峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

サルがオオカミを飼い慣らす日も近い?

2016-08-31 21:29:54 | 哲学・思想

昨年の記事に昨年のコメントですが...

エチオピア北高原セミエンのゲラダヒヒ、撮影:庄武孝義

サルがオオカミを飼い慣らす日も近い?野生のオオカミを手懐けたゲラダヒヒの群れが観察される(エチオピア)

グノシー・カラパイア

これは面白いですね…
道具を使う動物は以前からよく知られていて、知能の高い猿の仲間はともかく、木の枝を楊枝のように使って木の幹にある穴の中の虫を取る小鳥(ダーウィン•フィンチ)や石を使うカラスやラッコ、はてにはキノコ栽培をする蟻など、すでに多くの動物たちが「ホモ•ファーベル」の地位を脅かしていたのですが(笑)

モノを直接介在させるだけではなく、情報を通じて環境のカスタマイズをする…

「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり…」
孫子の兵法のようです(笑)

もちろん、今の段階では、猿が狼を支配しているのではなく、見たところは情報を通じて棲み分け共存を図っている段階なのですが…

ポイントは、猿が情報を通じて狼をコントロールしている(懐柔)のではないかと仮定をさせるような要素がこの共存関係の中にはある、ということなのですね…
それがなければ、ただの共存棲み分けの話でしかありませんから…

この記事の中で指摘されている中で一番大事なことは、狼が猿の赤ちゃんを襲わない、というところですね…
いくら猿と狼との間で、ある種の相互受益関係に基づいたコミュニケーションが成立しているとしても、狼が赤ん坊を襲わない、ということは、過酷な自然界においては、生存本能・狩猟本能から見ても、異様なことなのですね…この記事の猿とオオカミは、3600メートルの高地ですから、さらに環境は過酷なはずです...ですから、本能に反してでも、狼は猿に手を出さないように「習慣づけられている」のですね…

この習慣づけを、猿が行っているのではないのか…
これが、猿による狼の支配(飼い馴らし)という、この記事の仮説の骨子のようです。
飼い馴らしという形の支配は、この記事の仮説のように餌になる齧歯目のありかを教える、という、餌を媒介するものであったとしても、より魅力的な餌である自分たちの赤ん坊を襲わせない、というコードを確立している段階で、より高度な、「情報空間における支配」に達しているようです…

目先の魅力的な赤ん坊よりも、猿との共存…
こんなチョイスを狼に選ばせるように操作する仕組みはいったいどのようなものなのか…
これこそが、ゲラダヒヒの「孫子の兵法」なのですね…
続報が楽しみです…

 

新発見の仏陀の遺骨...

2016-08-29 02:13:30 | 宗教

新発見の仏陀の遺骨...

銀の宝箱に収められた、仏陀のものかもしれない頭蓋骨が、中国、南京で発見された...(『アルケオロジー・マガジン』)

これはとても興味深いですね...

頭蓋骨を含む釈尊の骨が、大報恩寺(南京)の遺跡の地下礼拝所から発見された...(『アルケオロジー』)

こちらも...

仏陀の頭骨を収めているかもしれない古代の石櫃が地下から発見された...(『ライヴ・サイエンス』)


