川越雑記帳2(川越見て歩き)

川越に何故かあります成田山(成田山川越別院)

喜多院の北側の参道をゆっくり下ると、県道の手前左側に山門がある。
山門の右側の石柱には「大本山・成田山川越別院」と彫られ、その脇に「小江戸川越七福神」の案内板がある。


山門の反対側には「交通安全祈願所」と彫られた石柱があり、その後ろに説明板がある。
埼玉県と川越市がほぼ同時期に建てた、共通のデザインの説明板である。
この説明板もあまり読んでいる人を見ないが、そこには、次のように書かれている。


成田山川越別院(なりたさんかわごえべついん)
              所在地 川越市久保町
 成田山川越別院は、川越別院成田山本行(ほんぎょう)院と称し、い
つの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるように
なった。
 本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人
々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬(えま)
ため、境内には絵馬堂も建立されている。
 当寺は、江戸時代も末の嘉永(かえい)六年(一八五三)、ペリー
が黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(にいじゅく)(現
葛飾(かつしか))区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山
新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。
石川照温については、次のような話が伝えられている。
 農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えな
くなってしまった。光明を失くした照温は、ある日のこ
と自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を
失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに仏道に目
覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山
新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
 そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見
えるようになったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺
を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのこ
とである。
 なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。
  昭和五十七年三月
                川 越 市

山門を潜ると真っ直ぐな敷石があり、その正面の奥に本堂がある。


手水舎の手前で右手を見ると、白い壁のお堂が建っている。


お堂には「め」と書かれた絵馬が、何枚も掛けられている。
近づいて上を見ると、「開山堂」と彫られた額がある。


右手には立て札があり、2枚の掲示がある。
上の掲示には「開山堂」の表題があり、先ほどの説明板よりもやや詳しく石川照温について書かれている。


その下には、絵馬についての説明がある。


お堂に向って左側に石碑が建てられている。
石碑の上のほうには「祖前甃石碑」と彫られている。
甃石とは敷石のことで、敷石を奉納したことを記念して、明治32年6月に建てられたものである。
碑文は漢文であるが、主に石川照温について書いてあり、成田山新勝寺の貫主原口照輪大阿闍梨に就いて灌頂を受けたとある。


このお堂に鐘楼があり、その左側に不動明王の座像がある。
基壇が高く仰ぎ見るような恰好になる。


また山門前を過ぎて県道に出て、道を渡ってから振り返ると、喜多院と成田山の参道であることを示すアーチがある。


そのアーチの向こう側に、不動明王の立像が建てられている。
境内の像よりかなり大きく、その台座には「みまもり不動」と書いてある。
また、下に2つの小さな像があるが、右の立像には「こんがら童子」、左の座像には「せいたか童子」と書いてある。


この角から交差点を通る人々を見守ってくれているのだろう。

この成田山川越別院は、毎月28日は蚤の市(骨董市)が開かれ、早朝から境内はお店と人でいっぱいになる。

成田山川越別院

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