峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

ものを考えるということは...炎上しなければ、それで良いのか?

2021-08-15 12:29:44 | 日記・エッセイ・コラム

久し振りの投稿、こういうのは、嬉しくないのですが、考えたいことがあるので、敢えて...

はじめに、こちらを

 

【字幕付き】※超辛口 生活保護の人とかいない方が良くない?臭いしさ…【DaiGo】

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次ぎに、

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差別発言 DaiGoが生配信で謝罪 - Yahoo!ニュース

メンタリストのDaiGoが13日、自身の公式YouTubeチャンネルで生配信を実施。7日に配信した動画で、ホームレス生活者や生活保護者の命を...

Yahoo!ニュース

 

そして、こちら、

 

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“金がすべての尺度”…DaiGoホームレス差別発言での炎上は当然の帰結|日刊ゲンダイDIGITAL

 8月7日の自らのユーチューブでメンタリスト・DaiGo氏(34)が「生活保護の人が生きていても僕は別に得しない」...

日刊ゲンダイDIGITAL

 

 

さて、この問題を考えるための一つのポイントは、「思っても、公の場では口にしてはいけない」という反対の側からのコメントについて、どう考えるか、だと思います。
     
誰もが、心の中でどう思うか、という領域については自由であるべきであり、強制されてはいけない。心の底は、良心の領域でもあるから。集団の者の考え方と相容れない場合であっても、心の中で何を思うかということに関しては侵害されてはならず、また公に暴かれることがあってはならない...
     
これは、近代の市民社会が成立するための条件として、多くの生命を犠牲にしながら生み出されてきた近代的なものの考え方の枠組です。そしてたとえば、「プライバシー」や「黙秘権」というかたちで、日常生活にも浸透しています。
これは、基本は、信じる宗教の違いのために殺し合わなければならなかった時代の痛みの中から紡ぎ出されてきた思想です。そしてこの思想は、ヨーロッパの近代が生み出してきた普遍的な価値を持つ思想として、国際社会の基本的なルールとなっています。
   
しかし、こうした思想が、いかに難しい問題を孕んでいるのか、それもまたよく知られています。
たとえば、社会を破壊しようと考える人の考えの自由は許されるべきか?
そうした考え方を広め、マジョリティを形成しようとする人の思想的自由は保障されるべきか?
そうした考え方を、わかっていて、意図して振る舞う人の自由は守られるべきかどうか?
意図せずしてそうなっている場合は、どうか?

たとえば、社会そのものを破壊しようとは意図していなくとも、そうした考え方の浸透が社会に対して大きな影響を与えてしまい、しかもそれが好ましくないもので、将来的に由々しき事態になるかもしれないような場合、どうなのか? 
そうした影響がわかっていて、その上で敢えてそうしている場合は、どうなのか、わからないでいてそうしている場合は、どうなのか? 
   
さらに、そうした思想的な問題に対して対処しなければならない、となった場合、社会制度の仕組みの中で公権力がそれを行うべきなのか、それとも、公権力にそれを任せると思想統制に繋がるから、あくまでも民間でやるべきなのか? 民間でやる場合、熱狂した群衆によるリンチにならないで、一定の公平性、一定の公正を担保するためにはどうしたら良いのか?
    
こうした対立矛盾の解決はとても難しく、多くの場合、睨み合い、固まったまま時間だけが経過し、時間の中で風化し、やがて忘れられてしまう、という経過をたどります。
歴史は繰り返すはずなどないのですが、「歴史は繰り返す」という言葉がまことしやかに語られるのは、こうした事情があるからだとわたしは思います。歴史は繰り返されないけれど、愚行は繰り返される、ということです。
    
さて、この人は「自分が勉強不足であった」と謝罪しています。そしてすぐにアクションをし始めました。

果たして、この人の問題は、「勉強不足」ということであったのでしょうか? 

そしてその場合、何の勉強が不足していたのでしょうか?

ほんとうに問題は勉強不足、知識の欠如だけであったのでしょうか?

社会科の穴埋め問題に間違った単語を入れたのは、その単語を知らなかったからだ、だから正しい単語を知れば、正しく答えることができる、ということなんでしょうか?

それとも、この人のものの考え方には、もっと根本的な問題があり、その問題にこの人自身が未だ気づいてはいないのではない、とも思われます。
    
いや、ここでこれ以上先に踏み込むと、個人のものの考え方の自由を侵害し思想信条の自由に対する侵害に繋がる、だから、考え方が云々、ということに踏み込んではならない、という声がここで上がります。それはその通りです。
しかし、先に「難しい」といった問題がここでも生じます。
たとえば、この人の謝罪をそのまま受け止めるとして、


①「頑張っていない人」「頑張ることができない人」「頑張る気がない人」は、いない方が良いのか? 

この問題はさらに、「頑張る」ということはどういう意味なのか、という問題に繋がります。金銭を生み出すことはできなくとも、生命を維持するために必死な努力をしていることは、頑張ることにはならないのでしょうか?

 

②自分にとって、メリットがあるかないかで人の価値を判断して良いのか? 

これは、たとえば自分にとってメリットがあるかないかで人の価値を判断することは自由である、としてしまうと、自分の利益のためなら他人が犠牲になっても構わない、という考え方を許容することになり、そうした考え方の人が多数派になると、社会秩序は維持できませんから、最終的にこうした考え方は社会のためにはならない、という議論が可能です。また、自分のメリットが社会のメリットとぶつかる場合、反社会的な思想も自由である、という考え方にも繋がります。反社会的な思想を抱く自由は守られなければなりませんが、その結果、社会的な状況如何によっては、社会全体が手痛い犠牲を負うことにもなります。ナチズムの問題が然り、です。

 

③自分が大きな社会的な貢献をしているのなら、社会的な福利厚生を受けている弱い人たちの立場に対して、自分の考えを公の場で自由に述べて良いのか? 