南京の大報恩寺は観光地としても知られていますが、ここの地下から石櫃が見つかり、その石櫃には鉄の箱が納められ、その中から仏舎利塔(スツーパ)がでてきたといます。
この仏舎利塔は高さ117センチ、幅が45センチ、金銀を鏤めた白檀製で、水晶、瑪瑙、硝子、ラピスラズリといった貴石で装飾されているといいますから、かなり華やかなものです。そしてこの仏舎利塔のさらにその中に銀製の宝箱が入っており、人骨と、頭蓋骨を納めた黄金製の宝箱が納められていたといいます。
石櫃には碑文が刻まれており、それによると、この石櫃は北宋の第3代皇帝真宗(しんそう:在位:997 - 1022 )の時代に作られたもので、入滅後の釈尊の亡骸がアショカ王の時代に84000のパーツに分けられて各地に納められ、そのうち19のパーツが中国に渡った。それがこうして納められるに至った経緯が記されているというのです。...
さてさて...
一方では、仏舎利と言われるものを世界中で集めると、その総重量は2トンほどになる...そんなことも言われたりします。
それにはもちろん、ちゃんとした理由があり、釈尊の入滅語の亡骸の処理が関わっていて、普通に考えるならば釈尊の亡骸は遺されてはいない、という結論に至ります。
しかし、真相は誰にもわからないのです...
この遺跡にまつわる物語は、現代に生きる私たちにとっても遙か悠久の昔に思いを寄せるきっかけになりますし、特に仏教を奉ずるものにとっては思いひとしおです。
そしてそれ以上に、この聖遺物の物理的な真贋はともかく、こうした形で大切に運ばれ、見事な装飾をこらされ、厳重に隠されて守られ続ける...その思いの凄さに心打たれます。それは、釈尊その人...苦しみに満ちたこの地上の生、現実世界での人生の中に、平安と癒やし、魂の救いを見いだした偉大な思想家にして宗教家、目覚めたる者...聖なる存在であるブッダ・シャキャムニに対する熱烈な思いが形となったものであり、いま再び、大報恩寺の地下に納められて後、千年以上の時を経て現実世界に出現したのです...
私たちが生きるこの現実を尺度にした上での事実や真実...そうしたものももちろん大切なのですが、それとは違う価値観に生き、信念に生きた人たちの思いは、現実の荒波、時間の猛威を乗り越えて、何百年、何千年もの時を経てなお、こうして形を取って私たちに大切なことを語りかけているのです。至誠をもって、至心から発する願い、祈りは、すべてを超えて同じ願いを持ち、祈る心に共鳴し、共振し、心震える経験を生み出すのです。


地方移住に失敗...田舎暮らしの「影の部分」...?

2016-08-27 10:27:51 | 哲学・思想

地方移住に失敗...田舎暮らしの「影の部分」...?

昨年、FBにあげたものですが...

地方移住に失敗した人たちが語る、田舎暮らしの『影の部分』...(『週プレNEWS』:2015.04.03)

こうしたことが実際に起きているであろうことは容易に想像できますし、事実私もこれに近いケースはいくらでも目にし、また耳にしています。
そして、これはこれで、現代日本の抱える問題のある部分を、確実に切り出してきているとは思います。
しかし、これは「田舎の問題」ではなく、私たちの問題なのです。。。

何が言いたいかといえば、要するに、ここで語られる田舎暮らしの「影の部分」というのは、形を変えて私たちの社会のあらゆる部分に現れているから、特殊に田舎の問題などではない、日本中どこでも同じことだ、ということです。だから、それは「日本の、日本人の問題なのだ...」と主張することも可能です。そうなれば、これは地方移住や田舎暮らしの問題と言うにはとどまりません。しかし私はむしろ、そういう観点よりも、もっと深く掘り下げて考えてみたいのです。田舎の問題でも、日本人の問題でもなく、私たちの、私たち一人一人の、つまりめいめい自分自身の問題なのではないか...そうした問題の要因をもたらしたものの重大な部分は、確かに、あるいは社会であり、共同体であり、時代であるかもしれないけれども、それに答えるには、自分自身の問題の根本に立ち返るのでなければどうにもならないのではないか、ということなのです。

         ...

さて、上述の記事についてですが、言うまでもなく、仕事を持ち、一人前の社会人として生きていく、ということに対する基本的な認識が甘ければ、田舎に限らず、都会でも、どこでもしっかりとやっていくことなどできません。
豊かな社会に暮らしてはいても、仕事を持ってきちんと生きていくことは、決して楽なことではないのですから。。。
テレビを見て「楽しそうで。。。」と決めて、現場に来て日も経たないうちに「イメージと違って。。。」「雑用とも呼べない仕事が続き、正直ウンザリ。。。」と言っているようでは、そもそも、生きていく、という一番大事なことに対して勘違いをしてしまっています。

