さて、上述の記事についてですが、言うまでもなく、仕事を持ち、一人前の社会人として生きていく、ということに対する基本的な認識が甘ければ、田舎に限らず、都会でも、どこでもしっかりとやっていくことなどできません。
豊かな社会に暮らしてはいても、仕事を持ってきちんと生きていくことは、決して楽なことではないのですから。。。
テレビを見て「楽しそうで。。。」と決めて、現場に来て日も経たないうちに「イメージと違って。。。」「雑用とも呼べない仕事が続き、正直ウンザリ。。。」と言っているようでは、そもそも、生きていく、という一番大事なことに対して勘違いをしてしまっています。
もう一人の例も、「田舎は出費が多い。。。」と書いていますが、そもそも都会は出費が少ないのか???
田舎は家賃も安く、物価も低い。。。出費が少ないだろう。。。
そういう思い込みがこういうことを書かせていますね。。。
「田舎暮らしの理想と現実のギャップ。。。」と書いていますが、田舎暮らしだろうと都会暮らしだろうと、人が一人生きていくということは、もともと、大変なことなのではないですか。。。
「癒しを求めて。。。」と書いているところに、実はそもそもの問題が隠されています。
お金をたっぷり持った旅行者として、田舎でサービスを受けるのであれば、十分に癒してもらえるでしょう。しかしそれは、お客さんとしてそうなっているだけで、自分が生きていく、ということとは違うことです。
生きていく、という局面においては、どこにいても、何をするにしても、自分の頭で考え、決断し、自分の力で動かなくてはいけませんし、それに加えて、身の回りの人達と信頼関係を築き、協力していかなくてはいけません。いうまでもなく、私たちは絶対に一人では生きていけないのですから。。。
生きていくためには誰もがしなくてはならないことを免除される。。。そんなことがどこで実現するというのでしょうか?
ここで語られていることは、当然しなくてはならないことを免除され、楽しく、癒される、理想的な場所が田舎だ、と勝手に思い込んだ人達が、現実に衝突して引き下がった。。。ただそれだけのことなのです。
私は、この人達を非難して、田舎を擁護し、美化しようとは思いません。
田舎には田舎独自のルールがある。。。それはその通りです。
しかし、都会も同じです。都会の人間が田舎にやってきて、暗黙のルールの相違に驚いて途方にくれる。。。それと同じように、田舎の人間も都会にやってくれば、やはり都会独自のルールに戸惑い、困惑する。。。要するに、ルールが違う、というだけのことなのです。
田舎も都会も、私たち一人一人が生きていくためにしなくてはならないことは、基本的には同じだ、と言っているのです。
この記事の問題点は、そもそも、生きる、ということに対するスタンスの問題に起因していることを、田舎の問題に切り縮めてしまっているところです。
現代の日本において浮かび上がってくる様々な問題の中に、そもそも、生きる、ということはどういうことであるのか、そういう根本的なところにおける勘違いが透けて見えてきています。
楽しく生きていける。。。癒されながら生きていける。。。
そういう人生があり、場所があり、生き方がある。。。
そういう理想を思い描くとして、そこで考えられていることは、実は荒唐無稽な絵空事ではないのか。。。
田舎、という場所が、あるいは言葉が、そうした絵空事を吸着する装置として機能している。。。
それは、田舎の問題ではなく、絵空事を思い浮かべる人間の問題なのです。
嫌なことはしたくない。。。自分に快適で心地よい生き方をしたい。。。
そんなことが容易に実現できる場所がある。。。
そう考えることの愚かしさに気がつかない限り、何も変わりません。それは、ただの身勝手であり、逃避だからです。
この記事から読み取らねばならないのは、「田舎暮らしの影の部分」ではなく、際限なく膨らむ現代人の「身勝手の闇」「逃避願望の闇」なのです。
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昨年、こうしたことをFBに書いたとき、結構な数のコメントをいただきました。
どれもが真摯な姿勢からのコメントで、とても参考になるものでした。
その中のいくつかは、そうはいっても、日本の田舎の独特の閉鎖性、排他性はどうにもならないのではないか...そこが問題の核心ではないのか...というものでした。
もちろん、それはその通りなのです。繰り返しますが、私は田舎暮らしを美化して「移住に失敗した」人を非難しているのではないのです。
