おまたせしました~ 誰も待ってないって。
ほな~ 東高野街道を続けさせてもらいまっさ。
(国道170号線から 高屋の集落へ)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
旧170号線の東側をほぼ並行しながら富田林市へ向かってますな。
画像の左側が東高野街道でっせ。
ここは我が家から100mぐらい離れた場所で
此処までが同じ町内会になってまんねん。
(式内社 高屋神社)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
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醍醐天皇の延喜年間(西暦901年~923年)に作られた延喜式に
載せられている古い神社のようですわ。
我が町を通る東高野街道では一番南の端にある説明板ですな。
ここから先はただの細い道ちゅう感じがしまんねんけど。
(東高野街道)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
付近の田圃や畑より少しだけ高い処に集落が点在しそれを結びながら
東高野街道は南下している訳ですな。
(東高野街道の道標) (江戸時代の物かな)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
右 誉田(こんだ)・道明寺・京
左 ふじいでら・大坂
でも現在は左側は住宅で行き止まり、道が消滅して抜けられないようですわ。
江戸時代にはふじいでらへ抜ける小道があったんでしょうな。
(二上山がちょうど東側に見えてますな)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
あの二つの頂きを持つ山の右側を越えて竹内街道(たけのうちかいどう)は
當麻町へでて奈良の飛鳥に向かっているんですわ。
(東高野街道) (富田林市貴志地区)
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我が家から2kmぐらい歩いて隣町の富田林市に入って来ましたよ。
ここで右折して東高野街道はまたもや国道旧170号線に合流しますな。
200mぐらい先で再び左へ入り2kmぐらいで富田林の寺内町になりま。
お寺ばっかり貼り付けても面白くないので寺内町は機会を改めて
紹介することにして大きく中抜きさせてもらいまひょ。
(東高野街道の終点) (高野街道の起点)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
約10kmぐらい中抜きしてここは大阪府で最も東南にあたる河内長野市です。
堺市からきた西高野街道と我が町からやってきた東高野街道が合流しまんねんで。
名前もここから高野街道に変わって紀見峠を越え橋本市を経由して
真言宗の霊場である高野山に至ります。
現在の鉄道も南海高野線と近鉄長野線がこの駅で接続してまんな。
(南海・近鉄 河内長野駅舎) (合同の駅となっています)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
高野街道に入って直ぐにこの町の天然記念物がおまんねんで。
「吉年邸」(よしどてい)と読みます。
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
江戸時代にはこの地の大庄屋と同時に鋳鉄の製造権利もつ豪商の自宅です。
現在も吉年鍛造と呼ぶ会社を経営しているそうですよ。
(河内長野市 天然記念物 吉年邸のおおくすのき)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
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樹齢400年とか言われるクスノキの大木で昔からこの吉年邸に
植わってたとなれば江戸時代初期からの名家なんでしょうな。
(高野街道の道標)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
また機会を改めて高野街道のお話しをさせてもらう事にして
今夜はこれにて失礼させてもらいま。
ほな~ さいなら~
ほな~ 東高野街道を続けさせてもらいまっさ。
(国道170号線から 高屋の集落へ)
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旧170号線の東側をほぼ並行しながら富田林市へ向かってますな。
画像の左側が東高野街道でっせ。
ここは我が家から100mぐらい離れた場所で
此処までが同じ町内会になってまんねん。
(式内社 高屋神社)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
醍醐天皇の延喜年間(西暦901年~923年)に作られた延喜式に
載せられている古い神社のようですわ。
我が町を通る東高野街道では一番南の端にある説明板ですな。
ここから先はただの細い道ちゅう感じがしまんねんけど。
(東高野街道)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
付近の田圃や畑より少しだけ高い処に集落が点在しそれを結びながら
東高野街道は南下している訳ですな。
(東高野街道の道標) (江戸時代の物かな)
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右 誉田(こんだ)・道明寺・京
左 ふじいでら・大坂
でも現在は左側は住宅で行き止まり、道が消滅して抜けられないようですわ。
江戸時代にはふじいでらへ抜ける小道があったんでしょうな。
(二上山がちょうど東側に見えてますな)