これはどういうことかといえば、この人の発言には社会的な影響力があり、一つの強力な権力になっていますから、自由に発信する権利は保障されていますが、その結果起こることに対して、どの程度責任が生じるか? 
という問題です。

 

こうした問題について一つ一つ丁寧に考えていくと、難問が幾つでも出てきます。特に、ナチズムとホロコーストを経験したヨーロッパ、特にドイツは、こうした問題について相当な議論の積み上げがあります。そして、その上でなお、未だにこの問題は折に触れ血を流し、ヨーロッパの抱える棘のようになっています。


そして、わたしが一番懸念しているのは、この人の発言から感じることのできない、苦しみ、困っている人に対する労りや慈しみ、生命に対する愛情です。
たとえば、この人は猫が大好きで、猫は可愛いから良い、と言っていますが、この「可愛いが」自分にとって「快適である」「心地よい」という意味でしかなく、「自分に都合が良い」で裏書きされているのではないか、ということです。

考えたくはないですが、万が一、可愛がっている猫が何らかの理由で重大なハンディを負ってしまい、外見上の可愛らしさが失われ、世話が大変になってしまったとき、この人は、可愛くないし、臭うし、手間がかかって面倒くさいし...にならないか? 
もしもそうでないのなら、それは何故なのか、何がこの人と猫とを結びつけているのか、その「何か」に気付くために、そして気付いたものを大切に守り育てるために、努力しなければならないのではないか。

この努力は、言葉を自分で紡ぐことからしか生まれません。自分の思考から欠落しているその「結びつき」の部分、その部分を埋める言葉を紡ぐために、この人は自分自身と向き合わなければならないのではないか。そういうことをしていたら、そもそも今回のような発言は起きなかったのではないか...

自分自身のことなんて、わかっている、と思っている人はとても多いのですが、じっさいはそんなことはありません。人生の中で、そういう勘違いから大やけどをして、それでお寺に駆け込んでくる人は、皆言います、何もわかってはいませんでした、思い違いをしていました...

しかし、そういうことを言える人はまだ良いのです。この期に及んでも、自分は悪くない、~が、~が~が悪いんだ、と言い続ける人も少なくはありません。自分が悪くないのならば、非が相手にあるのならば、お寺に来るのではなく、先に行くべき処があるのではないですか?

泥臭いようだけれども、自分自身の至らないところに正直に思いを致す...問題が生じた時に、自分自身を振り返る...その時、どうすれば成功して思い通りになったかではなく、誰が正しかったかどうかでもなく、どうすればよりよい結果、自分にも、相手にも良い結果が得られたか、ということを考える...そういう営みを繰り返すことからしか、人間の深みは生まれないのではないか、そんな風に思います。
    
さいごに、この記事では「論破」ということについて触れられていますが、「論破」というのは議論が行われている考え方の前提の上での説得力の優劣です。
しかし、そもそも、そうした議論において採用されている前提が、向き合わなければならない事柄に相応しいか? ほんとうにそうした前提で望むべき結論に至ることができるのか? 
実はそこが問題なのです。つまり、いわゆる論破やディベートの優劣は、探求は発見とは次元が違うことだし、ディベート的な思考がかえって思考の硬直を生み出す危険もよく知っておかなければなりません。

もちろん、ディベートというのは、思考を磨き鍛える訓練ですから、一定の前提を採用した上で進行させないと、自分の議論の進行を振り返り、学び、磨き、鍛える参考になりにくいですから、前提を大事にして行われます。議論の前提を混乱させる行為は、ルール違反になります。しかし、ものごとを考える場合には、前提そのものが疑問にさらされるなどということは珍しくはありませんし、むしろ前提が揺らぐというのは議論の深まりの証拠である場合だってあるのです。

たとえば、格差の問題はお金の問題を考えることで技術的に処理できる、という前提で議論をするとして、その上での優劣は判定可能ですが、ほんとうに社会的な格差の問題はお金で解決できるのか? となってきます。お金さえもらえれば、誰もが幸せに暮らせる社会になるの? という問題が必ず出てきます。

古代ギリシアの哲学者、ソクラテスは、知識人たち(知恵つまりソフィアを持っているから「ソフィスト」と呼ばれました)に話しかけ、議論をし、最後に、要するにわたしたちは実は何も知らなかったのだ、と終わるのが常でした。この結論に傷ついたソフィストたち(多くは地位のある有力者でした)に訴えられたソクラテスは、死刑を受け入れて無実の罪で死んでいくのですが、このソクラテスが議論の中でしたことは、徹底して「定義」にこだわること、つまりそれは前提を疑う、ということでした。議論の時に言葉を定義すると、その定義にしたがって議論は動きます。だから、定義は議論が動く場を決めることであり、それがその議論の前提となるのです。

そして最後にして最大の前提は、

 

わたしとは何者か? 

 

ということです。

これが有名な「汝自身を知れ」です。

このようなところから見てくると、「論破」というのは、双方がとても未熟であるか、どちらか一方がとても未熟である時にのみ起こる。そこには、掘り下げへの意志が感じられないから...

だから、「論破」ということを、あまり褒めるのも、当人の名誉にはならない、ということになります。

議論の技術が未熟であっても、より深く掘り下げて考えていこうとするならば、深みへと降りていくことは可能です。

深みへと掘り下げることをしないで、決められた平面の上で喧嘩を繰り返しても、大して得るものはないのではないか。議論の技術は学べるかもしれませんが、それこそそうした技術だけの世界がいかに不毛なものであるか、二〇〇〇年以上前に哲学者ソクラテスが身をもって示しているのです。

この問題は、独り当事者だけのものではありません。

この問題に触れたわたしたち一人が、しっかりと考え、この問題を通じて自分自身と向き合うことが大切ではないか、そう思うのです。


養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと...に思う。

2020-06-16 09:50:29 | 日記・エッセイ・コラム

はじめに、こちらを。

 

*養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと 

NEWSポストセブン 2020年05月23日 16:05

 

養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと

 新型コロナウイルス感染防止のため、多くの学校が長期休校となり、子供たちも大きな不安を抱えていることだろう。そこで、解剖学者の養老孟司氏(8...

NEWSポストセブン

 

 

八十二歳になる養老孟司先生のコメント。
   
私たちが生きている世界を「対人の世界」と「対物の世界」に分けて考える視点の大切さを指摘しています。
 
実は今回のコロナ禍で、困っているのはみな、「対人の世界」の住人です。レストランにゲームセンター、カラオケに居酒屋。こうした“対人”サービスが苦境に陥っています。
くらべて、「対物の世界」、農家さんや漁師さんの生活はそれほど大きく変わっていないように思えます...
 
