峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

ゼロになって死にたい...?

2016-08-16 18:42:20 | 宗教
ゼロになって死にたい...?

葬儀を考えることは、人の生き死にを考えることです...

そして人の生き死にを考えることは、自分自身の人生を考えることでもあるのです。

自分自身の人生と向き合うとき、何が見えるのか... 自分自身としっかりと向き合っていなければ、自分の人生の軌跡を穴が開く程見つめていても、何も見えてはこないのです... 仕事も、出世も、収入も、家族も、友人も...人生において大切なものはたくさんあります。しかし、そうしたものに対して、どこまで自分の人生を賭けることができるのか...それを決めるのは、自分自身なのです。

それが本当に大切なものであるかどうか...尊いものであるかどうか...守るに値するものであるかどうか...それは、そのものの「何であるか」ではなく、その人がどこまで命懸けで護り抜き、戦ったかによるのです...他人がどうこう言うものではないのです。

「捨ててくれ...」と言う人はいます。しかし、本当に捨てたければ、自分で捨てれば良いのです。 自分の方でちゃんと捨てていれば、あとはどうでも良いはずなのです。 それを、「捨てる」というのです。 この世を去ったあとまでも、いつまでも未練たらたら「捨ててくれ」「ゼロにしてくれ」...人に頼む前に、まず、自分がしっかりと捨てなさい...そう言わなくてはなりません。

「モノ」ならば、代わりに人に捨ててもらっても良いでしょう。しかし、自分の人生を集約するような場面において、「捨ててくれ」「忘れてくれ」は、甘えでしかないのです。大体、一人で、自分一人の力で生きてきたなどと思っているのでしょうか... どうしても捨てたければ、自分で捨てる。 自分で捨てる勇気も、覚悟もない者が、人に頼む... そして、本当に捨てる勇気があり、覚悟があるならば、いただいた命、いただいた人生、いただいたご縁を、溝に捨てるような真似はしないのです。

「勇気」「覚悟」といったものは、本当は、激情や感情のうねり、勢いや行き掛かりとは違うのです。 人生においては、自分の壁、自分の殻を破るためには、時には見境のない「蛮勇」が必要なときがあります...若いころには、特にそうです。

しかし、「勇気」「覚悟」というのは、本来は「智慧」に裏付けられていなくてはならないのです。 しっかりとした智慧を持ち、ことの是非善悪が解り、その是非善悪の限界も解り、自分の負っている恩義がわかり、感謝することを知り、自分の使命をわかっていなくては、勇気など出るはずもないですし、覚悟など、とても無理です。

本当の意味で「捨てる」ためには、捨てるべきものをしっかりと持っていなくてはなりません。命懸けで頑張り抜いた者は、その懸けた命の分だけ、捨てるべきものを持つ。その大切なものを、来たるべき人たちのために捨てる...自分が捨てることによって、道を開き、新しい者のために委ね、托す...これが、本来の「捨てる作法」なのではないか...大人たちが背中を見せて教えるべき「捨てる」とは、そういうものではないか...

もちろん、簡単ではありませんが、最初から投げてしまっていては、お話にもならないのです。 捨てることができない、覚悟ができない...自分自身と、自分自身の人生とに向き合う時の、この脆弱さは、わたしたちの時代が見失って久しいものを、影のように浮かび上がらせています。 目に見える危機も大切ですが、影のように傍らに控えるこの薄暗い影法師の不気味さを忘れてはならないのです...本当の危機は、この影の中にこそ、潜んでいるのではないか... そのように問う...これも大切な智慧なのです。

 