もう一人の例も、「田舎は出費が多い。。。」と書いていますが、そもそも都会は出費が少ないのか???
田舎は家賃も安く、物価も低い。。。出費が少ないだろう。。。
そういう思い込みがこういうことを書かせていますね。。。
「田舎暮らしの理想と現実のギャップ。。。」と書いていますが、田舎暮らしだろうと都会暮らしだろうと、人が一人生きていくということは、もともと、大変なことなのではないですか。。。
「癒しを求めて。。。」と書いているところに、実はそもそもの問題が隠されています。

お金をたっぷり持った旅行者として、田舎でサービスを受けるのであれば、十分に癒してもらえるでしょう。しかしそれは、お客さんとしてそうなっているだけで、自分が生きていく、ということとは違うことです。
生きていく、という局面においては、どこにいても、何をするにしても、自分の頭で考え、決断し、自分の力で動かなくてはいけませんし、それに加えて、身の回りの人達と信頼関係を築き、協力していかなくてはいけません。いうまでもなく、私たちは絶対に一人では生きていけないのですから。。。
生きていくためには誰もがしなくてはならないことを免除される。。。そんなことがどこで実現するというのでしょうか?
ここで語られていることは、当然しなくてはならないことを免除され、楽しく、癒される、理想的な場所が田舎だ、と勝手に思い込んだ人達が、現実に衝突して引き下がった。。。ただそれだけのことなのです。

私は、この人達を非難して、田舎を擁護し、美化しようとは思いません。
田舎には田舎独自のルールがある。。。それはその通りです。
しかし、都会も同じです。都会の人間が田舎にやってきて、暗黙のルールの相違に驚いて途方にくれる。。。それと同じように、田舎の人間も都会にやってくれば、やはり都会独自のルールに戸惑い、困惑する。。。要するに、ルールが違う、というだけのことなのです。
田舎も都会も、私たち一人一人が生きていくためにしなくてはならないことは、基本的には同じだ、と言っているのです。

この記事の問題点は、そもそも、生きる、ということに対するスタンスの問題に起因していることを、田舎の問題に切り縮めてしまっているところです。
現代の日本において浮かび上がってくる様々な問題の中に、そもそも、生きる、ということはどういうことであるのか、そういう根本的なところにおける勘違いが透けて見えてきています。

楽しく生きていける。。。癒されながら生きていける。。。
そういう人生があり、場所があり、生き方がある。。。
そういう理想を思い描くとして、そこで考えられていることは、実は荒唐無稽な絵空事ではないのか。。。
田舎、という場所が、あるいは言葉が、そうした絵空事を吸着する装置として機能している。。。
それは、田舎の問題ではなく、絵空事を思い浮かべる人間の問題なのです。
嫌なことはしたくない。。。自分に快適で心地よい生き方をしたい。。。
そんなことが容易に実現できる場所がある。。。
そう考えることの愚かしさに気がつかない限り、何も変わりません。それは、ただの身勝手であり、逃避だからです。
この記事から読み取らねばならないのは、「田舎暮らしの影の部分」ではなく、際限なく膨らむ現代人の「身勝手の闇」「逃避願望の闇」なのです。

     ・・・・・

昨年、こうしたことをFBに書いたとき、結構な数のコメントをいただきました。

どれもが真摯な姿勢からのコメントで、とても参考になるものでした。

その中のいくつかは、そうはいっても、日本の田舎の独特の閉鎖性、排他性はどうにもならないのではないか...そこが問題の核心ではないのか...というものでした。

もちろん、それはその通りなのです。繰り返しますが、私は田舎暮らしを美化して「移住に失敗した」人を非難しているのではないのです。

大切なことは、田舎が閉鎖的だからだ...いや、都会人が甘すぎるからだ...という二分法にしてしまっては、もっと深いところに潜むさらに深い問題が見えてこない、ということなのです。この場合の対立軸は、それぞれにそれなりの根拠があり、それなりに正当な主張です。