ここでの養老先生のコメントには少し補助線が必用で、「対人の世界」は、サービス業が典型ですが「人間の社会」のことで、「対物の世界」とは農業や漁業のように「自然を相手とする世界」のことです。別の言い方をすれば、「対人の世界」と「対物の世界」という養老先生の二分法は、人間どうしの関わりの中で完結する(厳密には、完結しているように見える)世界と、そうでない世界の区別で、わかりやすくするためにもっとはっきりと言ってしまえば、「人間の世界」と「自然の世界」ということになります。記事の性格でしょうか、先生の言い方にはちょっと誤解を招くようなところもありますね。
 
「対人の世界」というのは、実は私たちが思う以上に私たちの生活に入り込み、私たちの社会を覆い尽くしてきています。たとえば、都会に住む人間は、ほとんど24時間365日、「対人の世界」に暮らしています。
いや、都会にも自然豊かな公園はあるし、ちょっと郊外にでればいくらでも自然に触れることはできる...
そんな風に思われるかも知れませんが、これはそれほど簡単なことではありません。
 
養老先生が出している「農家さん」や「漁師さん」の例を取り上げてみるならば、農業であれば品種改良された作物を作り、人口肥料を用い、除草剤や殺虫剤を用い、場合によるとハウス栽培などの手法で人工的に気候を管理しています。つまり、そこまでやらないと収益が釣り合わず「工業」「商業」と並ぶ産業としての「農業」として成立しない...
私たちが普通に思い浮かべる「農業」は実は産業としてみた「農」の姿で、この場合、自然に向き合っている「農の世界」は既に「人間社会」に適合するように大幅に改変されてしまっています。野菜にしても何にしても、一般的に私たちが都会で眼にするものは、何らかの形で人為的に造り替えられ、私たちに都合良く変容されたもの...私たちの味覚に合わせて甘く、瑞々しく、香り豊かで柔らかく、大きくて色や形が綺麗に整っているもの...本来の自然の世界の中のものではありません。
 
山梨に来たときに、「野草研究家」の若い女性と知りあいになりました。
この方は鋭い知性と深く広い知識、そして熱い情熱を持った素晴らしい人でしたので、主催する「野草研究会」にも常連として参加していました。
そこで学んだことは沢山あるのですが、印象に残っていることの一つに、野草というのは環境が合えばもの凄く沢山生えてきて見事な群生地になるのですが、じゃあ、採ってきて似たような場所に植えればうまく行くかと思えば、全然違う。群生地だって、ドンドン変わっていく。野草の採取は、ハンティングのような感覚で、こちらから追いかけていって知識と勘を頼りに探していくもので、猟師のような仕事なんです、といったお話があります。
これが何を意味しているかと言えば、何時どこにどれだけ生えるのか、どのような花が咲き、実を付けるのか、私たちの都合では決めることができない、ということです。そして、これが「自然」と言うことなのです。
木や草花がそのまま自然なのではありません。
人間が人為的・人工的に手を加えて都合良くするのではなく、人間の都合とは関係なくそこに生きているもの、そこにある在り方が「自然」なのです。
だから、自然に向き合うためには、私たちの方が自然に合わせて行かなければならない。養老先生は「対物の世界」ということで虫捕りの話をしていますが、ペットショップで買うのではなく、野山に行って自分で歩いて観察し採取をするというのはまさしく「自然に向き合う」ことです。養老先生の言う「対物の世界」というのは「自然の世界」のことなのです。
だから、「対人の世界」と「対物の世界」という分け方をすると、対人コミュニケーションがうまく行かないでゲームの無機的な世界に引き籠もってしまったり、インターネットの上での関係だけに退却してしまうようなケースを「対物の世界」と思う人がいるかも知れませんが、そうしたケースというのは、ゲームにしてもネットにしてもすべて「人為・人工物」の世界のものですから、養老先生がここで言おうとしている「対物の世界」ではないということになります。
 
さて、それでは、この養老先生のメッセージが伝えるものの核心は何か...
 
その大切な一つは、こういうことだと思います。
新型コロナウイルス感染症の蔓延によって混乱する社会に向き合ってものを考えるとき、私たちが当たり前のように前提としている社会というのは「対人の世界」つまり人為的・人工的に設計され、安全・安心で効率よく欲望が満たされるような場所です。しかし、もともと私たち人間は自然の一部です。
たとえば、エアコンで管理されている場所に暮らしているとなかなか自覚できませんが、私たち人間はどれほど努力しても気候を思いのままに操ることはできません。だから、人工的に私たちの住む場所を都合の良い状態に管理するためにテクノロジーが発達する。
人間の知識の蓄積によって、かなりの部分は思うように管理できるようになり、それが都市であったり住居であったりするのですが、人間が無理矢理自然を管理しようとするためには莫大なエネルギーが必用で、遅かれ早かれ私たちが使えるエネルギーの限界がやってくる...さらには、エナルギーを使った副産物が生み出され、それが有害な効果を私たちにもたらす環境負荷の限界がやってくる...こうした「限界」は私たちが人為的・人工的に管理することができないものです。「対人の世界」ではどうにもならないこうした問題は、養老先生的に言うならば「対物の世界」ということになるのでしょうか?
人間の思い通りにならない自然と直接衝突する自然災害のようなものとは違いますが、これもまた人間と自然とがぶつかり合う一つの形であるように思われます。
 
今度の新型コロナウイルス感染症による世界の混乱は、エネルギー資源の限界、環境負荷の限界、そして古くからある人口に対する食量や水の限界、さらには繊細で奥深く謎に満ちた「こころ」という領域からやってくる宗教やイデオロギーの対立、生活格差によって高まる憎悪の連鎖のような問題...こういった人為的・人工的に設計管理できない領域に震源をもつさまざまな大問題に、さらに新しい問題を付け加えることになりました。しかし、問題の根っこは同じです。
 
人間にできることには限界がある...
人間には、思い通りにならないことなどいくらでもある...
 
