学びの府としての大学は、いまいずこ...
新幹線、京都駅のプラットホームで、象徴的なものを目にしました...
こんな看板が出てしまうところに、大学の劣化が見えてしまいます。京都は、歴史の都市であり、宗教都市であり、そして大学都市なのです。だからこそ、こうした看板が京都において出てしまうことは、事態の深刻さの証のように思えてなりません。
看板の向かって右側の女性の額には、緑色の「再生」ボタンが、左側の男性の額には、赤色の「録画」ボタンが付けられていますね。
知というものは、断じて記録→再生ではありません。学びとは、吸収し、骨肉化し、自分自身が変容し、そして行動することです。
始まりは記録の域を出なくても、学びを積み重ねていくうちに、必ず自ら問いを発し、自ら探求することへと繋がって行くものなのです。
この看板は、うちの学生はただのメディア・プレーヤーです。わが大学は、人間ではなく、メディア・プレーヤーを作り出すことを目指しています、と声高に宣言しているようなものです...
「猿真似」という言葉がありますが、この大学は、まさしくネット検索とコピペを繰り返す「進化した猿真似」学生を量産しようとしているのでしょうか...
情報の処理は、コンピューターでも可能です。しかし、ものを考える、という行為は、人間に残された最後の領域ではないのか...
詰め込み教育の弊害が切実に叫ばれ、想像力、創造性の開発が急務の課題となっている今日、このとんでもない時代錯誤と矜持を無くした無恥、信じ難いほど無邪気な無思想は、驚愕に値します。
ITが人間に取って代わる日が到来するのではないか…
そんな議論が真剣になされている時代に、大学は何を成すべきか…
まさしく学問の府としての大学の出番が到来しているこの時に、この大学は自ら脳死状態に陥っているのです。
そして、これが仏教系の大学であることに、私は深い絶望感を抱きます。
ずいぶん昔のことですが、この大学は、大学の記念事業を巡って一悶着をおこしました。いわゆる「平成の大馬鹿門」事件です。あの事件は、とても象徴的です。
今日のこの体たらくを見るにつけ、学びの府である大学が、学びとは何か、という原点を忘れる時、どれ程無様なことになるのか、改めて考えさせられます。
醜悪なものがスタイリッシュに飾り立てられて何事もなかったなのように往来を闊歩する…
ふと気がつけば、私たちの回りはそんなものばかり…
これがただの悪夢にすぎないことを祈るばかりです…