しかし、現代の社会は、全体として田舎の考え方、田舎の価値観を圧倒して、押し流して行っています。論理の上では、「田舎の論理」も「都会の論理」もそれぞれ対等に扱うことが可能なのですが、現実には、田舎は閉鎖的で排他的だ、という指摘をする人たちのコメントの背後には、ネット上、あるいはその他の言論空間の中での圧倒的多数の同意と賛成意見が控えている、ということです。

ここで、その当否、是非を論じるのではなく、そうした背景に控えている多数派の人々のものの考え方を貫いて行くとすれば、じゃあ、本当に問題は解決するのか...そういう人たちの考え方に従って田舎の排他性、閉鎖性なるものを「改革」すれば、本当に問題は解決するのか...それはそうはいかないのです。それでは、なぜ、問題は解決しないのか? その場合の問題の根は、いったいどこにあるのか? そうした観点でものを考えなければならないのです。

私自身がそうでしたが、かつてバブルの頃に、若造の学生でも簡単にそこそこのお金が手に入り、世の中で普通に大変な贅沢とされていることを享受できるような状態が続きました。。。
その頃、『エヴァンゲリオン』や『アキラ』が流行り、オウム真理教の「ハルマゲドン」を実は心の底で待望する、という屈折した感情が私たちの心の底にわだかまっていたことを覚えています。私自身は、当時はやった終末論やオウム真理教、オカルトには関心がありませんでしたが、少なくともそういう感覚を、私は同時代人として共有していました。。。

苦しい労働なんかしなくても、あぶく銭を転がして生きていけるような人生が、リアリティを持って語られた時代です。しかし、その真っ只中に、こんな世の中なんか、終わって仕舞えばいい。。。そういう感覚もまた、存在していたのです。そういう人たちを、オウム真理教は吸い上げていって、肉体的な苦行をともなう修行という形で魅きつけて行ったのです。「修行」という制約された不便な生き方が、あるいは「苦行」のような肉体的・精神的な苦痛を伴うような生き方が、そこでは生きることのリアリティを感じさせる、ほとんど唯一に近い装置として機能していたのです。

確かに、毎日の暮らしは快適かもしれない...しかしそこにはリアリティを感じさせるような「何か」がない...誰もが快適さにあこがれ、そしてそのあこがれが現実となったとき、その世界はとても退屈で、のっぺりと平板で、色褪せたものでしかなかった...そんな暮らしがずっと続くのか...自分が生きている、という実感はとても希薄で、自分が生きていることの意味を確かなものとして感じさせてくれるものがどこにも見つからない...豊かなバブルの時代に、そんな感覚を持っていた若者はとても多いのです。
楽しく、楽に、癒されて。。。
バブルの時代にそそんな人生が現実に手に入りつつあるかのように見えた。。。それは同時に、「生きることを放棄する」あるいは放棄させられる。。。ということでもあったのでしょう。。。

生きている、という実感を極限まで薄められ、代わりに快適で平板な毎日を与えられる...自分が生きることの意味を棚上げされ、代わりに暇つぶしの娯楽を与えられる...映画『マトリックス』の世界です。これこそまさしく、「生きることの放棄」です。


本当に生きる。。。これが、実感として感じられるような人生のスタンスとは、どのようなものか。。。
これは、とても大事な問題です。

「地方移住」あるいは「田舎暮らし」という選択は、生き方の選択です。快適さや心地よさの提供を求めてのものであっては、最初からボタンを掛け違っていると言うほかはありません。「田舎暮らし異は、良いよ!」という言葉を聞きますが、その「良いよ」とは、何を言っているのか...

人生の道にどれほど疲れ、日常生活に倦んでいるとしても、自分自身の人生から「降りる」ことはできませんし、日常生活の様々な負担から逃れることはできません。どこに行こうと、何をしようとそうしたものは死ぬまでついて回るのです。快適さも心地よさも、その上でのことです。

そこをはき違えて、どこかに人生を逃避できる場所があるのではないか...そんな愚かな身勝手さが、ユートピアとしての田舎という幻想を生み出し、増幅させる。ユートピアとは、ウ=トポス...つまり、「どこにもない場所」のことなのです。

誰もがユートピアを夢想する...時には、それも良い。しかし、実際にそうした夢のようなものに人生を賭けてしまう人がいる...