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あの二つの頂きを持つ山の右側を越えて竹内街道(たけのうちかいどう)は
當麻町へでて奈良の飛鳥に向かっているんですわ。
(東高野街道) (富田林市貴志地区)
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我が家から2kmぐらい歩いて隣町の富田林市に入って来ましたよ。
ここで右折して東高野街道はまたもや国道旧170号線に合流しますな。
200mぐらい先で再び左へ入り2kmぐらいで富田林の寺内町になりま。
お寺ばっかり貼り付けても面白くないので寺内町は機会を改めて
紹介することにして大きく中抜きさせてもらいまひょ。
(東高野街道の終点) (高野街道の起点)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
約10kmぐらい中抜きしてここは大阪府で最も東南にあたる河内長野市です。
堺市からきた西高野街道と我が町からやってきた東高野街道が合流しまんねんで。
名前もここから高野街道に変わって紀見峠を越え橋本市を経由して
真言宗の霊場である高野山に至ります。
現在の鉄道も南海高野線と近鉄長野線がこの駅で接続してまんな。
(南海・近鉄 河内長野駅舎) (合同の駅となっています)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
高野街道に入って直ぐにこの町の天然記念物がおまんねんで。
「吉年邸」(よしどてい)と読みます。
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
江戸時代にはこの地の大庄屋と同時に鋳鉄の製造権利もつ豪商の自宅です。
現在も吉年鍛造と呼ぶ会社を経営しているそうですよ。
(河内長野市 天然記念物 吉年邸のおおくすのき)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
樹齢400年とか言われるクスノキの大木で昔からこの吉年邸に
植わってたとなれば江戸時代初期からの名家なんでしょうな。
(高野街道の道標)
photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
また機会を改めて高野街道のお話しをさせてもらう事にして
今夜はこれにて失礼させてもらいま。
ほな~ さいなら~
古い庄屋の家が立派に残っていますね。
吉年邸のおおくすのきも素晴らしい。
歩いてデジカメ、いい運動に成りますね。
健康にも良いですよ。
あの野球で強いPL学園がありますよね~。
次の高野街道の話を待っています。
ところで道標にある「誉田」は(こんだ)と読むのですか?
千葉県の東金近くに誉田(ほんだ)と言う地名があるのですが。
どうでしょう~ 幅2.5mぐらいかしら。
1階は不動産屋さんの事務所のようですね。
吉年邸(よしどてい)は私も読めませんでした。
でも富田林の寺内町や我が町への往来はそこそこあったようです。
当時は石川の水運を利用した船での輸送も多く
古市には船着き場も在ったようですね。
現在は高さも30mを超えているでしょうね。
神社にはくすのきの大木が多いですがこの吉年邸のくすのきは見事な枝ぶりですな。
不祥事件があってから最近はベスト4ぐらいで敗退していますね。
PLは8月1日の花火大会でも有名なんですよ。
応神天皇はホムタワケノミコトと言われていますので
ほんだのほうが語源には近いんでしょうね。
我が町では誉田(こんだ)と読みますが同じ質問を
飲み仲間の関東出身のK君からも受けたことがありますな。
我が町のは誉田八幡宮から取り入れて地名にしているんですが
鎌倉時代には既に文献に載っているそうです。
こんなに歴史のある街は珍しいのではないですか?
そこに住んでおられる鉄ちゃん爺やさん、いいなぁ~^^
立派なクスノキの大木も素敵ですね。
歴史を感じます♪
生きた教材は過去~現在へと続いていますね。
道が細くなる…消える…迷い道=戦略上?
火災に脅えた年代も創造できますね。
古い佇まいの家並みには北海道にいても
別な意味での古里が感じられます。
こちらの環状7号線に沿った所にも~
もう少しスマートなお家がテレビで!
紹介をされた事を思い出しています(^▽^)/
5月もお世話になりました。
6月もよろしくm(._.)mで~す。
落ち着いた雰囲気の街なのですね!!
物部一族の高屋連ですかぁ!!
歴史も感じられるようですし、、一度行ってみたいですね~!!
高野街道、高野山へ行く道なのですね。
こちら松山でも、高松へ向かう今の国道11号線のことを、
金毘羅街道と呼んでいたそうです!!
飛鳥時代から賑わった町のようです。
江戸時代後半には河内木綿で有名な土地でもありました。
でも明治以降は元気がなくなったようですな。
今は平凡な地方都市という感じですね。
江戸時代にも同じぐらいの人口が有ったのかしら
古市代官所もある徳川さんの天領だったそうです。
富田林が自治を認められた寺内町に対して我が町は徳川幕府には
大事な河内木綿の集散地であり大坂への水運の基点でもあったようです。
大阪市内にもっと奥行きの狭いビルが在りましたよ
機会があればブログに載せてみましょうね。
帰りも同様に2泊3日ぐらいが江戸時代には一般なコースだったんでしょうね。
熊野詣・伊勢参り・高野山霊場巡りと江戸時代の人は
旅行気分で色々と訪ね歩いたんでしょうな。
久々で懐かしいです。河内長野。
休みの日は、まだ幼稚園だった子供をつれて、こちらの方へも遊びに行きました。
富田林・河内長野。
ここらあたりまで足を延ばして、スーパー銭湯めぐりをしていました。
河内長野の方が少しずつリニューアルされ始めましたよ。
河内長野は人口も増えて数年先には我が町を追い越すだろうと思います。
河内長野駅から急行で難波までは早く行けますので通勤圏内ですよね。