はじめに、こちらを...
*「なぜ犬の寿命は人間よりも短いのだろう?」大親友だった愛犬がこの世を去った時、少年が語った感動の答え」...
2年前のシェアですが、そのときのもとの記事が削除されてしまいましたので、別のソースから同じものを...
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これはとても大切なことを教えてくれています... わたしたちの一生は何のためにあるのか...?
それは、学ぶため...一生をかけて、一人一人が学ぶべきことを学ぶため...
「教育としての人生」という主題は、実は宗教の世界の主題です...
例えば... わたしたちは、何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、学ぶべきものを学び、その学びが達成されたとき、涅槃に入る...わたしたちは、この一生をかけて学ばなくてはならない...
あるいは、いつかこの世が終わり、神の裁きがおりるとき、神の御心にかなう者であるように...わたしたちはこの一生をかけて学ばなくてはならない...
こうした考えは、一見それほど珍しくも、難しくもないように思われるかもしれませんが、そうでもないのです。
もしも、この少年がここで答えているままであるならば、わたしたちは「長生き」をする必要はない。
長さでは、人生は測れないし、幸福も不幸も測れない。 むしろ、良く、早く学んだ者は、早くこの世を去る... ましてや、金銭的な豊かさや社会的な成功では測れません... 理屈で、「そういう考えもある...」という問題ではないのです。
「学ぶ」とは、自分自身がその学びを通じて「変わる」ことです。
ただ「知る」ということと、「学ぶ」ということの違いは、そこにあります。ただ「知る」というだけでは、わたしたちはなかなか「変わる」ことができません。
ですから、確かにこの子が言うとおりです...犬たちは「最初から知っている」。初めから、そういうものとして、そのように生きているのですから...迷うこともなく、そのように生きる。
「犬喰い」と言いますが、犬はあのように一心不乱に食べることによって、その恵みの喜びを、無心に、全身で、そうだと自覚することなしに表現しているのです。
一方、人間は優れた頭脳を持つ...だから「知る」ことと「学ぶ」ことが分かれてしまう。
「知識」と「実践」、「心」と「行動」が別々のものであることができる... そして、「実践」するべきではないようなことも、「知識」として知ることができるからこそ、誤ったことを知り、信じ、愚かなことを考え、迷わなくてもいいものに迷ったりする...
だからわたしたちは「知った」ものを改めて「学び」、そして自分自身のもの、自分自身の行動、自分自身の生き方として骨肉化しなくてはなりません。その時には、「知識」とは違う「智慧」がいる。
この智慧がなければ、何を知り、学ぶべきか...これがわからなくなる。
人を愛することよりも、優越し、支配することを学び、幸せにすることよりも、不幸になることを学びかねない... それでは、その「学ぶべきもの」とは一体何か?
この少年の答えは、その一端を的確に言い当てています...
もちろん、答えはこれだけではありません。 少年のこの答えは、人間が生きていく間に経験しなくてはならないさまざまな苦しみ、悩み、矛盾の多くを想定してはいないし、想像すらしていないのです。だからこそ、本質的なことをズバリと衝く鋭さがあるのですが、それだけで長く苦しい人生を生き抜いていくことはできないのです。
そして、人生の苦しみと悩みをを経験した大人には、大人の答えがある。
大人になるあいだにこの子は、この時の自分の答えだけでは解決できない人生の難問に曝され、再び、三度、繰り返しこの問いにかえってくることだと思います。
この物語を読んだとき、私の頭には絵本の傑作『百万回生きた猫』が思い浮かびました。
猫は、なぜ百万回も生きなくてはならなかったのか...
百万回も生きなくてはならなかったというのは、つまりは百万回も死ななくてはならなかったことでもあるのです。
そのつどそのつどの生の中で、この猫は本当に「生きた」と言えるのでしょうか?
大切なことを学ぶために、わたしたちはこの世に生を享けるのであるのならば、この猫はその「大切なこと」を知っているのか? 学んでいるのか? その「大切なこと」を知らないで、本当に「生きた」と言うことができるのか? この少年の答えは、この童話を考える上でも、示唆を与えてくれるものです...
ともあれ、大人には大人の答えがある... 問題は、何もわたしたちよりも先に旅立つ、愛する犬や猫たちだけではないのです...わたしたち自身も含めた、生命の問題です。だから、大人にとっては、これは宿題なのです。
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