鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

初詣ベスト10寺社  完全踏破!  成田山新勝寺で

2024-04-07 13:16:52 | お寺

(東横INN 西川口)(住所は埼玉県蕨市)

今回はこのホテルで6泊しその後は信州の松本で1泊

最後は北陸新幹線で富山市にて1泊し翌日に帰阪でした。

1275枚の写真を撮りましたので順次ブログで紹介しまひょ。

 

初詣の参拝客が多いベスト10をご存じでしょうか?

トップは東京の明治神宮で約319万人ぐらいで

第2位が最近は千葉県の成田山新勝寺のようですわ。

第3位の川崎大師の平間寺と約300万人で競り合っているとか。

実は鉄ちゃん爺やが大腸癌の手術前に明治神宮はお詣りしたので

成田山新勝寺がベスト10、残るは1カ寺と成ってましたんや。

今回の旅行はそんな訳で成田山新勝寺からスタートでおます。

(JR成田駅までの乗車券)

前回もでしたが今回も9日間で4日も雨に祟られる旅行でしたんですわ。

雨男だな~ そんな声も気にはしないようにしてまっけど。

(成田山新勝寺 表参道)

JR成田駅から約15分ぐらい歩く参道が往きはやや下り坂で続きますんや。

参道には干支を模った石像が参拝客を見守ってるような感じですかな。

(鉄ちゃん爺やの干支 蛇でおます)

(内の奥さんの干支 犬でおます)

(今年の干支は 辰でしたね)

これぐらいにして先へ急ぎまよ、成田山の名物は鰻料理が有名らしい。

高くなりましたね3500円ぐらい出さないと食べれなくなってますがな。

昼食代には高すぎるので匂いだけ頂いて通り抜けるとしまひょ。

(老舗の鰻料理や 川豊さん) 

成田山新勝寺の平和の大塔らしきものが遠くに見えてきました。

平日ながら参拝客が多いのには感心しましたわ。

(薬師堂 江戸時代には本堂だった?)

成田山新勝寺では一番古いお堂では有るらしいが、長年に渡り修理を続けて

創建当時の建築材はほとんど残っていないとの事で通りに抜けました。

(成田山新勝寺の 総門) (平成18年完成)

(成田山新勝寺 仁王門) (江戸時代の創建)

(成田山新勝寺 大本堂) (昭和39年建立)

(大本堂の東翼殿)

(大本殿の西翼殿)

毎年の節分の日に回廊から豆まきが行われ大河ドラマの出演者や

大相撲初場所の優勝者などがテレビで放映されることで有名ですわな。

成田山新勝寺のご本尊は不動明王さまで鬼もふれ伏すと言われますので

「福は内~ 福は内~」と唱え 「鬼は外」とは唱えないんだとか。

(成田山新勝寺 本尊さまのご朱印)

大本堂は昭和の時代に創建されたようで、大本堂の南東側に

三重塔が慎ましく立ってますがこれは江戸時代の創建だの事。

ご本尊は不動明王さまなので成田不動とも呼ばれてますよね。

(成田山新勝寺 三重塔) (江戸時代の中期に創建)

(大本堂の回廊から撮影)

成田山新勝寺は元々は平安時代の10世紀に平将門が関東で反乱を起こし

その鎮圧と平和を祈願して開山されたそうで現在は真言宗の智山派の大本山とされ

川崎大師の平間寺や高尾山薬王院なども同じく智山派の大本山を称します。

総本山は京都は東山の智積院ですが何故か関東に大寺院が集まってますな。

(成田山新勝寺 釈迦堂) (昭和39年までは本堂で有ったとの事)

 

大本堂の西側に元々の本堂である釈迦堂が配置されているようで

江戸時代の安政時期から明治・大正から昭和の39年までは

この釈迦堂が成田山新勝寺の本堂で有った事になりますかな。

その釈迦堂より前の江戸時代の本堂が奥の院にあたる位置にあるとか。

それでは奥の院の方へ足を進めてみまひょ。

(奥の院の標識)

(成田山 光明堂) (江戸時代は元禄年間の創建)

大本堂が建立された昭和39年に一番古い本堂であった光明堂は奥の院の

現在地に移設され真言宗の本尊である大日如来が安置されているようでんな。

初代の市川団十郎が子供に恵まれず、成田不動さまにお願いしたら

2代目団十郎になる息子を授かったとか、時は江戸時代の元禄年間でした。

という事はこの光明堂が当時は本堂だったはずですよね。

それ以後は市川家は成田屋と呼ぶことになったご縁が深いお寺ですかな。

(開山堂)

(桜が咲いてます)

やはり病み上がりですから薬師如来さんにもお詣りしなくちゃ。

奥の院の平和大塔の手前に医王殿があると教わりましたんで。

(成田山 医王殿)

コロナ前はご朱印は300円でしたが最近は500円に値上がりです。

文句を言ったらご利益が無くなりますのでヤメて置きまひょ。

(成田山新勝寺の 境内配置図)

こんな言い伝えがおますんや、平将門をお祀りする神田神社と成田山新勝寺を

同時にお詣りしたらダメなんだとのこと、新勝寺は平将門を退治するために

創建されたお寺だからとの事、それ故に鉄ちゃん爺やもそれに従いました。

(神田神社参拝) (令和4年10月参拝)

最後に初詣ベスト10を記しておきますかな。

トップ  明治神宮     (東京)  319万人

第2位  成田山新勝寺  (千葉)  311万人

第3位  川崎大師平間寺 (神奈川) 308万人

第4位  浅草寺     (東京)  293万人

第5位  伏見稲荷神社  (京都)  277万人

第6位  住吉大社    (大阪)  260万人

第7位  鶴岡八幡宮   (神奈川) 251万人

第8位  熱田神宮    (愛知)  235万人

第9位  大宮氷川神社  (埼玉)  205万人

第10位 大宰府天満宮  (福岡)  204万人

(トップ 明治神宮の ご朱印)

(明治神宮の拝殿) (令和4年10月参拝)