こう考えるならば、「対人の世界」でも事情は同じです。
では、思い通りにならないとき、どうするか...
養老先生は、「考えなさい」と言います。
「努力・辛抱・根性」をバネにして粘り強く考え、「成熟」しなさい、ということですね。
あらかじめ仕込んである「正しい答え」を怜悧に見付けようとするのではなく(自然にはそんなものはありませんから)、知恵と体力と気力を総動員してブレイクスルーを考える。思い通りにならないからこそ、そこに知恵が光る。ないないづくしの中からこそ、思いがけないような発想の転換が生じる。これこそが「クリエイティヴ」ということではないか。
 
君たちには知ってほしい。世界は1つだけではないのです。
 
と養老先生は言っています。世界が一つではないということを知ることは、実はとても大変なことです。
 
考える力を磨く簡単な方法は、外に出ることです...
 
と先生は言っていますが、試しに山に入ってみてください。もちろん、コンクリートの登山道が整備され、手すりもついているような観光地ではなく、そこそこの山です。
慣れていない人は、虫に刺されたり、ルートを間違えて迷ったり...見たこともないような昆虫がぶんぶん飛んできたり、得体の知れない動物が走り抜けたり...そこで、失敗したり、教えて貰ったりしながら、さまざまな状況に応じて判断する知恵を磨いていくのです。こうしたことも含めて、「考える」というのではないか...
こうして考える力を磨いて、初めて新しい世界をわがものにし、「世界は一つではない」とすることができるのです。
 
 

『令和の開拓者たち⑪  絵師 村林由貴』(『文藝春秋』6月号)を読んで...

2020-05-18 08:39:36 | 絵画
 
『文藝春秋』6月号に、ノンフィクション・ライター 近藤雄生さんの記事、
   
『令和の開拓者たち⑪』
『絵師 村林由貴』(354~363頁)
が掲載されました(写真は、吉田亮人さん)。
   
この記事は、2011年4月にはじまった『退蔵院方丈襖絵プロジェクト』を、絵師として中心になって担う絵師村林さんの格闘を、プロジェクトにかかわるさまざまな人間の視点から浮かび上がらせるもの。
   
プロジェクトの始まりの頃に、半年間舞台となった妙心寺退蔵院に徒弟として身を置き、プロジェクトの現場をよく知る一人として、今回のこの紹介は、とても嬉しく思います。
   
詳しくは、プロジェクトの背景から現実の展開までの流れを綺麗に整理してくれているこの記事をじっさいに読んでいただくとして、このプロジェクトがどんなに凄いものなのか、プロジェクトが凄いだけ、それだけ中心にいてそれを担う村林さんが乗り越えなければならない重圧がどれほど圧倒的なものなのか、この記事は見事に描きだしています。
   
そもそも村林さんが描くことになっている退蔵院の襖絵というのは、桃山から江戸初期にかけて活躍した絵師 狩野了慶の作で、400年以上にわたって名刹退蔵院に秘蔵され、国の重要文化財となっているもの...
この重要文化財となっている襖絵の後に、そのかわりとしてこれからの新たな数十年、数百年の時の流れの中に行き続けるべく生み出される作品...それも、76面!
  
忘れてはならないことは、方丈というのはお寺の宗教的な営みの中心にあるものだということ...
この場所に信徒は集い、手を合わせて頭を垂れ、住職は五体投地をして全身で祈りを捧げる場所だということです。ただ、優れた絵が入ればいいというのではないのです(それだけでも大変なことなのですが...)。
完成された絵は、祈りの場に相応しいものでなければなりません。
そして、絵師である彼女には、禅寺の方丈に相応しいものであることも求められています。だから彼女は、絵を描きながら、修行僧たちがじっさいに研鑽を積む本格的な道場(三島の龍澤寺...ここは山本玄峰老師、中川宗渕老師ゆかりの、修行僧にとっても憧れの道場です)に足を運び、修行僧と同じように坐禅堂に坐り、同じ修行の日課をこなし、道場の老師の室を叩いています。
   
近藤さんの記事は、現場にいた私の印象を見事に再現してくれています。
若い、どちらかといえばふんわりと柔らかいイメージの女性が、水墨のことも禅のこともそれほど知らないで...だからこそ、いわゆる「禅」風の手垢がついたステレオタイプではなく、活きた日常の現場を通じて知る生の姿を通して、新鮮に、柔軟に、敏感な感性を通して禅というものを知ることが出来るのですが...単身禅寺に飛び込んで住み込みをする。
禅寺の日常を私たち徒弟たちと一緒にこなし、食事を共にし、強い絆に結ばれたお寺の一員となって起きていくことのすべてを体感し、そのうえで創作に努める。
作品以前に、一般の人からすれば異世界である禅寺の日常に自分を合わせ、修行道場に足を運んで修行の現場を身体を通じて知り...これだけでも並大抵のことではありません。
  
そして、そのうえに、製作の重圧があります。
重要文化財に指定される優れた作品...400年以上の歴史を閲した狩野派の傑作の後釜として、そのかわりとなって新しい時代を生きていく作品。それも76面という規模。
襖の紙から、筆、墨、硯に到るまで、現在考えられる最高の道具を揃え、大勢の職人・専門家たちの力を借り、すべてを総動員で揃えてのプロジェクトです。
この責任が、すべて一人の若い絵師の肩にのしかかってくるのです。
   
この様な役割は、はっきりと言って、普通の人には不可能だと私は思います。
絵が上手い、と言うだけでも、かなわないかと思います。
絵師の村林さんは、それが出来る。
じっさい、九年にわたってその重圧を担い続け、壁に突き当たり、跳ね返され、そのつど壁を乗り越え、あるいはぶち破りながらずっと続けてきているのです。
近藤さんのこの記事から浮かび上がってくるのは、損得も保身も考えないで、ただ直向きにまっすぐ進む一人の人間の姿と覚悟です。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という言葉がありますが...身も心も惜しいとは思わないで、すべてを投げ出して挑む村林さんの姿は、「禅の理解」という薄っぺらい言葉ではなく、絵師として禅を生きると言って良いかと思います。
   
