畑の土をつけたスグキナを山のように積み込んだトラックが走り、こうした重しですぐきの漬け込み作業にかかるお宅を時々目にするようになった。「天秤押し」というのだそうな。
今日は母の祥月命日。
お内仏の花を立て替えるのに松を真にして、この日ばかりは母を偲んで、母も好きだったダリアの花で色味を添えた。
「人は生涯がだんだんに詰まるにつれて、何かの折に、境遇によっては自分がたどることになったかもしれない別の生涯を想って、ほんのつかのま、それに惹かれることがあるらしい。」と古井由吉さん(『楽天の日々』)。
必ずしも後悔の念からではない。別に現に歩んできた人生より華々しいとは限らない。
「生涯の郷愁のごとき情」、と言われる。
「人はどこかの辻で自分と左右に分かれた、もう一人の自分がいる。高年に至れば、あちこちの辻やら角やらで別れた自分の分身の、数もふえる」
身に覚えのある事がさまざまでてくる。
御茶ノ水駅に近い病院に入院していた。この界隈は好きな場所の一つだったし、母亡きあと何度か病院の近くを訪れては、母が最期を迎えた部屋はあのあたりと上階の窓を見あげたことがあった。
64歳で亡くなった。恩は返せるものではない。ただ謝するのみ…とはまさに!
先ごろなぜか書棚から取り出した『京都うた紀行』(永田和宏 河野裕子)は、地元紙に連載されたものがまとめられている。
2008年7月から2年間の連載を終えてほどなく、河野さんは64歳で亡くなられた。
初回の連載が紙上に載るのと前後して乳癌の転移・再発が告げられたというから、時を経ての読み返しは時に涙が誘われる。
放火とみられる出火で焼けた本堂も、黒く焼け焦げた本尊も復元された寂光院に出かけたとき。
人々の何百年の祈りを御身に吸いとってきた存在である古仏に、手を合わせ深く頭を垂れた。
そして添えられた歌が
〈みほとけよ祈らせ給へあまりにも短かきこの世を過ぎゆくわれに〉
だった。
あちこちに分かれた似たような顔を増やしながら、
「あまりにも短かきこの世を過ぎゆく」われら、でもあるのだろうな。
お若くして亡くなられて・・・。
最近とみに「両親」「親」の事を考えてしまいます。
私自身「親」なのですが
以前読んだ本に、「両親の存在は人生の防波堤のようなものだった」
今もすごく印象に残ってて、その防波堤が無くなったら・・・
そんな事を今の年齢になっても思ってしまう
人からみたら贅沢、わがままと思われるかもしれません。
下の句は「かならず道はわかれてをりぬ」でして、
一本道であっても道というものは必ずどこかで別れるものだ、と河野さんの言葉があります。
ほんとですよね(笑) 必ず分かれ道はありますね。
どの道を選択するか。どの道が与えられるか。
そんなことを思ってみると、以前、青山俊菫尼から「人生は限りなく選択しなければならない場面と、
授かりとしていただかなければならない場面との両面がある」
とお聞きしたのを思いだしました。
私は母に次いで父も亡くなり、受け入れて暮らさねばなりませんでしたが、
おかげで授かった恩に感謝し手を合わすことを教えられました。
りりんさんにはりりんさんの選びの場がおありに。
人生一本道にも分かれ道となるポイントは必ず訪れるのですし、
そうした不安や寂しさが返って日々の味わいになる(なっている)のかもしれませんよ。
…と、こんなこと考えさせていただきました。
いつまでも長生きしてほしいと思うのが人の情ですよね。
私、この本持ってました。過去形なのは今は手元にないからですが・・・
>どの道を選択するか。どの道が与えられるか。
自分で選んできたようにも思うのですが、
すでに決まっていたのかもとも思うことがあります。
>自分がたどることになったかもしれない別の生涯を想って、ほんのつかのま、それに惹かれることがあるらしい。
そういうことも想わないことはなかったんですが、こちらの道だったから耐えられたのかなと思うことがあります。
両親・義両親とも平均寿命まで行かず・・・
もう私が「長生きしてね」なんて子供に言われるようになりました(^_-)-☆
そうでしたか、読まれてるのですね。
久しぶりに開きました。
〈この手で 日々を かきわけているようなれど
気がつけば 仏の手のままに〉 (榎本栄一)
ってところでしょうか。それほどでもないかな。
いずれにしても、折々の選びを重ねて生きてきた気はします。
我儘に、自分の思いだけを貫いてしまったこともありますし、与えられた道を選びとったことも。
どの道を選んでも平坦ではありませんわね。
喜怒哀楽、いろんな味をつけて今に至り、
「長生きしてね」と言われる立場になってきましたよね。
賜った場所で、生き抜きましょう~。