記事:吉田健一氏

...(引用)...先日、同年代のKさんとお話しをしていて腑に落ちたことがいくつかあった。 一般の人の目線での死生観や宗教観がである。 「死んだ人間に金を掛ける必要は無い、おれの葬式なんてやらなくていい、骨も適当に捨ててくれ」、そのような親世代の男達の心情を、言葉通りに受け取るんじゃないと彼は言う。 そこには遠慮や自信の無さが見え隠れはしまいか?と。 私も男の端くれである。何となく分る気もするのだ。 死んだ人間は用を成さない。 この言葉の裏には、社会的な役割としてしか生きて来なかった自分への焦りと諦めが見えはしまいか。社会的な評価の中で生きて来た人達にとって、その積み重ねてきた鎧を脱ぎ捨てることはとても無防備な状態なのだ。 困難な世を生きる為に被った鎧が、いつしか自分自身のように振る舞い、一人歩きする。やがて死を迎え、その鎧を降ろす時が来る。 しかし、丸裸になった自分は実に弱く脆いものであり、その姿は痛々しくもある。 親父達はそこで剥き出しになる自分の姿を想像できないのである。いや、したくないのだ。 死んでしまえば、言い訳もできないし、虚勢も張れまい。自分の死後、家族や世間がどんな評価を下すのか気が気でならない。社会的な役割(鎧)を果たしているうちは、皆がそちらの方を見ていてくれる。 しかし、社会的な役割を失ってしまった(死)後の自分は何も残らないのではないか? お葬式はそれが曝される場でもある。 Kさんは、父親をかけがえの無いものと感じている。それは社会的に価値がある人間であるとか無いとか、偉業を成し遂げたとかしないとか、そういうものを超えた存在としてである。 しかし、それを生前の父に伝えることは照れくさいし、父もそのような会話を否定するはずだと思っている。 そのような関係に於いて葬式を語る時、父が子に「葬式不要」と宣言するのは何となく納得できる。 この物言いはある種の遠慮かもしれないし、照れ隠しであるかもしれない。 「自分の葬式は立派にやってくれ」などと堂々と息子に言える男などそうざらにいるまい。 彼の父の「葬式不要」発言の裏にも、面と向かって本音を語ることの出来ない男ならではの複雑な感情を読み取ることが出来ないだろうか。 そして父と息子の複雑な感情表現と遠慮は実に日本人的でもある。 だから私は彼にこう提案した。「『あなたの葬式は立派に俺が出すから後のことは心配すんな』と言い返してみれば?」と。 これは親父からすれば涙が出るほど嬉しいセリフなのかもしれないぞ。 勿論、Kさんにもその覚悟がある。 とにかく生前にしっかりと父との「その後」のスタンスをしっかりと宣言すれば良いではないか。 そのぶっきらぼうな物言いにお父さんはすべての思いを読み取るであろう。 で、今朝の新聞の雑誌の記事… 「私のことは忘れて下さい」ですって。 どうぞ先回りしなくても、遺された人の心が判断しますから。 「何も残さない」…。 そもそも何か残せるものがあるとでも? また「0葬」か… 「何も残さない」とは、何も見ていない証拠ではないか。 人間の本質が財産や地位や名誉や形のあるものだけだというのか。 それならば、あなたも人間をそのような社会的な価値基準でしか見ていないのか? なるほどそのような価値観ばかりがまかり通れば、あなたの子や孫は益々生き辛い世の中で苦しむであろう。 あなたの子どもの世代は、世俗的な価値観の中で身動き取れなくなっているではないか。 空気を読んで窮屈な鎧を纏うか、思いっきり身体に合わない鎧を着て虚勢を張るか。 それに耐えきれず、鎧を外してしまえば生きて行けない。 そう、社会の中で価値の無い人間は、生きて行くのもおこがましいのだ…と。 そして、堕ちて行くのは奈落の底…。 その先のセーフティネットがないのだ。 人は社会的な役割を終えても、失っても、その存在そのものは尊いものだ。 死んでもそれは残るのだ。 いや、死んだからそれがはっきりと見えるのだ。 社会のあり方がそれを認めなくても、世間様が嗤い蔑もうが、宗教者は絶対にそこは譲らない。 何よりも、それを親が子に示さなくてどうするというのだ。 親父たちは、鎧を脱いだ後に「何も残さない」生き方を積極的に目指すかのように見せつつも、実は鎧の下の自分を磨くことをせずに鎧ばかりを磨いて来た人生を虚無に感じているのではないか? そんな鎧ばかりを気にしている親父に刃向ってやろうではないか。 「あなたのことを忘れることなど出来ないし、何も残さないなどとは言わせない。だって、私が死んだら私の事を忘れるの?何も残って欲しくないの?自分勝手なことばかり言ってるんじゃないわよ。」とね。 そんなこと言われた親父だってまんざらではないはずだ。 親父達よ。残念ながらあなたが「残さない」と思っても、残るものがある。 少なくとも、後悔やら喪失感などはしっかりと残る。 いや、「何も残さない」と宣言したことによってそれらは更に残る。 さあ、この始末をどうするつもりか。 それよりも、鎧を失っても尚残るものこそを話し合っておくべきではないか。 愛する人が死んでも尚生き続けなければならない人の為に。 あなたが残した言葉や思いが、遺された人の人生に虚無感を生じさせることもあれば、セイフティネットとなることもあるのだから...(引用了)...
 