大切なことは、田舎が閉鎖的だからだ...いや、都会人が甘すぎるからだ...という二分法にしてしまっては、もっと深いところに潜むさらに深い問題が見えてこない、ということなのです。この場合の対立軸は、それぞれにそれなりの根拠があり、それなりに正当な主張です。
しかし、現代の社会は、全体として田舎の考え方、田舎の価値観を圧倒して、押し流して行っています。論理の上では、「田舎の論理」も「都会の論理」もそれぞれ対等に扱うことが可能なのですが、現実には、田舎は閉鎖的で排他的だ、という指摘をする人たちのコメントの背後には、ネット上、あるいはその他の言論空間の中での圧倒的多数の同意と賛成意見が控えている、ということです。
ここで、その当否、是非を論じるのではなく、そうした背景に控えている多数派の人々のものの考え方を貫いて行くとすれば、じゃあ、本当に問題は解決するのか...そういう人たちの考え方に従って田舎の排他性、閉鎖性なるものを「改革」すれば、本当に問題は解決するのか...それはそうはいかないのです。それでは、なぜ、問題は解決しないのか? その場合の問題の根は、いったいどこにあるのか? そうした観点でものを考えなければならないのです。
私自身がそうでしたが、かつてバブルの頃に、若造の学生でも簡単にそこそこのお金が手に入り、世の中で普通に大変な贅沢とされていることを享受できるような状態が続きました。。。
その頃、『エヴァンゲリオン』や『アキラ』が流行り、オウム真理教の「ハルマゲドン」を実は心の底で待望する、という屈折した感情が私たちの心の底にわだかまっていたことを覚えています。私自身は、当時はやった終末論やオウム真理教、オカルトには関心がありませんでしたが、少なくともそういう感覚を、私は同時代人として共有していました。。。
苦しい労働なんかしなくても、あぶく銭を転がして生きていけるような人生が、リアリティを持って語られた時代です。しかし、その真っ只中に、こんな世の中なんか、終わって仕舞えばいい。。。そういう感覚もまた、存在していたのです。そういう人たちを、オウム真理教は吸い上げていって、肉体的な苦行をともなう修行という形で魅きつけて行ったのです。「修行」という制約された不便な生き方が、あるいは「苦行」のような肉体的・精神的な苦痛を伴うような生き方が、そこでは生きることのリアリティを感じさせる、ほとんど唯一に近い装置として機能していたのです。
確かに、毎日の暮らしは快適かもしれない...しかしそこにはリアリティを感じさせるような「何か」がない...誰もが快適さにあこがれ、そしてそのあこがれが現実となったとき、その世界はとても退屈で、のっぺりと平板で、色褪せたものでしかなかった...そんな暮らしがずっと続くのか...自分が生きている、という実感はとても希薄で、自分が生きていることの意味を確かなものとして感じさせてくれるものがどこにも見つからない...豊かなバブルの時代に、そんな感覚を持っていた若者はとても多いのです。
楽しく、楽に、癒されて。。。
バブルの時代にそそんな人生が現実に手に入りつつあるかのように見えた。。。それは同時に、「生きることを放棄する」あるいは放棄させられる。。。ということでもあったのでしょう。。。
生きている、という実感を極限まで薄められ、代わりに快適で平板な毎日を与えられる...自分が生きることの意味を棚上げされ、代わりに暇つぶしの娯楽を与えられる...映画『マトリックス』の世界です。これこそまさしく、「生きることの放棄」です。
本当に生きる。。。これが、実感として感じられるような人生のスタンスとは、どのようなものか。。。
これは、とても大事な問題です。
「地方移住」あるいは「田舎暮らし」という選択は、生き方の選択です。快適さや心地よさの提供を求めてのものであっては、最初からボタンを掛け違っていると言うほかはありません。「田舎暮らし異は、良いよ!」という言葉を聞きますが、その「良いよ」とは、何を言っているのか...
人生の道にどれほど疲れ、日常生活に倦んでいるとしても、自分自身の人生から「降りる」ことはできませんし、日常生活の様々な負担から逃れることはできません。どこに行こうと、何をしようとそうしたものは死ぬまでついて回るのです。快適さも心地よさも、その上でのことです。
そこをはき違えて、どこかに人生を逃避できる場所があるのではないか...そんな愚かな身勝手さが、ユートピアとしての田舎という幻想を生み出し、増幅させる。ユートピアとは、ウ=トポス...つまり、「どこにもない場所」のことなのです。
誰もがユートピアを夢想する...時には、それも良い。しかし、実際にそうした夢のようなものに人生を賭けてしまう人がいる...