この日は夕方に千葉市内に戻り関東での最後の勤務地であった

営業所に立ち寄り当時の担当者O君に会い久しぶりの会話でした。

若かった彼も来年は60歳だとか、2024年問題で多難な時代に。

活躍を願いながらホテルに戻ることにしました。

(JR成田駅で 成田エクスプレス号)

 

ほな~ 今回はこれにて失礼いたします、さいなら~♪

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柴島から崇禅寺をデジカメ散歩

2020-01-20 20:31:10 | お寺
久しぶりに大阪市内へデジカメ散歩でおます。

飲み友達が入院しているのでまずは病院へお見舞いから。

(大阪メトロ 堺筋線 阪急の柴島駅にて)


(阪急の柴島駅名標)


(大阪府立 柴島高校)


柴島(くにじま)と読みますんや。

大阪市内では難解な地名の一つでっしゃろな。

(淀川キリスト教病院)


お見舞いを済ませて1kmほど先にあるお寺へ向かいまひょ。

阪急の京都線に崇禅寺(そうぜんじ)という駅がおますんや。

崇禅寺駅から歩いて5分ぐらいで山門に着きましたで。

有名なお寺なんですが鉄ちゃん爺やは、初めての参詣でした。

(崇禅寺の山門)


近くを何度も通ってましたが参詣する機会がおまへんでした。

このお寺は奈良時代に創建された古いお寺でしたが一時は
寂れて室町時代に再建されて曹洞宗のお寺になったとか。

この辺りは中世には摂津の国・中島郡と呼ばれたそうですわ。

新幹線の新大阪駅からも歩いて10分ぐらいの場所でっせ。

(崇禅寺=そうぜんじ 本堂)(大阪市東淀川区東中島5丁目)




嘉吉元年(1441年)6代将軍足利義教公が京都の赤松邸で
赤松満祐により殺害されるという変事が起きましたんや。

赤松満祐と一族は京都を逃れて自分の領地である播磨の国に
向かう際に、ここ崇禅寺の観音堂の下に足利義教公の首を埋めて
立ち去ったが幕府方は混乱して追っ手を向かわせなかったとも。

世にいう「嘉吉の変」と呼ばれる事件なんだそうです。

当時はここ中島郡は赤松氏の領地でしたが、嘉吉の変で幕府により
没収され、細川氏や山名氏により赤松満祐は播磨の国で殺害されます。

数年後、細川持賢が足利義教公の菩提寺として崇禅寺を再建したんだって。

そんな経緯で管領・細川氏の菩提寺の一つと成ったんでしょうな。

下の画像が現在の観音堂でこの下に足利義教公の首を埋めたとか。

(崇禅寺の 観音堂)


崇禅寺は1945年6月のアメリカ軍の空襲でお寺は焼失し
平成になってから鉄筋コンクリート製で再建されたそうです。

大阪市内なのに約5千坪を上回る立派なお寺とは感心しました。

境内は広大な墓地として現代的な経営もされているようですわ。

禅宗のお寺なので布袋様が微笑んでおられますね。

(布袋さま)


崇禅寺は細川氏の菩提寺の一つなのでお寺の寺紋が「九曜」
細川家の家紋が現在も使用されているようですわ。

足利家は没落したが細川家は江戸時代には肥後・熊本の大名として
明治維新まで存続したので、今も細川家の菩提寺なんでしょうな。

(崇禅寺の 寺紋)


(崇禅寺の石庭)




崇禅寺には6代将軍の足利義教公の首塚と関ヶ原の戦いの前夜に
大坂の細川邸で人質にされることを拒否し、家臣に介錯を命じ
悲劇の自害を遂げた細川ガラシヤさんのお墓が有ると聞いてました。

広い墓地を歩き回って本堂の裏手にやっと見つけましたがな。

有名な割にお墓への道標がないので30分ぐらい探しましたで。

(崇禅寺の 足利義教公 細川ガラシヤ 開山和尚 三つの墓)


(足利義教公の首塚)


(細川ガラシヤの墓)(俗名 細川玉子)


(崇禅寺中興の 開山和尚の墓)


1600年(慶長5年)6月に徳川家康公は上杉征伐を命じて
細川ガラシヤの夫である細川忠興は大坂を出発するに際し。

「我が妻の名誉が汚されるならば、妻を殺害し家臣一同は

  切腹して大坂屋敷に火を放てと命じたとのこと」

細川ガラシヤは明智光秀の娘で織田信長の命で細川忠興と結婚。

直後に本能寺で明智光秀が謀反を起こしたために細川忠興は
別居して謹慎するも、豊臣秀吉の斡旋で元の鞘に戻ったとも。

細川ガラシヤと細川忠興の仲は円満で三男二女を儲けていますかな。

1600年(慶長5年)7月17日大坂側の兵に屋敷を包囲され
大坂城へ入るように言われたのを細川ガラシヤは拒絶したとか。

家老の小笠原小斎に介錯を命じ自害して果てたとされてます。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

                  細川玉子 辞世の和歌

神父オルガンチノが焼け跡から細川ガラシヤの遺骨を取り出し
堺のキリシタンの墓地に埋葬したと記録されています。

1601年(慶長6年)細川玉子の死を悼んで細川忠興は
崇禅寺に改葬したのが現在のお墓だとされていまかな。

(崇禅寺 本堂)




社務所の前に自由にお持ち帰りくださいとのこと。

申し訳ないので300円だけ箱に納経させて貰いまひょ。

(崇禅寺の ご朱印)


(大阪 歴史の散歩道)


それでは、今日はこれぐらいにしておきまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪





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鉄ちゃん爺やの一人旅  博多駅から 山口市の瑠璃光寺へ

2019-05-26 21:39:42 | お寺
3月21日(木) 一人旅は折り返しの5日目となりました。

早目に朝食を済ましJR博多駅前を散策してましたんや。

先ずは昭和時代に出張した際の「都ホテル」が在った筑紫口から。

当然ながら33年が経過、ホテルは新しく建て替えられてましたわ。

(JR博多駅 筑紫口モニュメント)


新幹線を降りて改札を出たら、そこが筑紫口という駅前になりまぁ。

5月3日~ 4日の「博多どんたく松ばやし」と同じく
7月1日~15日の「博多祇園山笠」が描かれてるようですわ。

(JR博多駅構内 連絡通路)


