峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

『問われる仏教 応える仏教』

2012-09-04 13:03:22 | 宗教

Bdk

昨日、東京港区の「仏教伝道教会」で、BDKシンポジウム:『問われる仏教 応える仏教』が開催された。パネリストは、4人の若手僧侶。釈徹宗(浄土真宗)、阿純章(天台宗)、池口龍法(浄土宗)、松山大耕(臨済宗)の各師。

 

午後6:00から8:00までの2時間であったが、テーマが大きく、話題も多岐にわたったため、若干慌ただしい進行となってしまっていたが、内容的には時間以上の充実したものであったと言える。

 

印象的だったのは、宗旨宗派を異にする4師が、それぞれ旧来の教団の枠組みではあり得なかったような活動、発信を展開しておられるにもかかわらず、問題の受け止め方、そして答え方に、自ずとそれぞれが帰属している教団のもつ個性を色濃く漂わせていたことである。これは、いわゆる「宗派根性」とは違う「個性」...お互いにその違いをむしろ楽しみ、尊重し合うことができるような独自のカラーとして、改めて日本仏教の多様性、その豊かさに思いが行くのである

 

さて、4人のパネリストは、いずれも大きな枠組みにおいては共通のところを歩いているということが言える。すなわち、今日、伝統仏教が置かれている状況に対して、強い危機意識を持っており、思い切った活動をすることで敢えて「伝統という城壁」に頼らず、場合によってはそれを突き破っていこうとする...「伝統」はある意味において「城壁」のような存在であり、守りには堅牢な強みをもつのであるが、同時に、攻めにはどうしても迅速さを欠く体制なのであるから...

 

だから、4人が共通して、皆一様に「宗派の閉塞性はいけない」と言う。そして、昨日の発表も、きわめてオープンなスタンスに由来するものばかりで、これならば、仏教諸宗派の若手たちが何か共同の企画を通じて、超宗派で協力した取り組みを展開することも夢ではないし、事実、そうした試みも既に始まっている。パネリストの一人、池口師の『フリースタイルな僧侶たち』などがその代表の一つである。

 

それでは、こうした超宗派の僧侶たちが一致団結して何かをしていくとき、一体どのようなものが共通の基盤として確保されうるのであろうか? あるいはされるべきなのであろうか? 

 

もう少し言うならば、「問われる仏教」---伝統仏教の僧侶たちは、現代において一体何ができるのか? と問いかけられている...いま、この時、宗派を異にする僧侶たちが、組織として超宗派で団結するのではなく、あくまでもめいめいの持ち味を生かして独自の活動を展開していく方向に向かうのだとしても、仏教として何か大きなところで通底するものがあるはずだ、それは何か? それが「応える仏教」であり、その「通底する何か」をはっきりと自覚して行かなくては、本当の意味での「超宗派」にはならない...そして「伝統仏教」の「伝統」も「仏教」も、その良さがわからない、ということになってしまう...

 

シンポジウムでは、この「通底するもの」が明確な形で主題にのぼることはなかったのであるが、この点は、少し残念。もっとも、それは時間が少し足らず、その時間が足らない理由が、4師がそれぞれ日常から活発な活動を展開し、「応える」という部分で伝えたい多くのものをもっていたからであるから、やむを得ないことなのであるけれども...

 

もちろん、この「通底するもの」を、やはり皆「仏教だから」だというのでは、答えにならないことは言うまでもない。宗旨の違う4師が集まって、こうしてシンポジウムができるのは、同じ仏教だから...それはその通り。しかし、その同じ「仏教」が駄目だと言われているから、4師は敢えて新しい---場合によっては「仏教的ではない」と言われかねないような試みを取り入れて頑張っているのであるから...そして大切なことは、「応える仏教」の「応える」ゆえんをきちんと意識し、明確に自覚し、共有し、新しい仏教再生、さらには現代の私たち全員の精神の再生に繋げていくということであるから...。

「通底するもの」が「仏教」であるならば、その「仏教」とはどのようなものなのか? どのような有り様をしているのか? 「応える仏教」が伝統に根ざしながらも「新しい」ものであるのであれば、その「新しい」ものとは、どのようなものなのか...

 

 

この点で、シンポジウムにおいて示されていたのは、まず、核となるのは「教団」でも「教義」でもない、「人」ということ。4師は、まず教団のメンバーとしてではなく、個人として、自分自身の問題として取り組んでいる。「問われる仏教」の「問われる」を、「教団」があるいは「伝統」あるいは「仏教」がではなく、「自分の仏教」が問われているのだから...というところにおいている。だから、「応える仏教」も「自分が応える仏教」になる。それが、4師の多彩な活動となって現れている。4師のプロフィールに記された経歴が、既に「応える」試みの軌跡なのである。

さて、それではこの「人」というところから、更にもう一歩進んで、「人」が「問いかけられ」そして「応える」...その問いと答えはさまざま...そしてそのさまざまな問いと答えを通じて浮かび上がってくる「新しい仏教」の在り方...それぞれの試みは、まだまだ模索の中にある。その模索の中から、少しずつ浮かび上がってくる新しいあるべき仏教、新しいあり得る仏教...そしてその在り方を意識して取り出してくる、その思想...想いは尽きない、刺激的なシンポジウムである。

最後に一つだけ言うならば、私自身が臨済宗の僧侶であることもあり、一番深く共感したのが、退蔵院の松山大耕師の発表。師は、「人を殺してはいけないのか?」「なぜ、世界には戦争が絶えないのか?」「人は死んだら、どうなるのか?」といった、基本的でありながら、しかも応えることができないような問題に対しても、僧侶は逃げてはいけない、と提議しておられた。

僧侶は、応えられないからといって、逃げてはいけない...一緒に考える...真剣に考える。これは、重大で根本的な問題に直面したとき、逃げないで相手に(時には、自分自身に)寄り添う...そうした行である。問題から逃げないためには、そうするほかはないから...。師は、広島の中学校に赴いて、授業でそうした問題を採りあげ、子供たちと一緒にとことん付き合う実践の経験の中から、そのような課題を、僧侶の果たすべき重要な役割の一つとして見いだしてくる。これは、地味ではあるが、重要な問題提起を含んだ指摘であろう。

私は、こうした問題提起を考え抜くかなたに、先ほどから書いている「通底するもの」あるいは「応える仏教」の新しい姿を見ていきたいと考えている

 

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