「恐れを知らず」という言葉がありますが、じっさいには恐ろしいものです。
恐ろしさを知らない者は、愚かでしかありません。だから、そんなものはじつはたいしたことはありません。
本当の意味で「恐れ知らず」というのは、本物の怖さを知り、恐れをひしひしと感じながら、それでも目の前に為すべきことがあるならば、すべてを捨てて身を捧げる...そういうことを言うのです。
だから、身を捧げ、命懸けでやらねばならないもの、こころの底からやらずにはおかない、と湧き上がってくる何かを持っている者だけが、恐れ知らずの者に成ることが出来る。そういう者こそが、「令和の開拓者」には相応しい。
   
だから、近藤さんの記事に活写されているように、周りの人間はこの恐れ知らずの若い女性に応えなければならないのです。絵を描く本人には、ほどほどの安全なところに収めてくれるようなつもりは微塵もないから、危険な賭けを繰り返しながら、持てるもののすべて、これから持つはずのものすべてを振り絞って描ききる以外には選択肢は選びようもないから、周りにいる人間も、彼女があるいは全身でぶつかって崩壊し、砕け散ってしまう可能性も覚悟しながら、あるいは引き摺られながら一緒に行くしかないのです。
これをやる、と言ったんだから...そして、私を選んでくれたんだから、覚悟して下さいね...
と声が聞こえるように、私は思います。
    
優れた技能と才能をもつ若いクリエイターが沢山いる...
だから、お寺の襖絵には、そうした人に作品を書いて貰おう...そんな話ではないのです。ましてや、有名な作家に何か作って貰って、それで耳目を集めよう...などということではないのです。
根本に打算があっては、リスクをとるといっても所詮は限りがあります。
誰が何と言おうと、九年の歳月と、一人の若い優れた女性の人生を差し出し、そのうえで何事かを成し遂げようとするこのプロジェクトは、凄い、を通り越してある意味でクレイジーです。誰もが、もの凄い年月と労力を注いだこのプロジェクトに巻きこまれているのです。
そしてそれが、妙心寺塔頭の中でも屈指の名刹である退蔵院という存在が求める歴史と伝統の重みであり、現代の日本社会が取り戻さなければならない精神的課題が要求するものの巨大さなのではないかと私は思います。
   
「最後にすごいところまで村林は来ました。水墨の技術を身につけた上で、漫画やポップカルチャーの影響を生かして思想性を深めている。いまの時代にしか描けない、新しい水墨画になるだろうと感じています...」という、プロデューサーの椿昇先生(京都芸術大学)のコメントが、このとてつもないプロジェクトの有り様を見事に表現しています。
     
この記事の書き手、近藤雄生さんが何者なのか...
それはじっさいにお読みにあればわかると思います。
冷静な距離感を守り続けながら、どこまでも納得し、共感して物事を書いていく誠実さと、誇張を交えなくとも描き出す事柄の凄さが伝わる文章の冴えが、この人を特別な書き手にしているのだと私は思います。
同じように、誠実で繊細な、それでいて切れ味鋭い写真を撮る吉田さんの写真(残念ながら、グラビア写真ではない!)とともに、このお二人の仕事で、『退蔵院方丈襖絵プロジェクト』が紹介される...このお二人以外には、このプロジェクトと、そして絵師 村林由貴を描ける人はいません。このお二人もまた、ほんものの令和の開拓者だと私は思っています。だからこそ、同じ開拓者としてこのプロジェクトの凄さがわかり、共感することが出来るのだと...
私にとっても人生の最高の宝物であるこのプロジェクトに、こんな機会が巡ってきた...これほど嬉しいことはありません。
正真正銘の「令和の開拓者」たちに、はるか遠方、山梨からエールを送りつつ...
 
 

独メルケル首相の緊急声明に思う...「開かれた民主主義」と「思いやりをもって距離を取る」

2020-04-05 17:50:19 | 日記・エッセイ・コラム

新型コロナウイルス感染症の流行が、日本においても山場を迎えています(4月5日)。

感染爆発や医療崩壊の危機が目前だという言葉が、現実のこととして受け止められています。現に東京都内では、感染者の急増のために、医療現場が苦境に立たされているという情報も入ってきています。

 

3月の後半から、こうした事態に対応して、政府が「緊急事態宣言」を出すべきだという声がいっそうたかまり、4月の頭に東京の「都市封鎖」が行われる、という情報が飛び交い、政府が官房長官の声明を通じて正式に否定する、という事態も起きました。

ここでわたしたちが考えるべきことは沢山ありますが、今回のこの新型コロナウイルス感染症の世界的な流行(パンデミック)に面して、ドイツのメルケル首相が出した声明がとても参考になります。

ここではこのメルケル首相の声明を手掛かりに、若干のことを考えてみます。

始めに、こちらを...

 

コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文

 

Mikakoドイツ語サービス

 

とても素晴らしいブログです。

始めに、オリジナルの動画。そして翻訳。公開された原文、文法解説についてのリンクも張られていて、とても行き届いています。

ざっとした翻訳と断っておられますが、すっかり錆び付いたわたしのドイツ語でも明らかにわかるぐらい、見事な翻訳だと思います。

音声で視聴の場合には、こちらを...

OGPイメージ

Dog .212 必見コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説日本語訳。日本の総理は口が裂けても言えない真っ当なお話。日本の政治がいかに劣化しているか この話を聞けばみえてきます。

!日本の総理との決定的な違いをごらんください。こちらのほうがすんなり入ります、是非コロナ対策の心構えに視聴ください。 https://twi...