反対側の博多口の方へ回ってみまひょかな。

昔は博多ステーションビルだったが10年ぐらい前に建て替えられ
博多駅ビルとリニューアルされたそうですわ。

当時は井筒屋さんがテナントでしたが新しく阪急さんが入店したとか。

(JR博多駅舎&博多駅ビル)



(JR博多駅 博多口より  はかた駅前通りを撮影)






道路の下を福岡市の地下鉄が走ってますんや、二つ目が有名な博多中洲
三つめが繁華街の天神となりまぁ、反対に行けば福岡空港なんだって。

博多駅からはのんびりと在来線で大阪まで帰る予定で、こんなきっぷを購入。

(JR福岡市内 ~ JR柏原駅 普通きっぷ) (9980円)


(JR博多駅 在来線改札口)


(JR九州 博多駅名標)


この日は早朝から九州地方は雨になり、鉄ちゃん爺やの一人旅もコース変更に。

取り合えずAM7:46発の快速電車で小倉駅行きに乗ることにしました。

(JR博多駅 上りホーム)


(JR九州 特急かもめ)


JR肥前鹿島駅をAM6:39に発車してAM7:43に博多駅に到着。

隣のホームに着いたので待ち時間を利用して撮影しました。

JR長崎駅の方へ行くのならこの特急に乗ることになりまぁ。

(鹿児島本線 快速電車 小倉駅行き)




鉄ちゃん爺やは反対側の小倉駅の方へAM7:46に発車となりまぁ。

福岡県を走っている間は雨が強く車窓から風景も写せまへんでした。

定刻通りAM8:58にJR小倉駅に到着で、次はJR下関駅行きの
AM9:11発の普通電車に乗り継ぎとなりました。

(JR九州 小倉駅駅名標)


前回も紹介しましたが関門トンネルは直流区間なので、ここからは
交流・直流併用の415系でしか走れまへんのや。

本州へは小倉駅から下関駅まで駅数で二つなんですが現在は必ず
在来線では乗り換えになってしまい、不便な気がしまんねん。

(415系交流・直流 併用電車)




(JR下関駅名標)


九州からお別れしてJR下関駅に到着したらJR西日本さんの管轄。

駅名標も関西と同じブルーの配色に変わり、なんとなくほっとした気分。

JR下関駅で途中下車して散策を考えてたんですが生憎の雨模様。

駅前のバスターミナルだけを写して先へ向かうことにしました。

(JR下関駅前の バスターミナル)




(JR西日本 113系 近郊型電車)


この車両は岡山から広島や山口までの山陽本線を走ってますんや。

何せよ国鉄時代からのロートルですので最後のご奉公でしょうな。

瀬戸内海のミカンの色をイメージする「瀬戸内色」と呼んでますんや。

(山陽本線の車中より 日清食品下関工場)


昭和の時代にここから関東や関西へカップヌードルを運んでました。

訪問したことはないですが電話ではよく取引を交わしましたかな。

雨に煙ってますから写真の写りが悪いのでご容赦の程。

(JR山口線の きっぷ)


鉄ちゃん爺やはJR山陽本線と大阪までのきっぷは持ってますが
JR山口線には乗れませんので240円のきっぷを購入。

このような場合は飛び出しというルールを使うことになりまぁ。

だからJR新山口駅で途中下車して飛び出しということになりまんねん。

(JR山口線 周防下郷駅)


ここは昔の国名では「周防の国」になりますんや。

JR新山口駅から約12kmほど内陸に入りますことになりまぁ。

(JR山口駅名標)


(JR山口駅前の置物)


(山口市の  マンホールの蓋)


山口市の赤提灯のお祭りが描かれているようですわ。

賑やかな祭りだと娘婿から聞いてましたが観てはおりません。

娘婿も3月から関東へ転勤に成り、今は住んでまへけど。

(瑠璃光寺の表示板)


日本で一番綺麗な五重塔だと何かで見たことがおます。

娘婿からも一度ぐらいお越しくださいと言われてましたが
機会がなく、彼が転勤になってからの来訪になりましたかな。

(国宝 瑠璃光寺 五重塔)












記念にご朱印を貰いに本堂へ向わせてもらいました。

曹洞宗の古いお寺で、中世に繁栄した大内氏の文化財だそうです。

(瑠璃光寺の山門)




(瑠璃光寺の本堂)




(瑠璃光寺の ご朱印)


大内氏が滅んだ後は毛利氏が入り同じく篤く保護されたお寺の様ですな。

大内氏は室町時代には西国一の大名で応仁の乱には大内氏が西軍に
参戦してから、東軍有利が一夜にして西軍有利に傾いたとか。

大内氏が撤退して応仁の乱が終ったことに成っているようですかな。

(瑠璃光寺の 境内から 五重塔を望む)


(瑠璃光寺境内の つくばい)




(大内弘世の銅像)


(毛利氏の家紋)


(山口市の コミュニテイバス)


(御掘堂の 外郎=ういろう)


娘からお土産に買ってきての希望で立ち寄った店でおます。

外郎(ういろう)ってこんな漢字を書くんですね知らなかった。

外郎は名古屋が有名ですが、ここ山口市でも名物だそうです。


長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は周防の国の一之宮と防府天満宮他を紹介しまっさ。

それじゃ~  これで、さいなら~♪









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日本で仏法最初のお寺  四天王寺をデジカメ散歩

2018-09-30 19:40:34 | お寺
日本書紀によれば推古天皇元年(593年)聖徳太子により

日本最初の官寺として創建されたのが「四天王寺」だったとの事。

(国道25号線 四天王寺の道路標識)


聖徳太子が戦いに勝てば、お寺を創建したいと、おっしゃった。

物部守屋と蘇我一族との戦いで亡くなった人々を弔うために
建てられたのが「四天王寺」だったとの説が有力のようでんな。

「四天王寺」の住所は  大阪市天王寺区四天王寺1-11

大阪の新しい名所になった「あべのハルカス」の近くに在る
JR天王寺駅などの地名も「四天王寺」から拝借してまんねん。

奈良の法隆寺が同じく聖徳太子ゆかりのお寺として有名でっけど
天災や戦乱から免れて現在は、世界文化遺産になってまっしゃろ。

残念ながら「四天王寺」は火災や風水害とか大阪での戦乱により
幾度も焼失や倒壊を重ね、そのたびに再建された違いがおますかな。

(四天王寺 南大門)




