川越雑記帳2(川越見て歩き)

40-7 舜海入定塚



 子育て地蔵から東へ行くと、直ぐ先は水田地帯になる。
そこから南へ進み、信号のある交差点をすぎると直ぐ左がわに真新しい石碑があった。
その東側にはJAいるま野のカントリーエレベーターの大きな建物が見えた。



 石碑の正面に行ってみると、黒い文字で「舜海入定塚」と書かれていた。
 この石碑について「散歩」には記述がない。



 それもそのはずで、石碑の裏に廻ってみると、碑文の最後に平成十五年十月吉日と書かれていた。
 碑文「舜海入定の由来」の内容は次のようなものであった。

「当時この堂に舜海という僧が住んでいた。すでに老齢で大悟徹底したものか、庭前に入定塚を築いてある日近隣を訪いわしも長らく仏道に仕えて来たがすでに余命も短い。ここに悟りを開いて近日中に入定する考えであるが、入定後はかねを打ちつつひとえに心経を奉誦するが、もしかねの音が聞えなくなれば、わしは仏のみ手にすがって彼岸におもむいたものと承知されたい。かねの音のやむまでは決して塚の戸は開けましく、今生のお別れとしてご挨拶申すと伝えた。近隣の人々は、事の意外に驚いたが、元より道心堅固の僧のこととて、これに対してただ七字の名号を繰りかえすばかりであった。そして舜海は一両日の後入定してしまった。その後かねの音は昼夜をわかたず塚の中から響いて来た。この事が一村に伝えられて、村人はかわるがわるひそかにこの塚を訪い、名号を唱えながら安否を確かめるのであった。そうしてかねの音は七夜に至ってついに絶えてしまった。よって村人は合議の末、塚の戸を開いてみると、僧舜海は端然として左手に珠数を持ち右手にかねたたきを握ってすでに往生遷化の後であった。村人はただちに円満寺に報告し円満寺からも住職が参加して、丁重に棺に納め懇ろに葬送を終わった。これが舜海入定の顛末である。」

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