YouTube

 

音声ソフトが間延びした感じで、少し残念ですが、こうした動画がアップされているということは、有り難いことです。

始めに、メルケル首相のこのスピーチは、文章も平易で、話し方も抑制され、丁寧で、ドイツ語が得意でない人にもわかりやすく聞きやすいもので、全体としてよく計算され、見事だと思います。

 

さて、この声明の内容については、文章自体がよく練られ、考えられており、読み返すことに耐えられるものですので、ぜひぜひ、もとの文章に(翻訳で、出来ればドイツ語で)あたっていただきたいと思います。

素晴らしいのは、具体的であり、同時に哲学的な深みも持っているということです。

このレベルの文章になると、その人の高い知性を感じ取ることが出来ます。残念ですが、このレベルのスピーチを日本の政治家から聞けることはほとんどありません。

優れた政治家、官僚、は日本にも沢山いるはずですが、このレベルの知性を感じることができないのは、どうしたことなのでしょうか...日本の教育、日本における教養の在り方、特に哲学教育の在り方をもういちど真剣に考えなければいけないのではないか、と痛切に思います。

さて、余計なことかも知れませんが、特に大切と思うところをいくつかピック・アップして採り上げてみたいと思います。

以下、引用はすべて上のリンクのオリジナルである『  Mikako ドイツ語サービス』の素晴らしい翻訳を使わせていただきました。

 

 

メルケル首相の声明は、不安に駆られている国民(市民)一人一人に語りかける形で始められます。

コロナウイルスの蔓延が自分たちの生活を「劇的に変化」させてしまっていると率直に認め、「日常や公的生活、社会的な付き合い」すべてが、「かつてないほど」試されていると厳しい認識を正直に提示しています。

緊急事態声明を出すべきかどうか、その時期であるかどうか、といった問題ではなく、自分たち一人一人の、全員の問題としての実感を共有しているのです。

ウイルスの感染を人ごとではなく自分のこととして真剣に受け止め、不要不急の外出は避けて欲しい、と言うのであれば、まずは政権担当者がこの事態をどう受け止めているのか...戦後日本がこれまで経験してこなかった形での危機が差し迫っているのだという認識、そしてこの危機に立ち向かうには政治家と官僚と一般市民とを問わず、日本に住む全員が一丸となって協力できるかが「試されている」という意識を共有できているのか...この共有がなければ、どのような要請も、対策の提示も、空々しく聞こえてしまいます。

 

立場は違えども、共に試されている、という強い共感と連帯は、次のようなコメントからもひしひしと伝わってきます。

 

このため次のことを言わせてください。事態は深刻です。あなたも真剣に考えてください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、これほど市民による一致団結した行動が重要になるような課題がわが国に降りかかってきたことはありませんでした。

 

ウイルスに対抗することは、容易ではありません。

1918年から19年にかけて3度の流行を見せたスペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)の例からは、1度治まったかのように見えてもそれほど簡単なものではないことがわかりますし、インフルエンザそのもので見れば、その後も、1957年から58年にかけて流行したアジア・インフルエンザ。1968年から69年にかけて流行した香港インフルエンザ。と世界的な規模での流行が周期的に起こってきており、日本では、今でも毎年1000万人が罹患して、直接亡くなる人は、2000年以後で見ても例えば214人(2001年)~1818人(2005年)人もいます。これは直接的にインフルエンザで生命を落とす人の数ですが、間接的に亡くなる人も含めた死者を推計する超過死亡概念という推計にしたがえば、インフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と言われています。インフルエンザは、それほど克服することが難しい病なのです。

ウイルスのワクチンを作り出すために世界中の学者が奮闘していますが、概ね18ヶ月かかるなどと言われたりもします。ウイルスのワクチン精製は簡単ではありません。人間の身体に入るもの、しかも病で弱った人の身体に入るものですから、効果だけではなく安全性の確認だけでも治験に時間がかかり、認可されて後も、必要な量の精製にはやはり時間がかかります。罹患者の数の多さを考えれば、それは簡単に想像できることです。

 

しかも、今回の新型コロナウイルス感染症に関して言えば、これだけ大規模に流行してしまうと、死者や感染者の多さのみならず、工場は停止し、商店は閉まり、世界規模での経済的な損害は計り知れず、感染症を乗り越えた先には、経済的、社会的な損失の回復には相当な時間とエネルギーが必要です。そのためには、ウイルス後も、国民が一丸となって社会・経済の再建に取り組まねばならない、という認識がここにはあります。国を挙げて取り組まなければならない長く辛い試練...

敗戦と統一...メルケル声明は、何年にもわたる試練をもういちど思い起こそう、というのです。

 

日本経済もこのままでは弱小の中小企業は経営を維持することは著しく困難です。この状態が何ヶ月も続けば、資金繰りが付かず、倒れるしかありません。日本経済を本当に支えているのは、零細な中小企業です。この中小企業が潰れ、社会的な機能が壊れてしまったならば、元に戻すことは出来ません。高度な技術もそうですが、雇用を支え、産業の基盤となっているものが壊れてしまったならば、日本の社会はガタガタになります。これは取り返しが付かないことなのです。

日本の政府に、この認識があるのか...そして、それがあるならば、その認識を表明し、危機意識を共有していることを言葉と行動で示して欲しい。それよりもなによりも、増税と不況に喘ぎ、今回のウイルス流行でさらに追い詰められている大勢の国民に、共感を持ってくれているのか...そうであるならば、その共感を言葉で表明し、行動で示して欲しい。

日本を蝕む一番の危機は、政治不信であり、それは政権担当者に国民の姿が見えていないとしか思えないからです。

国民の生活のリアルと、不安、絶望、希望をきちんと認識し、共感を持つことができないならば、政治を担うことは許されません。今回の新型コロナウイルス感染症の問題は、わたしたちの生活、わたしたちの将来を信じて委託していた政権担当者が、本当は何を考え、何をしてきたのかということを炙り出し、浮かび上がらせてきています。

このことは、メルケル首相の声明の、次のくだりを読むと、対照的なものとして明らかになります。

 

私は今日このような通常とは違った方法で皆様に話しかけています。それは、この状況で連邦首相としての私を、そして連邦政府の同僚たちを何が導いているのかを皆様にお伝えしたいからです。開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです。

 

「連邦首相としての私」というのは、連邦を担うリーダーである責任を担うという宣言です。責任を担う者として国民に語りかけているのです。そして、ウイルス感染症に対する対応を打ち出す場合に、その対応を打ち出す根拠を明確にするという宣言をしています。自分たちの判断を「何が導いているのか」をちゃんと「お伝えしたい」というのです。なぜならば、「開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです」だというのです。

ここで言われていることは、民主主義の国家においては当たり前のことですが、こうした言葉をわたしたちのリーダー、そしてその同僚が、公的な場で言えるでしょうか?