ここが「四天王寺」の正門に成ると知ったのも、恥ずかしながら
平成になってからで、約25年ぐらい前になりますかな。

この南大門も、次に紹介する大伽藍も昭和20年3月の大空襲で
鉄ちゃん爺やが若い頃には焼失して焼け跡に成ってましたんや。

1968年(昭和38年)に再建されたことは知ってましたが
信仰心も無くて、一昨年に訪れるまで永いご無沙汰でおました。

(四天王寺の 西門) (国の重要文化財に指定)


(四天王寺 西門の扁額)


鎌倉時代の1294年(永仁2年)忍性上人により造られた石の鳥居。

お寺に鳥居が? これは中世からの神仏習合時代の名残りですわ。

幾多の天災や戦乱にも免れ「四天王寺」に残る最古の建造物でおます。

現在はJRや地下鉄の駅からの近道に成りますんで、大阪人でさえ
この「西門=さいもん」が正門だと勘違いをされているはず。

扁額に、ここは極楽浄土への入り口との意味が漢文で記されてまぁ。

(四天王寺 西門から 西側を眺める)


(四天王寺 西門から西側の坂を撮影)




春と秋のお彼岸に、この鳥居から沈んでいく太陽を眺めたら
西方浄土への信仰から極楽へ通じる、入り口と信じられたとの事。

大阪の名所である通天閣の頭の部分だけが見えてまっしゃろ。

その手前は我が家の両親が眠る「一心寺」で急な坂に成り
昔は坂の下が大阪湾の浜辺だったように言われてますんや。

「一心寺」はお骨仏として有名なお寺なんでっせ。

通天閣は平安時代までは大阪湾の岸辺だつた事に成りますかな。

(西門の次は 西大門を潜ります)


この日は秋のお彼岸で9月22日でしたかな、参道の両側には
縁日の屋台が並んでいて、お参りする人も多かったですよ。

(転法輪を廻して 静かに合掌します)




西大門の四隅に「転法輪」が設けられてますんで、お参りに来た際に
静かに廻してから、回転を止めて合掌するのがルールのようですな。

鉄ちゃん爺やも同じように廻してから、静かに合掌しましたんや。

この西大門を潜り抜けると、大伽藍が目の前に現れてきましたで。

(四天王寺 大伽藍への拝観入口)




普段はここから先へは大人300円の拝観料が必要なんですわ。

本日は無料で拝観できるんだって、ラッキー! 

前回は入口から覗き見だけし退散しましたんや。

毎月22日は 太子会(たいしえ) 聖徳太子さまの法会

毎月21日は 大師会(だいしえ) 弘法大師さまの法会

それに春と秋のお彼岸の期間は無料で拝観ができるんだとのこと。

無料なら拝観させて貰わなくちゃと、入場しましたんや。

(四天王寺 五重塔 & 金堂)


(四天王寺 大伽藍内で自撮り)


五重塔の奥に見えているのは中門と呼ぶ大伽藍への正門でっせ。

五重塔のてっぺんが自撮りの為に写ってまへんな。

(四天王寺 五重塔の全景)




現在は和宗の総本山と呼ぶそうで、どんな宗旨にも関わらず
八宗兼学のお寺として、関西の人々に親しまれて居るんだって居るん。

でも~ 弘法大師さまをお祀りしているのには不可思議ですけど。

(四天王寺 金堂の全景)




ご本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)とされてます。

1963年(昭和38年)に再建されたコンクリート製のお堂です。

歴史的な価値は薄いんですが日本で最古の「四天王寺式」と呼ぶ
寺院建築の様式と配置を、忠実に再現しているとのことですわ。

法隆寺の「若草伽藍跡」もここと同じ「四天王寺式」だったとか。

南大門を一番南に置き、中門・五重塔・金堂・講堂 と北へ一列に
配置したのが「天王寺式」と呼ぶ古い大陸から伝わった様式だとの事。

(四天王寺 中門)


中門の向こう側、遠くに「あべのハルカス」ビルが見えてまっしゃろ。

本来は南大門から入り中門を潜って大伽藍に入るのがルールですわな。

でも~ 西側から入り右手に中門を見るような形に成ってますんや。

(四天王寺 大伽藍の回廊)




(四天王寺 講堂)


救世観音菩薩さまや講堂に納められている薬師如来さまなど
全て撮影が禁止されてますんで、ご容赦の程。

(四天王寺 大伽藍の回廊)




(金堂の裏手から 撮影)


(四天王寺さん ご朱印)


鉄ちゃん爺やがまだ小学校の低学年だったころのお話。

一族の方々は「お寺のおばあちゃん」と呼んだ祖母に連れられ
四天王寺にお参りしたことが記憶に残ってますんや。

帰りに西門の近くで親子丼・天丼・ざる蕎麦などを
食べさせてくれるので記憶に残っていたようですわ。

戦争直後の食べ物のない時代のお話ですけどね。

記憶では21日にお参りをしていたようで弘法大師さまを
自分の信仰心として崇めていたんでしょうな。

何故か、法名は浄土真宗系に成っているのが疑問ですけど。

(経木と言いますんや)




経木って、ご存知かしら?  祖母は先祖代々の他に
早くして亡くなった我が子や我が孫の名前を書いて貰い
四天王寺の亀の池に流して供養をしていたようですわ。

(四天王寺 経木お流し処)




回向して貰った経木をここで水に浸して亀の池に流すんですわ。

神聖な場所として撮影などは禁止されてますので悪しからず。


(四天王寺の 石舞台) (国の重要文化財に指定)






日本三大舞台と呼ばれるそうで、4月22日の聖徳太子さまの命日に
「聖霊会」の舞楽が厳かに、ここで舞を演じられるんだそうです。

ちなみに日本三大舞台は広島の厳島神社の舞台と大阪市内にある
住吉大社の舞台を称するんだそうですけど。

石舞台の奥に「六時堂=ろくじどう」と呼ばれるお堂が在ります。

(四天王寺 六時堂礼賛堂)(国の重要文化財に指定)






