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初めに、こちらを...
これは、アル・ゴア大統領のスピーチ・ライターを務めていた、作家のダニエル・ピンク氏が、自身が教鞭をとっている「ミネアポリス・カレッジ・オブ・アート&デザイン」で行った卒業式スピーチです。2008年度といいますから、9年前のものです。
*「世界は才能があっても根気のない人間だらけ」副大統領のスピーチライターが“執念”の大切さを説く...
さすが、アメリカ合衆国副大統領のスピーチ・ライターを務めるぐらいの人ですから、とても見事な祝辞になっています。
内容的に、とても多くの問題提起をしていますから、色々な切り口から考えることができますが、ちょうど今は大学の卒業シーズン...
ということで、比較的まっすぐ素直な読み方で...
さて、このスピーチは、スピーチの王道にしたがって、きちんと内容を整理し、聞き手の心に残るように繰り返しサマライズしながら語られていますが、中心的なメッセージを3つのテーゼにまとめています。
1.人生にプランなどありません。
2.執念は才能に勝ります。
3.あなたの人生がすべてじゃありません。
最初の、「人生にはプランなどない」というのは、とても大切なことです。
筆者は、家族や教師、友人や先輩など、周囲のアドヴァイスにしたがって、無難な選択肢を選び、ロー・スクールに行きますが、結果として得たものは、生涯の伴侶と返済義務のある多額の奨学金、そしてこの「人生にはプランなどない」という人生の教訓だけだったと書いています。これは、面白いコメントであると同時に、とても的を得た、正直な感想だと思います。
じっさい私も、自分の大学生活を振り返ってみれば、これと同じような感慨を持ちますし、同じようなことを口にしそうな友人の顔を何人も思い浮かべることができます。
私自身は大学で伴侶や奨学金とは関わりがなかったのですが、最初に志した学科の授業に落胆し、自分の進むべき方向性に迷ったことがありますし、その後の人生も、まさしく紆余曲折...人生の道程を転々として、教員一家の息子で教員志望の人間からは想像のできない、先の見えない生き方になりました...
歌人だった祖父の影響で、国文学を学んで国語の教師になろうと思って早稲田の文学部に行き、講義に落胆して道に迷い、素晴らしい哲学者の晩年の姿を目の当たりにして哲学に憧れて哲学を専攻し、大学院に進み、研究職を目指して博士課程に進みつつも、またもや道に迷って、29歳の時にそれまでの人生を全部放り投げて禅宗の修行道場に駆け込む...
42歳の時に道場を下り、縁あって、それまで一度も足を運んだことのなかった、山梨県のお寺の住職になる...
ざっと見てみれば、こんな人生の流れなのですが、確かにそのつどそのつど、それなりに先のことを考えながら人生の選択をしてきているのですが、結局その通りになどなりませんでした。最終的には僧侶としての生き方を選ぶことになりましたが、追い詰められて道場に飛び込むまで、自分が僧侶になるなどとは、思ってもいませんでした。ましてや、40過ぎまで人生が決まらず、修行僧として定収も保証もない生き方になるとは想像もしませんでした。
さて、このスピーチでは、こう語られています。
人生には、プランなんてものは存在しない...
なぜならば、どれほど綿密な人生設計をして、計画したプラン通り生きていこうとしても、実際にはなかなかそうはならないから。
自分の人生は、自分だけの都合で決まるわけではありません。自分一人を思い通りに変えることすらままならないのに、ましてや自分が生きている社会そのものを思い通りに変えることなど、できようはずがありません。だから、「あれをして、その次にはこれをして……」という人生計画にしたがって緻密なプランを立てたとしても、所詮は一方的な自分都合のものでしかありません。人生は自分と他者、自分と世界とが交錯する場ですから、その一方でしかない自分の内部でのプランの緻密さは、実はプランそのものの実現を保証してはくれはしないのです。だからスピーチでは、
この世の中はめまぐるしく変化し続け、予測不可能で、自分の思うようになんて行かないからです。私の言うことを信じてください。そんな綿密なプランは、あっという間に紙くずになります...