学びの府としての大学は、いまいずこ...

2016-08-24 14:59:04 | 学問

学びの府としての大学は、いまいずこ...

新幹線、京都駅のプラットホームで、象徴的なものを目にしました...

こんな看板が出てしまうところに、大学の劣化が見えてしまいます。京都は、歴史の都市であり、宗教都市であり、そして大学都市なのです。だからこそ、こうした看板が京都において出てしまうことは、事態の深刻さの証のように思えてなりません。


看板の向かって右側の女性の額には、緑色の「再生」ボタンが、左側の男性の額には、赤色の「録画」ボタンが付けられていますね。
知というものは、断じて記録→再生ではありません。学びとは、吸収し、骨肉化し、自分自身が変容し、そして行動することです。
始まりは記録の域を出なくても、学びを積み重ねていくうちに、必ず自ら問いを発し、自ら探求することへと繋がって行くものなのです。
この看板は、うちの学生はただのメディア・プレーヤーです。わが大学は、人間ではなく、メディア・プレーヤーを作り出すことを目指しています、と声高に宣言しているようなものです...

「猿真似」という言葉がありますが、この大学は、まさしくネット検索とコピペを繰り返す「進化した猿真似」学生を量産しようとしているのでしょうか...

情報の処理は、コンピューターでも可能です。しかし、ものを考える、という行為は、人間に残された最後の領域ではないのか...


詰め込み教育の弊害が切実に叫ばれ、想像力、創造性の開発が急務の課題となっている今日、このとんでもない時代錯誤と矜持を無くした無恥、信じ難いほど無邪気な無思想は、驚愕に値します。
ITが人間に取って代わる日が到来するのではないか…
そんな議論が真剣になされている時代に、大学は何を成すべきか…
まさしく学問の府としての大学の出番が到来しているこの時に、この大学は自ら脳死状態に陥っているのです。


そして、これが仏教系の大学であることに、私は深い絶望感を抱きます。
ずいぶん昔のことですが、この大学は、大学の記念事業を巡って一悶着をおこしました。いわゆる「平成の大馬鹿門」事件です。あの事件は、とても象徴的です。
今日のこの体たらくを見るにつけ、学びの府である大学が、学びとは何か、という原点を忘れる時、どれ程無様なことになるのか、改めて考えさせられます。


醜悪なものがスタイリッシュに飾り立てられて何事もなかったなのように往来を闊歩する…
ふと気がつけば、私たちの回りはそんなものばかり…
これがただの悪夢にすぎないことを祈るばかりです…


農から見える二一世紀の悪夢...

2016-08-23 10:47:20 | 哲学・思想

 農から見える二一世紀の悪夢...

はじめに、2年前のものですが、FBでの岡本よりたか氏のコメントから...

 

「俺は自分の畑のは食わないけどね。」

辛辣な言葉を久しぶりに聞いた。まだ、こんなこという農家がいるのか。

農薬がなければ今の生活が破綻することぐらい、僕も理解している。

                               ...

枯れて行く作物、虫食いに朽ちて行く作物を見ているのが苦しいのも知っている。

枯れ始めたら、畑がどんどん役病に侵食されて死の世界になる恐怖。引き取られない作物が山積みになる恐怖も理解しているつもりだ。

肥料がなければ品質が保てないのも知っているし、より良い作物を作るためには肥料が必要だという意見も理解できる。

でも、理解できないことがある。

なぜその野菜を自分たちで食べない。自信を持っているなら、昼ご飯に畑の野菜を食えばいい。

なぜ、無農薬だと病気が蔓延すると決めつける。なぜ、病気に気づかないだけだと断言する。

なぜ、肥料がないとまともな野菜ができないと決めつける。なぜ、小さくて色の薄い野菜を出来が悪いと決めつける。

そして、なぜ、農薬と肥料がなければ世界は飢え死にすると断言する。

価値観の違いを認めあわなければ、お互い潰し合うだけじゃないか。

慣行栽培が不必要だとは思わないが、無くても作物は作れる。自然栽培が無くても作物が作れるのと同じこと。

せめて、自分が食べたくないという無責任な仕事はやめてくれ。

営業マンが乗りたくないという車を売りつけられたらどうする?航空会社の人が乗りたくない飛行機に乗るのか?