四天王寺では1945年(昭和20年)の大阪大空襲や、その前の
室戸台風にも被害を免れた江戸時代は元和年間に建造されたお堂です。

このお堂の中で祖母が持参した経木を回向して貰ったような記憶ですわ。

(四天王寺 亀の池)






大阪では有名な池で、上方の漫才や落語にも登場しまんねんで。

この池が極楽浄土まで繋がっていると考えられたようですわ。

(大坂夏の陣 茶臼山・天王寺の絵図)


(黒田絵巻に 天王寺の西門が)


(大坂の陣史跡案内所) 


黒田絵巻の本物は大阪城の天守閣に保存されてるそうです。

大坂夏の陣に四天王寺の石造りの西門を挟んで下に有名な
真田幸村の軍勢が、反対側の四天王寺の境内に毛利勝永が
描かれているので、当時も今と同じ鳥居が立っていたようでんな。

(国道25号線から 四天王寺の外壁を撮影)


大坂夏の陣では真田幸村が有名に成ってますが、一番活躍し
本多忠朝や小笠原英政などを打ち取って、真田幸村が戦死後に
大坂城まで戻って、豊臣秀頼を介錯した後に自刃したそうです。

毛利勝永は豊臣秀吉時代に九州の小倉城主の息子だったそうで
秀吉の命により名門・毛利氏の名前を拝領していたそうですわ。

(お騒がせしました 逃走犯人のパネル)


最後に大阪府の富田林署から逃走した犯人が48日ぶりに
山口県の周南市で9月29日に逮捕されたそうですな。

お粗末な大阪府警の出来事で、本当にお騒がせしました。

画像は駅や公共施設に掲示された犯人のパネルでした。

更なる事件を起こさずに逮捕されたのは幸いでしたかな。

それでは、本日はこれにて、お仕舞にさせてもらいます。

台風24号がまもなく大阪府の南側を通過するそうです。

全国の皆様方へ、十分にお気を付けくださいませ。

ほな~ これで、さいなら~♪



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世界三大微笑像の一つ  中宮寺にて ご対面

2018-06-03 19:33:36 | お寺
法隆寺は他府県の方でも修学旅行や遠足で
一度は訪れられたことが多いと思いまんねん。

でも法隆寺の「夢殿」の東側にひっそりと佇む
「中宮寺」は、ご存知ではないでしょうな。

(中宮寺門跡 案内の道標)


このお寺は江戸時代には皇族の姫宮様が門跡を務める
門跡尼寺として、高い格式を持つお寺でしたんや。

内親王様が門跡(住職)に成られたことも有ったとか。

明治になって皇族の姫宮様が降下されることは廃止に。

民間の女性が住職を務める尼寺として今も健在だとか。

現在でも尼さんが住職を務める奈良尼寺三か寺の一つ。

(中宮寺=ちゅうぐうじ 遠景)


現在は法隆寺の子院である敷地にひっそりと佇む
お寺なんですが、約400mほど東側に基礎石だけ
残る奈良時代から中世までは大きな寺院でしたんや。

寺伝によれば、聖徳太子の母親である間人皇后さまが
斑鳩御所を中央に置き、西の法隆寺と対照的な位置に
創建されたのが、このお寺だったそうですわ。

創建当時から法隆寺は僧寺として、ここ中宮寺は
尼寺として造られた事が基礎石から判明するんだとも。

(中宮寺 入口)


ここまでやつて来る観光客も、素朴な山門を観たら
素通りするか、引き返す方が多いかもしれまへん。

実は「世界の三つの微笑像」と呼ばれる国宝の
菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)が有るなんて
知らない方が多いのは、当然だと思いまっけど。

鉄ちゃん爺やは学生時代から知ってましたで。

美しい仏さまだと日本史の先生から教わった記憶が。


中宮寺・本尊 菩薩半跏像 (飛鳥時代の製作?)

別名 如意輪観世音菩薩像 (平安時代以降)


写真撮影は禁止なので中宮寺のパンプレットから。

(国宝 中宮寺 菩薩半跏像) (案内書から転写)



「世界三大微笑像」とは

中宮寺 本尊の       菩薩半跏像

エジプトの         スフインクス

レオナルド・ダ・ヴィンチ作の  モナリザ


この三つをそのように呼ぶんだそうですわ。

これを知ったのは15年ぐらい前の事でっけど。

(中宮寺 表御殿=おもてごもん)


おもてごてんと読みそうですが、おもてごもんが正解。

皇族方が来られるので格式の高い「御座の間」を含む
六部屋からなる建物で見事な襖絵が施されているんだって。

建物自体は江戸時代の再建で登録文化財になってますんや。

(中宮寺 本堂)


鉄ちゃん爺やが前回に訪れたのは1958年(昭和33年)

この本堂は1968年(昭和43年)完成との事なので
今回が初めて、ここには小さいお堂が在ったのかしら?

ご本尊さまには記憶がおますんやけどお堂は分かりまへん。

珍しい池の中に建てられた本堂なのが印象的でっかな。

高松宮妃さまのご提案で再建がされたようでっけど。

(中宮寺 本堂の柱と周囲の池)




(山吹の花で囲まれた 中宮寺の本堂)


(中宮寺の パンフレット) (黄色い花は山吹)


「山吹の寺」として春には黄色い花でさぞかし綺麗なはず。

「山吹の寺」だとは今回訪れて初めて知ったんでっけど。

この本堂には現在はレプリカでっけど「天寿国曼荼羅繍帳」が

(天寿国曼荼羅繍張=てんじゅこくまんだらしゅちょう)


国宝で現在は奈良の国立博物館に保存されているんだって。

聖徳太子が622年(推古天皇30年)御年48歳で薨去
遊ばした後、お妃の橘大郎女(たちばなおおいらつめ)が

いたくお嘆きになり、太子様をお慕いのあまり宮中の采女に
命じて聖徳太子様の往生されている天寿国という世界を想像し
刺繍によって織らせたとの貴重な曼荼羅なんだそうですわ。

飛鳥時代の繊維が残っている貴重な物で鎌倉時代に法隆寺の
蔵から発見されたを何度も修復したと伝えられてますんや。

保存が難しいので奈良国立博物館に寄贈されたようでんな。

(中宮寺 門前の掲示板)


菩薩半跏像は京都広隆寺の弥勒菩薩像と似ているのでは?

