東日本大震災から12年。
私はその日高校にダンスコーチで来校していた。
練習の途中、パニックになる学生を誘導しながら
学校の対応に助けてただいた。
当時、父親が仙台の松島水族館で働いており
繋がらない電話、テレビに映る燃え上がる炎、
色々覚えている。父方の祖母の家は屋根が壊れるなどはあるも、
場所的に無事だったんだ。
ま、この辺の話は震災以外の複雑さが絡んでいる部分なので、
書ききれないからアレなんだが。
とてつもない時間だった。
テレビに映る東北の様子は、映画を見ているような現実味がない状態で。
でも映画のような展開がどうじゃなく、
現実というのは、ただ時が止まり、1日1日と奇跡が起きないことを叩きつけられた気がして、
救えないことがこんなにも苦しいことなのだと痛感する日々だった。
この時期、芸術家たちはみんな苦しんでいたと思うけど、
悲しいかな、すぐに商売ネタにする人がいたり、ボランティアをしてないのにしてるとうたった人が沢山いたのも覚えている。
人ってさぁ、マジで複雑だよね。
もちろん、人の素晴らしい部分にも感動した時期でもある。
その後、ゴスペル甲子園出場時に審査員をしていた
音楽プロデューサーの猪狩さんが仙台に呼んでくれ被災地を案内してくれたり、
支援学校や、小学校で講演をする機会をくださった。
そこに合わせて、岩手でK-10BAND(ビックバンド)のコンサートに参加させていただき、みんなの話を色々聞かせていただいた。
自分は被災者ではないので、
結局のところきっと深い痛みには触れられないまま
生きているんだと思う。
さらにいえば、その当時精神疾患で病院に通い始めたときで
誰かのために何かを沢山できる状態じゃなかったことや
ギリギリな状態で人と関わっていたこと、本当に自分が生きているだけで精一杯だった。
今はねそれは、みんなそうだよね。
生きるだけで精一杯だよね。
って思うけど。
当時は目を背けたくなるくらい
自分の精神が不安定だったので
そこにいるだけで、みんなの優しさや強さに触れるだけで
自分の無力さや、情けなさに涙が出ていた。
でも、そんなときでも、私に東北に行く勇気をくれた沢山の人に感謝していますし、出会いは偉大だって感じます。
12年。
子供が小学生6年生に成長するほどの年月。
私はどのように成長できただろう。
生きるということは、当たり前に過ぎるけど
当たり前ではなく
生きるということは、苦しみと喜びが常に隣り合わせかもしれない
生きるということは、ただそれだけで素晴らしく
生きるということは、何かを与えているのかもしれない
私は職業柄、言葉や歌を扱う人間なので
1つ1つに過敏になるとこがある。
でもなんていうかなぁー。
私はオリジナルの曲の中に、どれだけ生き様を刻み、丁寧に生きるかを大切にしたいのだぁ。
私が思う丁寧とは....
自然に感謝するとかっていうのは当たり前の話なので、
それを全面に出すのが丁寧な生き様だとは思っていない。
私が思う丁寧は具体的な何かをすることより
怖くても悲しくても感じることをやめず
言い訳せずに逃げずに向き合うということ
そして、苦しみやうまくかないことを不幸だと感じるのではなく、
ならばどうすべきかと、成長を止めないことかもしれない。
時は進む。
進む時をどう生きるか。
忘れないようにしたい。
東日本大震災をはじめ、
各地の被災者の皆さん
そして、生きることが苦しいと感じる沢山の人へ
1つでも多くの幸せが降り注ぎますように。