ということになるのです。今日のように、様々な意味において大きく変化しつつある世界においては、なおさらそうですね。
私自身の実感で言えば、1986年に大学に入学してバブル真っ盛りの東京にやってきましたから、今の日本の社会は、当時からすればまったく想像できません。
あの頃、一緒に将来を語り合った仲間のその後は、どうなったか...
皆それぞれ自分の道を歩んでいますが、あの当時、今日の自分たちが置かれている状態を想像できた仲間はいませんでした。
それではどうすればいいのか...
スピーチでは、こう語られています、
別に700通りの脚本を用意してから大学を去れと言っているのではありません。行き当たりばったりに生きろというのでもありません。私が言いたいのは、あなたはこれからの人生を通じて、いつだって決断ができるということです...
要するに、代替プランをいくつ考えようと、そんなことで現実の変化に対応することなどできようはずもないわけですから、人生を計画的に思い通り運ぼうという考え方そのものを見直さねばならない、ということ。しかし、だからといって、所詮人生など思うようにはならないと諦めてしまい、行き当たりばったりで良い、と居直るべきでもない、ということです。
そしてスピーチでは、
私が言いたいのは、あなたはこれからの人生を通じて、いつだって決断ができるということです...
と語られています。大事なことは、緻密なプランが有効に機能しないような、予想不可能な社会に生きていることは受け入れなければならないけれど、私たちはこれからの人生を通じて「いつだって決断ができる」ことだというのです。
しかし、ここで言う「決断ができる」とは、一体どういうことなのか...
はじめに、「いきあたりばったり」に生きている人が行う選択を「決断」と呼ぶことはできないということを、確認しなければなりません。
勘違いしてはならないことは、繰り返しになりますが、「人生は計画通り行かない」からといって、計画を立てることそのものを放棄してしまって良いわけではない、ということです。諦めてしまっては、そもそも何もできませんし、人生には何も起こりません。
「決断」と呼べるべきものは、自分で考え、ある程度の見通しを持って初めて成り立つものです。
何の計画も、努力も、準備も無しで、周囲の状況に追い詰められて、本意でもないことを「選ばされる」というのは、選んでいるようで、実は「選ばされている」だけですから、その人の主体的な決断などそこにありはしないのです。
「決断ができる」ということはですから、出来得る限り情報を集め、考え、計画を巡らすという行為を前提としています。
「人生にはプランなどない」というのは、「プランを立てるな」ということではなく、「プランに頼るな」ということです。もう少し言えば、プランを綿密に立てたからといって油断をするな、常に「リプランニング」を考えて生きろ、という意味なのです。
さて、面白いのは、スピーチでは「決断」を2つに分けて説明しているところです。
一つは「手段的な理由」で行う決断。
もう一つは「ただそうしたいから」「そこに価値を見出しているから、そうせずにはいられないから」行うような決断、筆者の言葉で言う「もっと“根本的な”理由」で行う決断です。
「手段的な決断」というのは、成果がしっかりと見込まれている場合の決断です。その人に具体的な目標があり、その目標に到達するための筋道が見えており、求めらるべき成果がある程度算定できている場合の決断です。
一方、「より根本的な決断」というのは、スピーチ内での説明にもある通り、ざっくりと言ってしまえば「やりたいからやる」としか言いようがないものです。
しかし、ただやりたいから...という理由だけでは、ただの空想、夢物語ではないか...
計画を綿密に立ててすら、うまくいかないのならば、そもそもなりたい自分になんかなれっこないし、だいたい、人生は思い通りになんかならない、と自分で言ってるじゃないか...言ってることが矛盾しているんじゃないか?
