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amazon:『お坊さん便』の是非について、全日本仏教会の対応は...

2016-08-12 22:36:24 | 宗教

"お坊さん便"の中止求める全日本仏教会に批判殺到「対案も出さずに批判するのか」 

     朝日新聞デジタル  |  執筆者: 佐藤秀男                                                                      

 

この問題については、簡単に結論を出すことができません。しかし、大切な点を少し...

まず、誤解を覚悟で敢えてざっくりと言えば、この問題に関しての、僧侶の側からの反論は本来は「宗教の論理」であり「信仰の論理」に基づいていて、反対にアマゾンの『お坊さん便』の背景にあるのは「世俗社会の論理」...究極的には「経済の論理」だからです。両者は、全く異なった原理です。つまり、ここでの問題は噛み合っていない原理どうしの衝突なのです。

イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に...」と言いましたが、私たちの誰もが、この世界、いわゆる「娑婆世界」つまりは「世俗の世界」に身を置いている以上、純粋な「神のものは神に...」は成り立たないのです。ですから、僧職にある者が世俗の営みに邁進しながら「神のものは...」と主張しても、そこにある明らかな偽善を、誰も見逃したりはしません。

仏教の「布施行」の基本は「見返りを求めない」ということですから、「法事」つまり「法施(ほうせ:仏法を授ける布施の行)」は本来、対価を求めるサービス業とは本質的な意味づけが異なります。
しかし、僧侶もこの世界に身を置き、身過ぎ世過ぎを重ねていかなければならないですから、法施に対する金銭的な謝礼を生活の資にしていかねばならないという経緯があります。
それでも僧侶は、奇麗事と言われようとも、法要に臨む際には謝礼のためではなく、何よりもまず出家沙門としての本分・本懐を果たすために、全身全霊で取り組もうと努力しなければなりませんし、実際にそうした努力を見えないところで積み重ねている僧侶を私はたくさん知っています。

ここで大切なことは、そうした僧侶達の真摯な思いや覚悟は、たとえその人その人の内面的な真実としては確かだとしても、同時にその行為は、社会的な眼差しからはまた違った論理のもとに解釈されうるし、実際解釈されるのだ、ということです。
真心からの宗教的な動機によって行われる行為であっても、現実の社会の中で何らかの形を取るならば、その瞬間にそれは世俗の論理の網の目にキャッチされることになります。行為するもの自身は、ひたすらに無私の行為を突き詰めていくとしても、そこに労力が払われ、何らかの働きかけがなされたのであれば、それは労働として算定可能であるし、算定されることを止めることができないのです。
たとえば、無私の行為ということを貫徹するために、敢えてあらゆる対価を拒絶する人があったとしても、それはただ「対価を拒絶している」だけであって、その人の行為を「相場でいえばいくら」と算定されることまで回避することはできないのです。ここで、イオンによるお布施の値段表の問題が起きてきますし、今回の『お坊さん便』の問題が起きてきます。個人個人の意思とは関係なく、社会はあらゆる行為を「算定」し経済的な観点に従って値段表をつけて処理することができるのです。
そして、こうした算定が社会的に当たり前である、とされた段階で、「見返りを求めない行為」という宗教の側の論理は、消し飛んでしまいます。
「見返りを求めない」というのは、単純に謝礼を受け取らない、ということではなく、そもそも金銭的なやりとりとは異なった論理の上のことなのだ、ということだからです。

この問題は、もっと大きな社会のあり方の変化に影響されています...
現代の社会は「情報化」という強力なツールを手に入れました。
「情報化」というツールは、物や人、出来事や観念、理念、信用...何でも情報として処理可能な形式に変換していきます。
そして、情報として処理することができれば、あらゆる物事を「数量化」し「算定可能」なものにすることができます。その威力は絶大です。結果として、世界中のあらゆるものに、値段をつけ、その「価値」を算定することができるようになりました。物だけではなく、頭の中にあるアイデアにも、値段をつけることができる。世界中のあらゆる地域の様々な労働も、文化を異にし、価値観を全く違えたさまざまな社会における労働も、「時給にしていくら...」という物差しで共通の場で論ずることができるようになりました。
地球全体は「情報」のネットワークの中に置かれ、その情報という物差しは、物であろうと人であろうと、アイデア(観念)であろうと才能や創造性、はたまた一人の人間の人生であろうと、その価値を算定することができるのです。つまり、「どれだけの経済的な効果を生み出すことができるか...」という物差しを使えば、何でも数量化でき、金銭の単位でその価値を算定できるのです。
金銭によって算定できる強みは、要するに金銭を使えば、何でも実現できる、ということなのです。お金さえ払えば、本来は金銭的な「対価」という思想には基づいていない「布施行」この場合は「法施」である「法事」まで、思いのままにできるのです。
真摯な僧侶達がいくら抵抗しようとも、そうした僧侶達自身ですら、この現実社会の中で生きているわけですから、一方においては金銭の論理の中で生きています。この「生活」という金銭の論理の側から浸食されるならば、最終的な結果は眼に見えています。