鉄ちゃん爺やの独断でっけど、ほぼ同じ時代の製作かも?

共に朝鮮や中国から伝わった技法で製作されたはず。

中宮寺の菩薩半跏像はクスノキの寄せ木造りだとの事。

(京都太秦 広隆寺の弥勒菩薩像)




共に右足を左膝の上に置き右手を曲げて、その指先は
ほのかに頬に触れる、優美なお姿になってまっしゃろ。

広隆寺の弥勒菩薩さんの方が庶民的なお顔のようでんな。

もう一度中宮寺の菩薩半跏像の方を貼り付けて置きまひょ。

コピーなので分かりずらいかもしれまへんが
美しいお姿を、是非とも拝見にお越しくださいませ。

それにしても美しい仏様だと思いますんや。

法隆寺の百済観音様と甲乙が付けられないお姿でんな。

台座から1m40cmぐらいの小さな仏様なんですよ。

(中宮寺 菩薩半跏像)


本堂でご本尊さまを写真で撮影することは禁止でおます。

本堂の中でテープの説明を受けるだけになってますんや。

あの天寿国曼荼羅も、ご本尊様の前に掲げられてまっせ。

蛇足ながら中宮寺の菩薩半跏像は、鉄ちゃん爺やが若い頃
50円の郵便切手の図柄に採用されてましたはず。

昭和の50年代まで流通していたような記憶がおます。

(中宮寺 本堂への参道)




(中宮寺の ご朱印)


(法隆寺 国宝 南大門の柱と自撮り)


国宝・南大門の柱と写真を撮って戻ることにしました。

法隆寺と中宮寺の紹介はこれにてお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、 さいなら~🎵
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日本最初の世界遺産  法隆寺を訪ねて

2018-05-27 20:44:35 | お寺
野暮用で大和郡山市へ出かけてましたんや。

自然史博物館は後回しにさせて貰いまっさ。

世界遺産の法隆寺を今回は紹介させて貰いまひょ。

(大和郡山市の マンホールの蓋)


大和郡山市は日本で有数の金魚の養殖が盛んで
マンホールの蓋にも金魚が描かれてまっせ。

福島県の郡山市の方が先に市制を敷いたんでしょうな
大和の名前を付けて大和郡山市と呼びますんや。

江戸時代後半には柳沢15万石の城下町でしたかな。

大坂にも近い戦略的な場所でもあったようですわ。

(JR大和小泉駅舎)


(JR大和小泉駅から 西側を撮影)


遠くに見えるのは二上山でその右側の奥に
鉄ちゃん爺やの住む街がおますんや。

ここから約20kmぐらいの距離になりますかな。

野暮用が早く終わったんで奈良交通の路線バスで
隣町にある法隆寺を久しぶりに訪れましたんや。

(奈良交通 法隆寺前 バス停)


(国道25線 道路標識)


ここは奈良県生駒郡斑鳩町という地名になりまぁ。

斑鳩町(いかるがちょう)と読むんでっけど。

「法隆寺」が在る、ご存知の地名では有りますけど。

そんな訳で、難解な地名だとは言えないのかも?

(斑鳩町の マンホールの蓋)


当然のように「法隆寺」が描かれてまっしゃろ。

他には百人一首にも詠まれる龍田川やモミジで
昔から有名な人口2万7千人の小さい街でおます。

(史跡 法隆寺旧境内)


(法隆寺 旧境内の松並木)


「法隆寺」に来たのは鉄ちゃん爺やが高校3年の頃。

久しぶりも久しぶりで約58年ぶりになりまっかな。

昔はこの松並木の道を「法隆寺」へ向かった記憶が。

現在は両側に立派な車道と両脇には歩道も出来て
観光客が安全に歩けるようになってますやろ。

(現在の 法隆寺への参道)


(法隆寺の 石碑)


(法隆寺山門前の 土産物店)


(法隆寺門前の 下馬の石碑)


(法隆寺の由来書き)


まずは法隆寺の総門になる「南大門」でっせ。

室町時代に再建された物で、これも国宝でおます。

飛鳥時代の国宝や重要文化財が多数残ってますんで
室町時代といえば、法隆寺では新しい建物になりまぁ。

(国宝・法隆寺 南大門)






何せ法隆寺には国宝や重要文化財が合わせて約190点。

現在の境内だけでも約6万坪(18万平方メートル)

奈良でも有数の規模を誇る大きな寺院なんですわ。

(国宝の南大門を 内側から撮影)




南大門から中門に向かう両側の土塀も全てが重要文化財。

高校時代にはそんな意味も分からず素通りしたような感じ。

(法隆寺 境内図)


(法隆寺 中門の付近の参道)


大きく分けて金堂と五重塔が在る西院伽藍(さいいんがらん)

有名な夢殿などが在る東院伽藍(とういんがらん)になりまぁ。

(世界文化遺産 法隆寺の石碑)


画像が鮮明じゃないんですが日本最初の世界文化遺産の文字が。

1993年(平成5年)12月にユネスコから姫路城と共に
日本で最初の世界文化遺産に登録されたんでしたかな。

今年に福岡県の宗像大社と沖ノ島が新しく登録されるそうで
世界文化遺産が17件と世界自然遺産が4件になるんだとか。

(修理中の 国宝・法隆寺の中門)


これは残念なことで最高の被写体が写せまへんがな。

12月に完成だから来年に来れば良かったなと少しだけ反省。

中門から金堂や五重塔を撮影するのが最高のアングルのはず。

(法隆寺 五重塔を 回廊の外から撮影)


(法隆寺 一般参拝券) (大人1500円)


入口で参拝するのに1500円も要るとは驚き!

幾ら3か所見学できると言ったって1500円は高い!

普通のお寺では500円~800円が通常なのにと憤慨!