そんな疑念も湧いてくるはずです。
ありていに言ってしまうならば、スピーチで語られているような人生論は、何らかのずば抜けた才能があり、人脈を持ち、資金力にも恵まれているような人、要するに一部の特別な人のものであるように思われるはずです。そして、そうした判断は、基本的には正しいといえるでしょう。このスピーチは、良くも悪くも、成功者による、(将来の)成功者に向けられた、成功者のためのスピーチです。少なくとも、今日の意味における「成功者」の世界観の中で生み出されてきたものです。ここは、確認しておきたいとおもいます。
実際、スピーチの中でも、これからの時代には「新しいものを生み出せる人たち」が必要であると述べられており、このスピーチはまさしく、もっぱら将来そうした斬新なものを生み出していくであろう、クリエイティヴな人に向けて語られています。ですから、相当な才能が前提されていると読むほうが自然です。
しかしながら、このスピーチは、ただそういった人たちだけのためのものであるかといえば、そうでもありません。スピーチでは、続けて、このように言われています。
一方で、本当にすばらしいことを成し遂げる人間、世界にインパクトを与える人間というのは、とにかく最後まであきらめずに、粘り強く、ひたむきに取り組み続ける人たちです。どのような分野においてもそうですが、ことさらみなさんがこれから進もうとしているクリエイティブな分野においては、執念は才能に勝ります...
とにかく最後まで諦めずに、粘り強く、ひたむきに取り組み続ける...
平凡で月並みのようですが、結局、最後にはここに尽きる、というほかはないのです。ここでは「クリエイティブな分野」におけるモットーとして語られていますが、「どのような分野においてもそうですが...」と前置きがつけられているところがとても大切です。分野を問わず、人生においては、諦めずに、粘り強く、ひたむきに、という姿勢にまさるものはない、ということなのです。
続くコメント、
よく聞いてください。この世界は、才能はあっても根気のない人間で溢れ返っています。時間などかけなくても才能さえあればなんとかなると考えてしまっているような人たちです...
これは、とても大切なことを言っています。
「この世界は、才能はあっても根気のない人間で溢れ返っています」...厳しいけれど、ズバリと本質をつく一言です。人生においては、どのようなことであれ「諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことが一番大切なことです。
しかし、実際には「才能さえあればなんとかなる」と人は考えがちです。才能のある人は、そのようにして自分の「才能」によりかかって努力を怠る口実とし、特別な才能に恵まれていない人は、自分には才能がないのだから、努力しても無駄だと諦める口実にしてしまうのです。どちらにしても、いちばん大事な「諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことから逃げてしまいがちです。このスピーチで語られているように、「執念は才能に勝る」のです。
才能のあるなしを問わず、分野を問わず、いちばん大切なことは、「諦めずに、粘り強く、ひたむきに」取り組むことです。しかし、これは「成功」を保証するものではありません。「執念は才能に勝る」とはいっても、この「執念」ですら成功を保証するものではないのです。どれほど才能があろうとも、実際には才能だけでは成功することができないように、執念は才能に勝る...しかし、それは「勝る」だけであって、それだけで決まる、というものではないのです。
結局、「才能があるかどうか」など、簡単にはわかりません。ほんとうの意味での才能を見極めるには、それなりの眼が必要です。
もちろん、ある程度のレベルで良いのであれば、才能のあるなしを判断することができるでしょう。
それほど努力をしなくとも、やすやすと何かをマスターすることができるのであれば、その人には才能がある、と言っても良いでしょう。
あるいは、大して努力をしなくとも、周囲がびっくりするようなことをやってのける人であれば、その人はすごい才能に恵まれている、と言っても良いでしょう。
しかし、そうした意味で言われる「才能」とは、所詮は素人のレベルでの判断でしかありません。その程度のレベル、つまり素人が驚く程度のレベルで良いのであれば、世界中には、信じられないようなことをバリバリやる人間など、実は掃いて捨てるほどいます。
