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まずは、こちらを...
*コントかと思ったら楽譜通り!とある協奏曲のシュールすぎるオチ
元ページでは動画が見られませんから、問題のシーンはこちらから...
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これは面白い...
しかし、こうした試みは、実はアートシーン全般から見ればそれほど新しくもないし、驚くようなものでもありません。
にもかかわらず、これが驚きを持ってむかえられるのは、いわゆる「クラシック音楽」というものの放つオーラが、「コンサート・ホールで演奏されるような音楽とは、こうしたものだ、こうしたものであるべきだ...」という暗黙の前提、見えない枠組みとして、いかに強力にわたしたちを呪縛し続けているか、ということの証にもなっていますね...
言わずもがなのことですが、確認だけはしておいた方が良いかと思います...
まずはじめに、カーゲル氏はいわゆる「クラシック音楽」の枠組みを解体したくて、あのような試みをしているのですね。
しかつめらしく「クラシック」スタイルでのコンサートを進行させていながら、最後にどんでん返しを食わせているわけです。
要するに「トロイの木馬」方式です。
正統派のクラシックファンは最後のところで激怒するはずです。少なくとも激怒したり、呆れたり、馬鹿にしたりする人が一定以上存在することを想像するはずです。そこが、問題提起になっているわけですね。聴衆の「あたりまえ」「当然」「常識」を揺さぶっているわけです。
音楽を愛し、真摯に音による創造の世界に向き合っているのであれば、様々な挑戦が生まれてくるのは当然です。その挑戦の歴史が「音楽史」として遺されてきたわけです。
リズム、和声、メロディ、楽器、編成、演出...あらゆる部分において、より効果的で創造的な語法が発見され、分析改良の上で理論化され、新しい時代の語法となる...この繰り返しが音楽の発展の歴史です。
その時代においては不快に響くものであっても、次の世代にとっては斬新で刺激的、創造性を喚起するものになっていったりします。J.S.バッハは、生前には余りに激しい技法を駆使することで「騒々しい」と言われていたのですね...あるいは、ジェズアルドの作品は、400年経った今日の私たちの耳にすら、とても挑発的に響きます。
「クラシック」と呼ばれるものが、「評価が確定したエスタブリッシュメント」ということを意味しているというのであれば、真に創造的な人々は絶対に「クラシック」なんかになれっこありません。クリエイティブな試みは、絶えず最前線を歩きます。要するに、創造性の世界においては「アヴァンギャルド」であることが必要なんです。
コンサートホールで、職業的音楽家たちが、交響楽団という伝統的な楽器を伝統的な編成と配置において聴取の前で作品を演奏する...
この伝統と常識の厚みの重圧と束縛の中で、伝統的な語法の縛りを遵守する...できることにも限りがありますね。
カーゲルの試みは、問題提起です...そういうことで、本当に良いのか...?
百年以上前に、シェ-ンベルクは「調性」つまり音階と和声の基本原理そのものが音楽的な創造を束縛する最後の呪縛だと考え、「無調音楽(アトナール)」と呼ばれる新しい骨法を考えました。しかし、当時の人々にとって...今日においてもなお、大多数の人にとって...調性の仕組みはとても肌に合ったものですから、調性の呪縛を解くためにはしっかりした方法上の仕組みが必要です。そこで音階そのものの解体には手を付けないで伝統的な音の響き(「機能和声」の原理)を解体する語法を体系化していきます...
クラシックの世界にも「冗談音楽」の伝統は存在します。特にイギリス人はかなり強烈なクラシックのパロディーを好んだりしますね。何しろ『モンティ・パイソン』の国ですから...デニス・ブレインも参加していた『ホフナング音楽祭』が有名ですね。
以前に佐村河内氏の代作事件が大騒ぎになりましたが、あれが大騒ぎになるのは、事件の舞台が「クラシック音楽」だったからなのです。
権威で聴き、評判で聴き、名声で聴き、前提と先入観、いわゆる常識で聴く...
そうすると、じっさいに鳴り響いている音楽ではなく、それを通り越していわゆる「クラシック音楽」いわゆる「バロック」いわゆる「ベートーヴェン」を聴いているだけになってしまいます。だから作者の真贋で揉め、騒ぎになる...
そうすると、じっさいに鳴り響いている音楽ではなく、それを通り越していわゆる「クラシック音楽」いわゆる「バロック」いわゆる「ベートーヴェン」を聴いているだけになってしまいます。だから作者の真贋で揉め、騒ぎになる...
ダンス・ミュージックのファンだったら、「のれる」音楽かどうか...踊れる音楽かどうか...クラシックかぶれじゃない音楽好きにとっては、気に入るか入らないか、好きか嫌いか...それだけです。暗黙の枠組みさえなければ、音楽はとてもわかりやすいはずです...もちろん、だからこそ、自分自身の感性の質、センス、趣味が問われてしまうのですから...ここは、とても恐ろしい...
さて、マウリシオ・カーゲル先生は、いわゆる「クラシック音楽」を越境しようと試みた一人...先生に敬意を表して、いわゆる「クラシックらしさ」から自由になって見てみるべきですね...
さて、それでは、この作品、どうなんでしょう...(笑)
さて、それでは、この作品、どうなんでしょう...(笑)
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