ここまで来て帰るのも残念なので、渋々の入場でおます。

(国宝・法隆寺 金堂)


(国王・法隆寺 五重塔)


この二つの建物は世界で一番古い木造建築物なんでっせ。

一度は7世紀に焼けたとか、焼けてなかったとの論争が
昔からおますんやけど、最古の木造建築には変わりが無く
飛鳥時代の姿を現在に伝えることで知られてますかな。

(国宝・法隆寺 五重塔と金堂)


(国宝・五重塔と金堂を背景に 自撮り)


残念ながら逆光だったの気が付いてまへんでしたわ。

(国宝・法隆寺の大講堂)




こちらは一度焼けて平安時代に再建されたそうでっせ。

落雷で焼けて正暦元年(990年)に再建だそうですわ。

それでも約千年を超える立派な建物には違いがおまへん。

(国宝・法隆寺の金堂 東側から撮影)


この内部には有名な金銅釈迦三尊像が安置されてまっせ。

法隆寺の内部は全て写真撮影が禁止されてまぁ。

だから写真を300円奮発して買ってきましたんや。

(国宝・法隆寺 金銅釈迦三尊像) (絵葉書から転写)


この仏像だけは58年前に拝観した記憶がはっきり残り
その時は悪友5人で誰かに似ていると冗談を言ったはず。

不謹慎なれど同行した女の子の彼氏だったように思う。

(国宝・法隆寺 金堂と五重塔)


西院伽藍の出口から写すとこんな感じになりますんや。

それでは次の拝観に向かうことにしまひょ。

(国宝・法隆寺 聖霊院=しょうりょういん)




西院伽藍の回廊の外側で東西に東室(ひがしむろ)と同じく
西室(にしむろ)が南北に細長く置かれてるそうですわ。

僧侶の住居だった僧房で、特に聖徳太子の尊像を安置する
東室(ひがしむろ)の南端部を聖霊院と呼んだんだって。

現在は法隆寺のご朱印を頂くような設備になってますんや。

(法隆寺の ご朱印)


(朱印帳を 新しく購入)


ご朱印帳が満杯になりましたので今回は法隆寺で購入。

「以和為貴 = 和を以って貴しとなす」

聖徳太子さまの有名な、お言葉でしたよね。

それでは二つ目の拝観である、大宝蔵院へ向かいまっせ。

貴重な法隆寺の宝物が保管されている場所なんでっせ。

(大宝蔵院前で 自撮り)


(大宝蔵院と 奥に百濟観音堂)


ここは法隆寺には珍しい平成になってから出来た建物で
貴重な宝物を保管し展示する、大宝蔵院と奥の位置に
国宝・百済観音像を安置する百濟観音堂がおますんや。

(国宝・法隆寺 百済観音像) (絵葉書から転写)


日本で一番美しい仏像だとの声がある優美なお姿でっせ。

八頭身の珍しい仏像でこの慈悲深い百済観音像を安置する為に
平成になつてから建設されたのが百済観音堂だそうですわ。

(国宝・法隆寺 玉虫厨子) (絵葉書から転写)


大宝蔵院には1400年に渡る法隆寺の歴史を伝える
仏像や宝物が数多く保蔵され一般展示されてますんや。

それでは三つ目の東院伽藍の方へ向かうことにしまひょ。

(東院伽藍の 夢殿への案内掲示板)


(東院伽藍へ向かう参道から撮影)


(東院伽藍への参道で 自撮り)




東院伽藍の「夢殿」がこんなに離れていたとは記憶がおまへんな。

当時と風景や建物は変わりが無いのに全く覚えがありまへんのや。

当時は高校生で法隆寺の名前だけで興味も無かったんでしょうな。

(国宝・法隆寺 夢殿の甍)


やはり1500円も納めたんだから全部拝観しないとダメですよね。

国宝や重要文化財のオンパレードだから、興味のある方には
1500円でも安いんでしょうが、鉄ちゃん爺やはその域に至りまへん。

(国宝・法隆寺 東大門)




寺院の僧門としては日本で一番古い奈良時代の建物なんだって。

三棟造りと言う珍しい四脚門になってますんや。

(重要文化財 法隆寺 東院伽藍の入口)


(国宝・法隆寺 夢殿)






奈良時代の天平年間に聖徳太子の宮殿があった跡に
造られたのが東院伽藍の「夢殿」だそうですわ。

斑鳩宮(いかるがのみや)と呼んだそうで現在も
法隆寺を斑鳩寺(いかるがてら)とも呼ぶそうでんな。

(国宝・法隆寺の舎利殿&絵殿)


聖徳太子が合掌された掌中から出現したと言われる
舎利を納めたお堂で、聖徳太子の一生を描いた
障子絵が納められてるので絵殿とも呼ばれるんだとか。

鎌倉時代の建築で裏側の伝法殿と共に国宝に指定。

(国宝・法隆寺の夢殿を背景に 自撮り)


夢殿を囲むように回廊があり、こちらは重要文化財だとか。

お隣の中宮寺は次回に紹介することにしまひょ。

(重要文化財 東院伽藍の回廊)


(重要文化財の 法隆寺参道の土塀)






こう云う土塀は奈良の古い街にはお似合いかも知れまへん。

京都とは少し違ったイメージがするように思いまんねん。

奈良の東大寺の付近も同じような風景がおましたけど。

(法隆寺 塔頭の見事な鬼瓦)


(斑鳩町のゆるキャラのようですな)


長くなりますので本日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は法隆寺のお隣にある中宮寺などを紹介しまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵




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眼病封じのお寺  壷阪寺へお参り

2018-01-14 09:55:17 | お寺
岡崎へ戻る息子に遠回りだけど、立ち寄って貰いました。

西国三十三か所 第六番札所 壷阪寺(正式名 南法華寺)

真言宗豊山派の寺院なんですが、眼病封じのお寺として有名。

奈良市から桜で有名な吉野山へ向かう途中におますんや。

(西国六番 壷阪寺の 山門)


内の奥さんが2月中旬に白内障の手術をしますんや。

その前に、是非とも壷阪寺へお参りしたいとのこと。

近鉄電車と路線バスを使ってでも、これますんやけど
息子の車で立ち寄って貰えば自宅から1時間のコース。

(壺阪寺の 入山受付所)




