音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め(中村元訳)。
『スッタ・ニパータ』にある有名なこのくだり、初めて読んだのは、もう二十年以上も昔のこと...。そのときには、それほど印象深くは思わなかったのですが、それでもやはり、心の奥深いところに響いていたのでしょう、あるとき、突然、何の脈絡もなくこの言葉が私の心に浮かんできたのです。
この言葉が頭に浮かんできたとき、正直なところ、何とも説明できない衝撃を感じ、心が揺さぶられる思いがいたしました。自分が漠然と手探りで探していたことを、ぴたりと言い当てられたように、思ったのです。自分にとっての「仏教」を、一番自分自身にとってふさわしい形で表現するならば、これ以外にはない、と今は思っています。
仏教の世界は、文字通り「広大無辺」。難しい教相の問題などを抜きにして考えるとしても、いわゆる『大蔵経』に収められているテクストの分量だけでも、もの凄いものがあります。人口に膾炙した有名なフレーズだけでも、かなりのもの。それぞれ素晴らしい言葉があるのですが、この「犀の角のように...」が特によいのは、座右の言葉のように、一人で噛み締めながら、繰り返し自分で唱え、「自分のお経」のようにできることです。
ギリシアの古典を専門にしていた、若き日の「文献学者ニーチェ」が、実はかなりの東洋贔屓であり、『スッタ・ニパータ』を大変に愛読していたこともよく知られていますが、ニーチェもこの「犀」のくだりを「ふだんの用語にしている」と手紙に書いている由。ニーチェにはパウル・ドイセンというインド学を専門とする強力な友人---ドイセンは、『ウパニシャッド』のドイツ語訳もしているんです---がいたから、この「犀の角」の話を友人ドイセンと交わしたこともあったのかもしれません。確か、この手紙の相手は、ドイセンだったと思います。
古典文献学の世界は、格言、名言の宝庫。ニーチェも、そうした数多ある名言の中から、この言葉に共鳴し、それを座右の言葉にしながら、孤独に一人、自分の道を歩んだことでしょう。似たような意味の言葉は、当然ギリシア世界にも沢山あるのですが、「犀」がでてくるものは、恐らくはないと思われますし、エキゾチックで、神秘的な感じがします。ヨーロッパ世界の行き詰まりと、没落を予感していたニーチェには、ふさわしい言葉でしょう。
しかし、この「犀の角のように...」を、唯一人孤独の道を行く、というだけのところからみるならば、それはちょっと浅薄な感じがします。比喩としては面白いのですが、...。
この言葉が素晴らしいのは、一人歩むこの犀の道行きに対して、様々な想像が働けばこそなのでしょう。一緒に並べられている、「水」も「獅子」「蓮」も、すべてが自由で、周囲に染まらないあり方のものばかりです。そう、犀の孤独な道行きは、「王者の道」であり、犀の孤独は、世に背を向け、世を拗ねた隠者のそれではなく、世界の真っ只中を、誰に頼ることもなく、自分の力で一人ゆく「王者の孤独」なのです。ですから、この道行きが独りよがりのものであってはならないはずです。
この犀の孤独が、真に王者の孤独にふさわしいかどうか、それはひとえに孤独が「逃避」によって生み出されるものかどうかによって判断されるように思われます。逃避によって道を行くものは、「犀の角のように」まっすぐに、一條の道を行くことはできません。一條の道を行く者は、自分の行くべき道を知っていなくてはなりませんし、どのような結果を招こうとも、自分自身の意志で歩んでいかなくてはならないのですから...。
アルブレヒト・デューラーの有名な版画に、森の中を一人ゆく騎士の姿を描いたものがあります。森の中で、奇怪な姿の化け物が現れ、騎士を脅かそうとしているのですが、騎士は動ずることなく、決然と馬を進めています。「中世ヨーロッパ」における最高の徳目の一つ、「勇気」を最も見事に表現したものの一つだと言われるものです。「犀の角のように...」ととなえるとき、私にはデューラーの版画の雰囲気が、ぴったりくるようにも思われます。
今の私にとっては、自分の道は「仏教」です。私の家庭は余り仏教的な環境ではありませんでしたし、むしろ私はヨーロッパ哲学に対する関心から、回り回って仏教の世界に導かれたような形です。ですけれども、いま思うことは、洋の東西を問わず、大切なことは一つ...。
違いは違いとしてはっきりと見てとりながら、そして自分の道は自分の道としてぶれずに歩みながら、一つのところを見ていく...そんな想いでいます。
一人の世界を表すことができない。その奥深さはきりがない。その事に気づいた者だけが深い所までゆけるチャンスがある。それを知らないで漫然と生きているより、深さを知り、また深い所から自分の在りかへ引き返してくれば、新しい自分になれる気がする。深く味わって生きたほうが、人生は楽しい。人間は孤独を自覚しながら共存すれば、深く生きられる。