農から見える二一世紀の悪夢...
はじめに、2年前のものですが、FBでの岡本よりたか氏のコメントから...
「俺は自分の畑のは食わないけどね。」
辛辣な言葉を久しぶりに聞いた。まだ、こんなこという農家がいるのか。
農薬がなければ今の生活が破綻することぐらい、僕も理解している。
...枯れて行く作物、虫食いに朽ちて行く作物を見ているのが苦しいのも知っている。
枯れ始めたら、畑がどんどん役病に侵食されて死の世界になる恐怖。引き取られない作物が山積みになる恐怖も理解しているつもりだ。
肥料がなければ品質が保てないのも知っているし、より良い作物を作るためには肥料が必要だという意見も理解できる。
でも、理解できないことがある。
なぜその野菜を自分たちで食べない。自信を持っているなら、昼ご飯に畑の野菜を食えばいい。
なぜ、無農薬だと病気が蔓延すると決めつける。なぜ、病気に気づかないだけだと断言する。
なぜ、肥料がないとまともな野菜ができないと決めつける。なぜ、小さくて色の薄い野菜を出来が悪いと決めつける。
そして、なぜ、農薬と肥料がなければ世界は飢え死にすると断言する。
価値観の違いを認めあわなければ、お互い潰し合うだけじゃないか。
慣行栽培が不必要だとは思わないが、無くても作物は作れる。自然栽培が無くても作物が作れるのと同じこと。
せめて、自分が食べたくないという無責任な仕事はやめてくれ。
営業マンが乗りたくないという車を売りつけられたらどうする?航空会社の人が乗りたくない飛行機に乗るのか?
自分の職業以外に当てはめて考えて欲しいものだ。
(岡本よりたか:FB:2014.08.23)
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21世紀の悪夢は、都会からは見えない水面下で進む...
わたしたちの社会が、責任と倫理性、そして矜持をなくした人間ばかりによって満たされるとき、本当の悪夢がはじまる...
これは、農業だけの話ではありません...
...この物語が恐ろしいのは、わたしたちが、社会を構成し、お互いに支え合って生きていくときに、絶対に必要となるルールや思想を共有しない、あるいは共有することのできない人たちが出現してきている...、という問題には還元できないことです。
そのこと自体ももちろん、既に恐ろしいことなのですが、それだけではなく、ここでは、わたしたちの社会のシステムが、共に生きる、共に生きるために連帯し、責任を担う、という思想を許容しないところまで、過酷に、無慈悲に組織化されてしまっている、という現実を浮かび上がらせているのです。
この組織化の中心思想は「経済」という思考の物差しです。そして、この物差しは、数学、論理学、心理学、社会学...さまざまな学問領域を総動員して、「経済学」という、一見、有益そうなよそ行きの顔を作っています。
しかし、現代の「経済学」は、ほかの現代科学のすべてと同様、数学的な論理モデル化と統計的な解析を組み合わせた、「知のツール」であり、経済行為とは何か、経済的な営みは、何のためにあるのか、人間を経済という観点から見たとき、どうあるべきか...あるべき姿、つまり「規範」へと向けた思考とは、一切かかわらない...
20世紀の学問革命は、「規範学」の放棄として特徴付けることができます...それはつまり、「あるべき」ものは扱わない...専ら「現にある」姿を対象とするのです...
そしてそれは、ただの「ツール」つまり道具、手段であり、その「ツール」を用いて、どのような目的を実現しようとするのか...一番大事な、その目的にはかかわらない...かかわることができない...なぜか...?
それは「ツール」でしかないから...ただの道具であるから...
その「ツール」を用いて、どのような夢を実現するかは、「欲望の実現」という、学問以前の暗い衝動に突き動かされている...
「あるべき姿を考える学」あるいは「規範学」は、現実を遊離した机上の空論である...学問は、もっと現実にかかわるべきである....
そういうことが声高に語られた時代を経て、今日の学問は、理想を語らず、理念を生み出すことをしなくなりました...
しかし、理想、理念を放棄して、ツールだけを磨き上げていくとき、今日のような事態が生起することは、当然ではないのか...
多くの人間が精神的に荒み、至る所で共同体が壊れ、社会のシステムが暴走する...その、どれか一つでも、きちんと機能しないかぎり、わたしたちの生きているこの世界は、歯止めを失って崩壊するほかないのです...
この時、言うべきこと、言えることは、この記事のように「せめて...」だけになってしまっている。しかも、そういうとき、こうしたことが起きることを「理解している...知っている...」と言わなくてはならない。
最後の砦として、個人の倫理観、個人の矜持に訴えるしかほかに打つ手立てがない...この思想的な貧困さは、どうだ...
ただ、弱小で零細の個人個人に、「せめて...くれ」と訴えるほか手立てがないとは、わたしたちの社会は、どうなってしまっているのか...
次にやって来るステージは、こうした物語の恐ろしさが、感じ取られなくなってしまう時代の到来です...それとも、既にそうした時代はやって来ているのか...
この物語の恐ろしさは、もはや感じられもせず、理解もされなくなっているのか...