公式の場での、明確で力強いこの宣言があればこそ、

 

もし、市民の皆さんがこの課題を自分の課題として理解すれば、私たちはこれを乗り越えられると固く信じています。

 

という言葉が奇麗事や気安めではなく、聞く者の心に響くのです。

そして大切なことは、ここまで明確に宣言されたならば、聞く者も人ごとで済ませることはできなくなるのではないか? 参加と自治を基本とする民主主義は、そこからしかはじまらないと思うのです。

じっさい、メルケル首相はこの後、この言葉に相応しく、明確に次のように言っています。

 

私は皆様に約束します。連邦政府は、経済的影響を緩和し、特に雇用を守るために可能なことをすべて行います。

わが国の経営者も被雇用者もこの難しい試練を乗り越えられるよう、連邦政府は、必要なものをすべて投入する能力があり、またそれを実行に移す予定です。

 

そしてさらに、こうも言っています。

 

状況は刻々と変わりますし、私たちはその中で学習能力を維持し、いつでも考え直し、他の手段で対応できるようにします。そうなればそれもご説明します。このため、皆様にお願いします。噂を信じないでください。公的機関による発表のみを信じてください。

 

連邦政府は目下のウイルスの流行に対する対応だけではなく、それと同時に進行する深刻な社会的・経済的な影響に対しても責任を持ってできる限りのことをする、というのです。そして、ウイルスの流行に関しては、状況が時々刻々変わるから、確実に正しい対応というのは難しいけれど、常に新しい情報にヴァージョン・アップし、そのヴァージョン・アップの内容も、根拠もすべて開示する、というのです。だから、疑心暗鬼に駆られていかがわしい噂に乗らないで欲しい、というのです。情報に関して、公的機関は全面的に責任を取る、というのです。

政権担当者は、リーダーに相応しく責任を持って事に当たる。その覚悟を示し、協力と連帯を呼びかける。

そして一人一人が為すべき具体的な対策が平易に説明され、協力が要請されています。

特に重要なことは、この声明の中に「共に生きる」という理念が明確に表されていることです。共に生きるというのは、互いを気遣い、助け合い、寄り添って生きるということです。それは、特にウイルス感染を拡げないために外出を控え、人と距離を取って欲しいという要請の言葉の中に現れてきます。

 

私たちがどれだけ脆弱であるか、どれだけ他の人の思いやりのある行動に依存しているか、それをエピデミックは私たちに教えます。また、それはつまり、どれだけ私たちが力を合わせて行動することで自分たち自身を守り、お互いに力づけることができるかということでもあります。

 

わたしたちは、助け合い、思いやりを掛け合って生きる。だからこそ、

 

一人一人の行動が大切なのです。私たちは、ウイルスの拡散をただ受け入れるしかない運命であるわけではありません。私たちには対抗策があります。つまり、思いやりからお互いに距離を取ることです。

 

「思いやりからお互いに距離を取る」...これがメルケル首相が伝える、わたしたち一人一人が学ぶべきことです。感情に流されず、欲望に振り回されず、不安に押し潰されず、冷静に考えて思慮深く、思いやりをもって振る舞うのです。つまり、情だけではなく、思慮もまた、思いやりには必要だ、というのです。感染を拡げ、悲劇を拡散しないために、今は「距離だけが思いやりの表現なのです」というのです。

 

長いコメントになりました。これ以上はかえって問題がぼやけてしまうかと思いますので、.このあたりにしておきます。満遍ない配慮と格調とを配慮している、もとの声明を理解する上で、少しでも参考になるものがあれば、有り難いことです。そして、もとの声明に戻って読み、考え、民主主義というものはどうあるべきなのか考える機会になってくれれば、もっと有り難いことです。

 

最後に、ここでの言葉の数々が、理想主義的で奇麗事だ、という感想もわかります。メルケル首相の言葉も、私のコメントも...

 

私自身も、ドイツの文化、ドイツの音楽、ドイツの哲学に憧れてドイツ語を学び、何年もかけてドイツ哲学を真剣に学びましたが、学んだ先に見えてきたものは、戦後ドイツの姿が奇麗事ではない、ということでした。戦後ドイツの歩みは、決して褒められたものではない、と私も思っています。それは、政治のリアル、国際社会のリアルを知らない者の戯言だ、と言われるかも知れません。

しかし、世界規模での危機が押し寄せてきたとき、世界中が生存をかけて課題に取り組まなければならないとき、これまでの政治のリアル、国際社会のリアルは役に立つでしょうか? そこに共通の理想がなければ、利害を超えた協力などあり得ようはずもありません。

夢は夢として、理想は理想として儚くも潰えるかも知れません。

しかし、理想をもつ自由だけは、馬鹿馬鹿しくとも抱いていたい...

そう思います。

 

 


ジネット・ヌヴーのこと...生誕100年・没後70年に寄せて...

2019-10-28 06:00:00 | 音楽

 

Ginette Neveu plays Gluck - Mélodie (from Orfeo ed Euridice)

グルック:『オルフェオとエウリディーチェ』から『妖精の踊り』(メロディ)

 

10月28日は、夭折の天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu)の命日...

このクリップの演奏は、ヌヴーの遺した録音の中でも屈指の名演として知られますが、グルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』のクライマックスで、オルフェオが冥界に下る場面での音楽...泉下のヌヴーを思う時に、頭に浮かぶ演奏です。


ジネット・ヌヴー(1919-1949)...

今世紀前半を代表する女流ヴァイオリニスト...その活躍が圧倒的な熱狂を巻き起こして生ける伝説となり、僅か30歳で悲劇的な最期を遂げてしまいましたから、さらにその名はヴァイオリン演奏史の中に深く刻み込まれています...


カール・フレッシュ、ジョルジュ・エネスコ...名だたる先生の弟子としての修業時代にも有名なエピソードがいくつもあるのですが、この人が一番名をあげたのは、1935年に参加したヴィエニャフスキー国際コンクールのことです。


この時、16歳のヌヴーは断トツの差をつけて優勝をするのですが、何と、第2位がダヴィッド・オイストラフ! 3位がアンリ・テミアンカ、7位がイダ・ヘンデル、9位はブロニスワフ・ギンペル...

