峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

人を「見抜く」ということ...

2016-08-14 18:15:25 | 宗教

 Facebookでの、2年前のシェアですが、とても難しい問題です...@KishayComputer1   

کێشەی کۆمپیوتە

 

シェアさせていただいたもとのSachio Nagatomeさんは、こんなコメントを入れています...

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インドではボロを纏(まと)った若い娘が、乳飲み子を抱いて悲壮な顔で手を伸ばして来る事があります。つい心を動かされて財布を取り出す人もいますが、赤ん坊は一日20ルピー(当時)のレンタル、家には健康な旦那もいて貯金もあったなどというふざけた話も。その一方で、僅かなお金がその人の絶望的な人生に明かりを灯すという事もまたあるのです。ハイラカン ババジは物乞いに出逢うと、お金を正確に数えて、ある方にはびっくりする程の金額を、別の人にはその晩の食事にありつける程度のお金を、また他の奴はぶん殴って追い払ったそうですが「全てを観透す力」を持たない我々としては、勘に頼るしかありませんね...

*****

 

「良い実を結ぶ麦」と「悪い実を結ぶ麦」を選り分けることは、至難の業です。 最後は、結局「勘」に頼るほかはありません。

しかし、「勘」というものは、実は働かせることがとても難しいものです。 目の前にある物事を、厳しく、鋭くさまざまな方向から観察し、経験と知識を総動員して推論をめぐらせ、どうしても論理的には決定できない問題点に行き着く... そこで、「勘にしたがって」決断する... このときに、本当に「勘にしたがって」決めることができるのか...

私たちは、頭をフル稼働させればさせるほど、論理を詰めていけば詰めていくほど、無意識な囚われ、自覚しない欲望、それまでの人生の歩みによって定まってきた常識、思考の制約...そういったものに縛られていってしまうのです。 何も考えずに、「さっと」決めれば何事もないようなことでも、考えれば考えるほど、身動きができなくなる...こんな経験は、誰もがすると思います。 こうした時に、いくら自分ががんじがらめになっていても、「さっと」頭の中の「ぐるぐるまわり」を断ち切って、何事もなかったように決めることができる人は、「勘にしたがって」と言うことができる人です。 そうでない人は、考えに考えて、自分を縛りに縛って、いざ、決断という時に、「勘」を働かせているようで、実は決めかねて、ただ、適当に決めているだけになっているかもしれません。

「本物」の勘というのは、よく「答えの方が私たちを手招きする」「答えが、自分を呼んでいる」...というものとして説明されます。

決断の方から私たちに呼びかけてくるのではなく、自縄自縛で追い詰められて、ただ、困って適当に決める...これは「勘」ではないのです。少なくとも、良い形で発揮された「勘」ではない。 To be...or Not to be....二者択一の選択の先端にさらされた時、解決がその二つしか思いつかない...その瞬間に、この二者択一というフレームに呪縛されていないかどうか、根本的に考える力が働く...それが「勘」の正体なのかもしれません。

もちろん、本当の「二者択一」に直面することはあるのですが、自分の心が、何ものかに呪縛された状態では、「勘」も生きては来ないのではないか... これは、じっくりと考えるべきことです... クリップの提起する問題から、ずれてしまいましたが...

NB.Sachio Nagatomeさん から、引用文中の訂正依頼を受けましたので、***内の引用文に、一部修正を加えました(月20ルピー → 一日20ルピー)。

 

さて、もう一つ、


優しすぎる青年を描いたタイの生命保険のCM動画が泣ける...

「いいな」を届けるWebメディア - FEELY(フィーリー)

 

こちらは、対になるようなクリップです...

哲学者西田幾多郎の弟子で、禅の世界に身を投じ、「禅者」と呼ぶにふさわしい一生を送ったものの、出家をすることもなく、終生自らを「哲学者です」と名乗り続けた、久松真一という人がいます。 この人の思想は、きわめて独自なものであるがゆえに、論旨は明確であるにもかかわらず、なかなか理解されませんでした。

久松は、スタイルとしては、その用語の定義までさかのぼって吟味し尽くした厳格な哲学用語を用い、論理的にもきっちりとした論文を書き続けた人ですが、その論文によって描き出そうとした世界は、禅の世界...禅の感覚、禅の直感の世界です。ですから、非論理の世界を、論理的にゴツゴツと書いていくという、一見、無駄にしか見えないような、一種異様な努力を払い続けた人です。

この人の凄さはさておき、この久松に、こんなエピソードがあります... 弟子の誰かが、久松に「先生、~さんは、どんな人でも、顔を見たら、どんな人か百発百中でわかって、当ててしまうそうですよ...」と言ったそうです。 久松はそれに対してこう答えたと言います...

   その人が、相手の顔を見て、その人を見抜くというのならば、それはきわめて浅薄なものです...」

先ほどのクリップと、このクリップを合わせてみる時、なぜかこのエピソードが頭に浮かびました...

「顔を見て...」というのは、さまざまな情報を収集して、「判断」をする作業です。その人の服装、雰囲気、物腰、人相、言葉遣い、話題...それと経験を照らし合わせて、どんな人物か判断をする...知識と経験則がものを言う世界です。

確かに、そうであるならば、それは「浅薄」かもしれません。少なくとも、犀利ではあるかもしれないけれども、「深い」とは言えない...

しかし、「顔を見て」が、そんな判断ではなくて、経験則も、知識も関係なく、ぱっとわかる...直感の世界であれば、また違ってきます。それがもし、ぴったりと相手に的中しているのであれば、その働きは、魂と魂、こころとこころがダイレクトに触れあい、共鳴する瞬間です。 これは、宗教の世界の醍醐味です...禅ならば、拈華微笑...以心伝心の世界。弘法大師と恵果阿闍梨、法然と親鸞...イエスとペテロもそうですね...

   そんなことは、稀なことでしかない...

もちろんその通りです。時と処、そして人を選ぶ...

また、こんな話もあります... 曹洞宗の巨匠、原田祖岳師は、臨済禅と曹洞禅の両方を修められ、素晴らしいお弟子さんを数多く打ち出され、すべてにわたってずば抜けた方でしたが、「よく人にだまされた...」といいます。

禅の師弟関係は、文字通り、電光石火、以心伝心の世界ですので、弟子のことを心の底の底まで見抜けなければ、師匠は務まりません。しかし、同時に、よく人にだまされる人だった... これは、師がどうのこうのという問題ではないのです... 師の凄さは、疑うべくもないのです。だからこそ、この、だまされるところが尊い...そこまで言っては、言い過ぎでしょうか... 私は、そこにも宗教の醍醐味を感じるのです...



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