいは衰弱しているのではないか……うまく整理できていないのですが……そこが少し気にかかっています。
ただ、『1Q84』で描かれる小学生時代のトラウマも、差別や虐待への苦しみ悲しみが、痛いほどよく描かれていると思います。私もよく批判しますけれど、春樹さんが読まれる社会は、まだ捨てたものではないと信じます。
健次さんと春樹さん。作風も生い立ちも対極的で、ジャズしか共通項が思い浮かびませんでしたが、健次さんの木の国・根の国と、春樹さんの森とアンダーグラウンドは、結構、重なるのが興味深いです。
若い頃、左翼の活動家で、狭山闘争を通じて問題は知っているつもりでした。しかし東京から大阪に移って、自分は実は何も知らないことに気がつきました。
「被差別は過去の問題だ。寝た子を起こすな」といいながら、結婚差別や越境通学が残っていること、陰陽師や風水やパワースポットや血液型などのブームは、どこかで通じているように思います。今の原発事故の問題でも、残念ながら、被爆者差別も起きています。辞任した大臣は、政治家以前に、社会人として、人間として失格です。ただあの人を責めるだけでは済まないですよね。
渋染一揆の覚え書き、部落史の考察を拝読しました。また考えていきたいと思います。最後にあらためて、ご訪問、そしてコメントに心より感謝いたします。
<今朝の毎日新聞に中上健次、没20年の記事があり、どんな人物だったのか・・。と思い検索しましたら、興味深い貴方の文章に出会いました。>
協会という団体は、自民党系の会のことかな。しかし解放同運動中央も、「差別を無くしたい集団ではなくて、差別が存続しないと困る」既得権化集団として体制内に組み込まれてしまった。ここは、ご指摘の通りです。
「寝た子を起こすな」は、〈何も知らない人にわざわざ問題所在を知らせる必要はなく,そっと放置しておけば自然に解決する〉とする考え方ですね。このたとえが差別に関していわれだしたのは,明治30年代説と大正10年代説とがあるようです。
しかし百年前後の歴史がたつのに、決して差別は「自然に解決」されたわけではない。「寝た子」は決して「死んだ」わけではないからです。いずれは目覚めてくる。
今では自分が出身と知らない若者も増えていると聞きます。しかし結婚差別は依然として残っています。橋下市長に対する差別バッシングを見ていても、何かあるたびに差別はいつでもめざめてくる。
これは解放運動のボスたちに対する批判だけで済むことだろうか。そうではないですね。村上春樹もいうように、この世界では人は誰でも無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうる。非人間的なことで私に無縁なものは何もないというのが当ブログの立場です。コメントありがとうございました。
でした。人のこといえないね。
話は1970年頃のことです、中学校である日をさかいに、先生たちから「差別はダメだ」「偏見はダメだ」というプロパガンダが降りそそぎ始めました。僕たち生徒は「どうすれば差別になって、いけないのだろう」「どうすれば偏見になって、いけないのだろう」と疑問が湧くのですが、それに答える具体的な説明は先生からありませんでした。ですから、僕たち生徒は、宇宙の果てを眺めるような気持ちで「自分は差別しないよう心がけるつもりです、偏見を持たないようにするつもりです」と心の中で唱えるのですが、はてさて、具体的にどうすればいいのか(あるいは、いけないのか)さっぱり分からないから、行動指針としては空虚で役に立ちませんでしたね。先生側にとっては、「同和教育を実施した」というアリバイ作りになってよかったのかもしれないと、今にして思います。
時は流れ、2014年になって、「被差別の地名資料」みたいなものが僕の手に入ったので、ようやく、「中学の頃、自分が住んでたあたりにも被差別があった」ということを、論拠をもって認識しました。中学校当時を思い返すと、「あのあたりはこわいから、近づかないようにしよう」と、生徒同士の情報交換で認識している あたり がありました。危なさそうでこわそうだったので自分の目でどんなところか確かめに行くこともしませんでした。おとなは「被差別だ」とは教えてくれませんでした。
2014年初見資料に基づき、「自分が住んでたあたりにも被差別があった」と認識しました。 それをもって、「知らなかったので怒られる」?
ましてや教えない教師が悪い、教える教師も悪いとは。
社会に目を開けと「怒られ」て、それに不平顔でぶーたれる高校生みたいなもんでしょうな。
リンクした藤田先生のサイト、見られなくなっていますね。後で記事本文を修正しますが、別のブログを立ち上げられたようです。
いただいたコメントに、ある差別文書がソースらしい「資料」のお話が出てきますが、これは正確でなくともおよそのタイトルを知っていれば、ネットでもすぐに見つかります。
20年前はまだネットは普及していませんでしたが、大阪の男性と結婚したある女性は、大阪で近づいてはいけない場所を教わったという。私も大阪に移住するとき、似た覚えがありますね。結婚とか就職とか引越など人生の重要なイベントでは、今でも問題は避けて通れない。
よそものでもそうなのに、1970年に中学生だった方が、2014年まで「知らなかった」というのは、にわかには信じがたいことですが、あるかもしれない。しかし、知らなかったら知らなかったで、「ええ年した大人が何いうてますねん」というのはあります。
もちろん、解放運動には、さまざまな矛盾や限界がありました。解放教育(いわゆる人権教育)にも功罪がある。しかし1970年代という時代背景もありましたし、本当に差別があちこちにあった頃のことです。
1970年代以降、解放運動による新たな問題も生まれた。いわゆる利権などはその代表でしょう。
しかし「寝た子を起こすな」は、なかったことにすることです。存在さえ知らせないのは、差別よりひどい。「生きてねん」ということですね。
「この現代に被差別があるかといえば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別は復活する」(上原善広『日本の路地を旅する』)
路地出身のノンフィクション作家・上原善弘氏の著作を中心に、問題に言及した当ブログの記事に、ご参考までにリンクしておきます。
『日本の路地を旅する』
http://gold.ap.teacup.com/multitud0/368.html
『私家版差別語辞典』
http://gold.ap.teacup.com/multitud0/717.html
「生きてんねん」
http://gold.ap.teacup.com/multitud0/994.html