「出家」は「家を出る」から出家です。
ここで言う「家」とは娑婆世界であり、世間のことです。
もちろん、すでに言いましたとおり、生きている限りは誰もが社会の中で生きていく...それはすなわち、世間の中で生かして貰うということですから、世間から隔絶した、という意味での「出世間(しゅっせけん)」というのは成立しません。
「出家」というのは、そうではなく、「世間の法」「世間の論理」を柱として生きていくのではなく、「出世間の法」たとえば仏教徒ならば「仏法」を生き方の柱として生きていくということにほかなりません。世間の法、世間の論理を排除するのではなく、世間の論理に従ってこの身を生かしながら、自分自身は生き方の根本を出世間の法の上に置く、ということなのです。ですから、出家であっても、この身のある限り、世間の法の中で、世間の法とともに、世間の法に寄り添って生きていくのです。そうしながら、自分自身は出家沙門として、仏法を自分の信念の柱として生きていくように努めていくのです。それが、僧侶の僧侶としての修行の一生なのです。

さて、前書きが長くなりましたが、ここで、この記事の問題です...
全日本仏教会が激しい非難を浴びたのは、「世間の法」に対して「出世間の法」を対立軸として正面からぶつけてきたからです。

「出世間の法」は、僧侶が自らの信念として、自らの内面の問題として自分自身で引き受けるべき事柄です。だから一番の問題は、そうした、本来はまず第一に僧侶自身の決意と覚悟の問題であるはずのものを、僧侶自身の内面的な格闘と対峙抜きに、いきなり世間に向かって声高に振り回したところにあるのです。

有り体に言えば、こういうことになります...

僧侶だって生活はある...だから、出家とはいっても世俗の法の中にくるまれて生きていく...いや、生かして貰っている。しかし、自分は出家沙門という生き方を選んだのであるから、自分自身の内面に深く厳しく問いかけ、生き方の根本においては「仏法」を自分の信念の柱に置く...法事は、法施だ。自分は、法施をしっかりと行っているであろうか...自分の法事は、しっかりとした法施になっているであろうか...そうした自分は、世間法だけではなく、出世間の法をも自分の日常の信念としてしっかりと維持しているであろうか...その上で、アマゾンからの法事の依頼を考える...受けるべきか、受けないべきか...受けるならば、どう受けるべきか...

要するに、これはまず第一に僧侶自身がこの『お坊さん便』に対して態度を明確にするべきことなのです。それは一人一人の僧侶の信念と覚悟の問題です。
全日本仏教会は、僧侶自身の覚悟と信念の問題を棚上げにして、ただ形式的な「出世間の論理」を社会に向かって、つまりは世間に向かって叫んだのです。これは、そもそも筋がが違うことなのです。
本来のあり方は、僧侶に向かって、「世間の法」と「出世間の法」「との関わりをもう一度しっかりと我がこととして考えよ、その上でこうした社会の動向に対して真摯に向き合え、と要求するべきだったのです。

「出世間の法」を支えるのは、僧侶一人一人の覚悟と信念以外にはありません。「出世間の法」とは、僧侶一人一人が内面に於いて真摯に引き受けるところにしか存在しないのです。
ただ、出家したら、身分的に、あるいは職業上僧侶であったら、自動的にそうしたものを身に纏うことができるようなものではないですし、ましてやそうした論理を、世間に向かって振り回し、「守ってくれ」と要求するようなものではないのです...



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