まだ息子が独身だった平成6年に同じく立ち寄ってますな。

丁度この日が24年ぶりのお参りということでしたわ。

息子は薄っすらとしか覚えてないとの話でしたけど。

(平成6年に受領) (壺阪寺のご朱印)


ご朱印は、このように何時に訪れたのかが分かりまっせ。

この数年前から、ご朱印を始めたように思いますんや。

(壷阪寺 境内から仏閣を撮影)


右から重要文化財の三重塔、その左手が礼堂で
こちらも重要文化財に指定されているそうですわ。

次の左側が八角の円堂で、こちらが本堂になりまぁ。

一番左手は手前にある灌頂堂が写っているのかも。

階段を登って少し高い所に寺院が並んでますんや。

それでは階段を登ってお参りすることにしまひょ。

(境内から 撮影)


(重要文化財 壷阪寺の礼堂)


(壷阪寺 眼病封じ祈願受付所)


後姿で写ってるのは内の奥さんでございます。

白内障と緑内障を併発しているんですわ。

(壺阪寺の礼堂にて  眼病封じ祈願のお札)




(本尊 十一面千手観音菩薩像)


本堂の十一面千手観音さまに眼病封じをお願いし
お札を真ん中で折って、右側を奉納しまんねんで。

左側の半分は持ち帰って肌身に着けるそうですわ。

(眼病封じ 納め札)


上から五段目の右から4枚目が内の奥さんの札です。

鉄ちゃん爺やも並んで観音様にお願いしましたんや。

(本尊 十一面千手観音菩薩像)


本尊を撮影できるとはラッキ! 有り難いことでした。

奈良や京都の寺院では大半が撮影禁止でっさかいに。

ご本尊をプリントアウトして奥さんに渡しまひょ。

(弘法大師さまの像)


(重要文化財 壷阪寺の多宝塔 三重塔)


「壺坂霊験記」という物語をご存知かしら?

浪曲では、浪花亭綾太郎さんの名調子でしたかな。


「妻は夫を労わりつ~  夫は妻を慕いつつ~
 
  夏とはいえど片田舎~  」


凄く高音で伸びのある歌声は一世を風靡したもんですわ。

鉄ちゃん爺やが小学生の頃はまだ浪曲も盛んでしたな。

綾太郎さんは確か盲目の浪曲家だったと記憶してまぁ。

確か昭和35年に亡くなられたと聞いてますんや。

(壷阪寺境内の 石碑)


平成15年(2003年)には本堂で歌舞伎が演じられ

沢市役を 中村勘九郎(故 勘三郎)

お里役を 中村福助さん 

これは壷阪寺創建1300年周年の催しだったとか。

大宝3年(703年)創建の古いお寺のようですわ。

「壺坂霊験記」を少しだけ紹介して置きまひょ。

浄瑠璃で始まる、頭の部分はよく知られたセリフ!


「三つ違いの兄さんと~ いうてくらしているうちに~

 情けなや、こなさんは、生まれもつかぬ、ほうそうで

 眼かいの見えぬその上に~ 貧困にせまれどなんのその~

  一旦 殿御(とのご)の沢市さん~ 」


盲目が治らぬ沢市はお里を不憫に思い、壷阪寺の本堂から
身投げをしたとか、お里は悲しんで己も後を追って身投げを。

共に谷底で死んだはずが生き返り、沢市さんの盲目が
壺阪の観音様のご慈悲で目が見えるようになったとの話。

お里さんの三年にも及ぶ朝詣でに、観音様のお救いが。

貧しくも仲良く暮らせよのご慈悲、目出度し、目出度し。



(天竺からの 大観音菩薩石像)(高さ 約20m)




インドにてハンセン病の治療に専念した壷阪寺へ
返礼として、現地の石が寄贈されたんだって。

その石で造られたのが大観音菩薩石像だそうですわ。

高さが約20mで重さがなんと約1200トンだとか。

この立像と共に「大涅槃像=だいねはんぞう」も造られ
熱心な信者や、観光客で賑わっているようだっせ。

(レプリカの 涅槃像=ねはんぞう)


次回に、お礼参りに来る際には大観音石像と大涅槃像を
見学することにして、今回は下山することにしました。

家内の眼病封じが主な目的なので写真はこれぐらいに。

下山の途中に、こんな慰霊碑が設けられてましたで。

(陸軍歩兵 第67連隊 英霊之碑)




インパール作戦で要衝のコヒマで英軍の補給路を遮断し
一番最前線に出て、大きな損害を出したのが第67連隊。

インパールは占領できるぞと日本軍が喜んだとの逸話も。

でも英軍は飛行機でインパールに物資や弾薬を補給。

逆に日本軍は補給もなく撤退時に多くの犠牲者を出し
惨敗を喫したという戦いだったと聞いてますんや。

でも~ 第67連隊は敦賀や福井の連隊だったはず?

何故に壷阪寺に第67連隊の英霊之碑が出来たのかが不明。

(阿弥陀如来石像)


(阿弥陀如来石造と 諸仏石像)


(奉納された 十一面千手観音像)


(蓮石曼荼羅=れんげいしまんだら)




これらの石像や彫刻類もインドから寄贈された石で
造られた物のようでんな、平成6年に訪れた際は

あの大観音菩薩石像だけだったように記憶しまぁ。

(壷阪寺 眼病封じの お守り)


(戌年の記念 札入れの財布)


(壷阪寺 駐車場からの展望)


中央やや右寄りで台形の山が大和三山の一つで
畝傍山(うねびやま)といいますんや。

その左側の山裾に橿原神宮(かしはらじんぐう)が。

初代天皇とされる神武天皇の御陵も右手におます。

神話によれば、大和朝廷の出来た地とされてますかな。

左手の遠くに見えるのが生駒山で、山の向こう側は
前回に紹介した石切劔箭神社のある大阪府になりまぁ。

(近畿日本鉄道 橿原神宮前駅 駅名標)


ここで息子と別れて、近鉄電車で戻りましたんや。

本日はこれで、お仕舞にしまひょ。

次回は久しぶりに大阪市内へ出かけて見まっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵







 
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