そう、「時間などかけなくても才能さえあればなんとかなる」程度のレベルのものは、実は教育や努力によって凌駕することは可能ですし、そもそもそんな甘いことを言うことからも分かる通り、その人は井の中の蛙であって、あまりにも世界を知らなさすぎるのです。
ヴァイオリンの「スズキ・メソッド」の例を出せばわかりやすいでしょうか。小学校に入る前の小さな子供が大勢集まって、バッハのシャコンヌを一斉に合奏して弾き始める...その光景に世界が驚嘆しました。小さな子供が、バッハのシャコンヌを弾きこなすなんて...とんでもない才能の持ち主だ、と両親は大喜びかもしれませんが、その程度の才能ならば、それほど驚くこともない...きちんと一人ひとりの可能性を抽き出しさえすれば、実現可能なことなのです。スズキ・メソッドはそうしたことを証明してみせたのです。
その道を心から愛し、その道に執念を持って取り組む人は、苦労を厭うことがありません。
多くの人が身も心も捧げて知恵を駆使し、研究を重ね、心血を注いで競い合っているそのフィールドに、自分も降りていって、そこで切磋琢磨し、しのぎを削り、そのうえで、誰もが及ばない結果を出す...その時、本物の才能が目に見える形で現れ出るのです。鉱石に金が混じっていることは、手にとって見れば素人でもある程度はわかります。しかし、どの程度の純度で、どの程度の量の金がそこに含まれているのかは、実は目利きでないとわからない。才能に関して言えば、基本的にはその人と同じぐらいの才能がなければ、わからなのが普通のことなのです。
そういう観点から言えば、このスピーチで語られているモットーは、こう受け止めたほうが良いように思います。
「執念は才能に勝る」というのは、実は「才能」などというものは「執念の彼方」に初めて姿を現すものなのだから、本当は「執念は才能に先立つ」という意味だと理解したほうが良い。
「人生にはプランなどない」というのは、人生設計がその通りに行かないのは、社会が変化するからだけではなく、自分自身にどのような才能があり、本当は何をしたいのか...つまり、自分が一体何者なのか、実は簡単にはわからないからなのだ。
「人生は設計通り行かない」「思い通りにはならない」というのは、若い頃に思い描いている「設計図」が本当にその人の生き様にあっているのか、本当にその人が心から願う理想の姿なのか、実際に人生を生きて、挑戦し、闘い、挫折をしてからでなければわからないものだからだ、と考えたほうが良い。
この世に生を享けてから、成長し、学び、自分を確立し、使命を果たし、年老いてこの世を去るという、複雑でしかも私たちにとっては決して短くはない人生の見取り図は、そのあるべき全体像が見えるまでには時間がかかるのです。人生は、一生かけて自分自身の人生のあるべき全体像を見つけ、悔いのないように隅々まで探索し、最後まで一つ一つピースを埋め込んでいくような作業なのです。人生の設計仕様書は、全体が完成して初めてその全貌がわかる、と考えたほうが良いのです。
人生は計画通り行かない...だからこそ、探求するに値するのです。
そして、粘り強く探求し続けなければその意味がわからないからこそ、本当に自分がやりたいことを求めるという志がなければ、長続きなどできません。
結果が見えないような中で努力を重ねていかねばならないからこそ、スピーチで言う「根本的な決断」、つまり「ただそうしたいから」「そこに価値を見出しているから、そうせずにはいられないから」行うような決断が私たちの心の支えとなるのです。
最後に、3つ目のテーマは「あなたの人生がすべてじゃありません」というものでした。
自分の人生はたしかに大切です。誰もが、まずは自分自身の存在がいちばん大切です。
しかしながら、だからといって、自分が生きることの意味、自分の存在の意味は、自分自身の中だけで完結しているわけではありません。
共に生きる...この観点を抜いて、人生を全うできるはずなどないのです。
さて、このスピーチを全体として振り返って見るとき、何が言えるのか...
それは、当たり前だと思っている考え方、感じ方を、もう一度根本的に見直すことの大切さです。スピーチの3つの柱となっているテーゼ、
1.人生にプランなどありません。
2.執念は才能に勝ります。
3.あなたの人生がすべてじゃありません。
これらは、誰もがなんとなく「そんなもんだろう...」と漠然と思っていることだと思います。
しかし、それは決して自明なことではありません。自分自身の人生をきちんと生ききるために、自分の頭で考える...
物事を真摯に、粘り強く考えることの必要性を、このスピーチは前提としているのです。
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