自分の職業以外に当てはめて考えて欲しいものだ。

(岡本よりたか:FB:2014.08.23)

 

***********

 

21世紀の悪夢は、都会からは見えない水面下で進む...

わたしたちの社会が、責任と倫理性、そして矜持をなくした人間ばかりによって満たされるとき、本当の悪夢がはじまる...

これは、農業だけの話ではありません...

...

この物語が恐ろしいのは、わたしたちが、社会を構成し、お互いに支え合って生きていくときに、絶対に必要となるルールや思想を共有しない、あるいは共有することのできない人たちが出現してきている...、という問題には還元できないことです。
そのこと自体ももちろん、既に恐ろしいことなのですが、それだけではなく、ここでは、わたしたちの社会のシステムが、共に生きる、共に生きるために連帯し、責任を担う、という思想を許容しないところまで、過酷に、無慈悲に組織化されてしまっている、という現実を浮かび上がらせているのです。

この組織化の中心思想は「経済」という思考の物差しです。そして、この物差しは、数学、論理学、心理学、社会学...さまざまな学問領域を総動員して、「経済学」という、一見、有益そうなよそ行きの顔を作っています。
しかし、現代の「経済学」は、ほかの現代科学のすべてと同様、数学的な論理モデル化と統計的な解析を組み合わせた、「知のツール」であり、経済行為とは何か、経済的な営みは、何のためにあるのか、人間を経済という観点から見たとき、どうあるべきか...あるべき姿、つまり「規範」へと向けた思考とは、一切かかわらない...

20世紀の学問革命は、「規範学」の放棄として特徴付けることができます...それはつまり、「あるべき」ものは扱わない...専ら「現にある」姿を対象とするのです...
そしてそれは、ただの「ツール」つまり道具、手段であり、その「ツール」を用いて、どのような目的を実現しようとするのか...一番大事な、その目的にはかかわらない...かかわることができない...なぜか...?
それは「ツール」でしかないから...ただの道具であるから...
その「ツール」を用いて、どのような夢を実現するかは、「欲望の実現」という、学問以前の暗い衝動に突き動かされている...

「あるべき姿を考える学」あるいは「規範学」は、現実を遊離した机上の空論である...学問は、もっと現実にかかわるべきである....
そういうことが声高に語られた時代を経て、今日の学問は、理想を語らず、理念を生み出すことをしなくなりました...
しかし、理想、理念を放棄して、ツールだけを磨き上げていくとき、今日のような事態が生起することは、当然ではないのか...

多くの人間が精神的に荒み、至る所で共同体が壊れ、社会のシステムが暴走する...その、どれか一つでも、きちんと機能しないかぎり、わたしたちの生きているこの世界は、歯止めを失って崩壊するほかないのです...

この時、言うべきこと、言えることは、この記事のように「せめて...」だけになってしまっている。しかも、そういうとき、こうしたことが起きることを「理解している...知っている...」と言わなくてはならない。
最後の砦として、個人の倫理観、個人の矜持に訴えるしかほかに打つ手立てがない...この思想的な貧困さは、どうだ...
ただ、弱小で零細の個人個人に、「せめて...くれ」と訴えるほか手立てがないとは、わたしたちの社会は、どうなってしまっているのか...

次にやって来るステージは、こうした物語の恐ろしさが、感じ取られなくなってしまう時代の到来です...それとも、既にそうした時代はやって来ているのか...
この物語の恐ろしさは、もはや感じられもせず、理解もされなくなっているのか...