オイストラフ(1908-1974)は、言わずと知れた、20世紀を代表するヴァイオリンの巨匠です。

3位のテミアンカ(1906-1992)も、ヴァイオリン好きの人ならば知っている人。パガニーニ弦楽四重奏団での活躍が有名ですが、ソリストとしても名を馳せました。

7位のヘンデル(1928-)は、ヌヴーと同じフレッシュ、エネスコの弟子ですが、女流ヴァイオリニストといえば、この人、というほど有名ですね。

9位のギンペル(1911-1979)は、お兄さんも有名なピアニストですが、この人は、ベンジャミン・ブリテンのヴァイオリン協奏曲の改訂後の初演をした人です。

要するに、綺羅星のごとく才能が集まった空前のコンクールだったわけです。
実は、この時のヴィエニャフスキーコンクールは、ヴィエニャフスキーの生誕100年の年にあたり、その記念として開催された第1回目のコンクールですから、それだけ凄い人材が集まったということもあるのでしょう。その時の様子は、下のクリップに...

1st International Henryk Wieniawski Violin Competition - 'A Tournament of Giants'

『巨人たちのトーナメント』とクリップにある言葉は、誇張ではありません...


残念ながらヌヴーは、1949年の10月28日、演奏旅行のために乗っていた飛行機がアゾレス諸島サン・ミゲル島に墜落し、帰らぬ人となりました...


いつもピアノ伴奏をしていたお兄さん、大ピアニストイーヴ・ナット門下のピアニストであるジャン・ヌヴーも一緒に亡くなったのですが、ジネットの楽器だけは、壊れながらも、焼けずに奇跡的に残っていたそうです。
お兄さんの亡骸はとうとう見つからなかったそうなのですが、ジネットの方は、愛器ストラディヴァリウスをしっかりと抱きかかえていたからわかったといいます...


実を言うと、この話はあくまでも伝説で、実際にはジネットの亡骸が別人と間違えられて届いたり、その後のジネットの楽器がどうなったのか誰も知らないという点からしても、真相は闇の中、といった方がよいのでしょう...


ヌヴーは国内外で熱狂的な人気を誇っていましたが、特に母国フランスではその死の衝撃があまりにも大きく、亡くなった後にはフランス政府から勲三等レジオンドヌール勲章が授与され、パリ市議会はパリ18区の通りに彼女の名を冠した通りを作りました。

私事ですが、遙か昔、パリのサル・プレイエルを訪れた時、舞台に向かって右手側だったか左手側だったかは忘れましたが、ヴァイオリンを弾くヌヴーのレリーフがはめ込まれているのを目撃した記憶があります。

 

Ginette Neveu & Bruno Seidler-Winkler play Chopin Nocturne No. 20 (arr. Rodionov)

ショパン(ロディオノフ編):ノクターン第20番嬰ハ短調遺作

 


素晴らしいヴァイオリニストだった、イヴリー・ギトリスが、ヌヴーについて、面白いことを言っています...


...ジネットはフランクの曲の第3楽章の最後でCシャープ音をやや低めに弾いた。これが“色”です。

おそらく今日では、こういう弾き方はしません。音が外れてるから。でもそれが何でしょう?

ティボーも同じでした。「クロイツェル・ソナタ」 第3バリエーションでDフラット音をやや低めに弾いた。

正しい音はこれ。(弾いてみせる。)

カザルスも同じ事をしました。音に“色”をつけるためです...


こうしたことは、教えて貰って身につけるんではないんですね...自分で感じなくてはできないんです。

今の例で言えば、フランクのソナタの第3楽章の最後で、Cシャープの音をそういう風に感じなければできないんですから...

そう感じなければ、「正しい」音で弾けば良い。自分が、そういう「色」を音に感じることができるから、そう弾くだけのことなんですね...

それぞれの音をどう感じるのか、その音に、どんな「色」を感じるのか...それはその人次第なんです。

それが、解釈というものなんですね...音楽の世界は、奥が深いですね...

 

先のコメントの中で、イヴリー・ギトリスが「ティボーも同じでした...」と言っているティボーというのが、この人...

ジャック・ティボー(1880-1953)20世紀を代表する大ヴァイオリニストです。

 

Thibaud plays Intrada-Adagio by Desplanes

 

デプラーヌ(ナシェ編):『イントラーダ』


この人はヌヴーと同じフランス人で、接触もあったのですが、ヌヴーの訃報を聞いたときに、

      「自分も、最後はそうありたい...」

と漏らしたそうなのですが、その言葉は本当になってしまいます。


1953年の9月1日、三度目の来日の途中、乗っていた飛行機がアルプスに激突...

乗っていた飛行機の方は、ヌヴーと同じエールフランスの、同じロッキード・コンステレーションだったそうです...
ヌヴーの事故の時とは違い、この時には生存者も結構いたと言いますが、ティボーのストラディヴァリウスは失われてしまったそうです。
この人、戦前はウイーン生まれのフリッツ・クライスラーと並び称された人です。

 最後に、ジャック・ティボーと言えばこの演奏はとても有名です...わたしも、初めてティボーを聴いたのが、この曲...

Jacques Thibaud plays Henry Eccles Sonata in G minor (arr.Salmon) 1930

ヘンリー・エックレス(1672-1740):ヴァイオリン・ソナタト長調

とても美しい曲に、美しい演奏。こんな風に弾ける人、もういないと思います。

ヌヴーは、おなじフランス人ということもあり、ジャック・ティボーの後継者と目されていたといいますが、エレガントなスタイルを考えると、最高の賛辞だったと思います。

先ほどのヴィェニャフスキー国際コンクールの時に競ったオイストラフは、ヌヴーよりも10歳以上年上...

ヌヴーは事故に遭わなければ、ちょうどアイザック・スターンやヘンリク・シェリングと同世代です。

わたし自身も、スターンは60代の演奏を生で聴いています。

飛行機が今から見れば、まだまだとても危険であった時代...運命とは言え、喪失したものの大きさを思います。