 


カザルスの『鳥の歌』...終戦記念日に寄せて...

2016-08-15 22:47:56 | 日記・エッセイ・コラム

カザルスの『鳥の歌』...終戦記念日に寄せて...

今日は、終戦記念日...
さまざまな議論、さまざまな思いはありますが、平和への想いは誰もが共有することができるでしょう...

今年は、私たちを取り巻く社会的状況はますます混乱し、緊張が高まっています...

平和、というとき、いつも思い出されるのは、20世紀のチェロの巨人、パブロ・カザルスです。

カザルスはチェロの演奏だけではなく、指揮者としても、作曲家としても、教育者としても優れた業績を残していますが、それにとどまらず、動乱の20世紀の混乱の中で、スペインのフランコ独裁政権への抵抗をはじめ、反ナチズム、反ファシズムの象徴的な存在として、音楽家の社会的・政治的な責任を全うするために、平和への努力を最後まで貫き通した人です。

カザルスと言えば『鳥の歌』という作品がきわだって有名ですが、それは伝説となっている「国連本部」での演奏(1971年10月24日)、そして、ケネディ大統領のためにホワイトハウスで行ったの演奏(1961年11月13日)によるものです。因みに、このケネディ大統領のためのホワイトハウス・コンサートは、カザルスにとっては2度目のホワイトハウス・コンサート...カザルスは、ウッドロー・ウィルソン大統領の前でも演奏を行っています。

さて、まずは、こちら...


カタロニア民謡(カザルス編):『鳥の歌』...


これは、ケネディ大統領の前で行われたホワイトハウスでの演奏の記録です。


一方、国連本部での演奏は、演奏をはじめる前のスピーチを通じてもよく知られていますね...


この時、カザルスは94歳...さすがに演奏は衰えを感じさせるものでしたが、その姿には深く心打たれるものがありました...
スピーチの中で、カザルスはいっています...

   ...鳥たちは大空に舞い上がるとき、ピース(peace)、ピース、ピース、と歌うのです...

カタロニアは、カザルスの故郷ですね。カザルスは、生まれ育った故郷のクリスマス賛歌『鳥の歌』にたくして、平和と自由への想いを語っています。
青空に向かって飛び立ちながら、鳥たちは歌います...
鳥たちは、何を歌うのか...

伝統的には、例えばヒバリたちは、喜びに満ちて、神を賛美する歌を歌うとされています...そしてこれは、クリスマス・キャロルですから、世の救い主、イエス・キリストの誕生を祝っているのです....
しかし、カザルスの故郷、カタロニアでは、平和を、平和を、と歌う...
この言葉の背景は、歴史を繙かなければ分かりません。

カザルスの故郷、カタロニアは、1936年の「スペイン内戦」以後、地元の言語カタロニア語の使用を禁止されてしまいます。
カザルス自身は、3年後にパリに亡命...
第二次世界大戦後、連合国は、フランコの独裁政権を容認...この決定に失望したカザルスは、フランコ政権を認める国での演奏を拒否...
そのため、大勢の演奏家がカザルスのもとに集まり、『カザルス音楽祭』が毎年開催されるようになります...初めは、プラド、そして、プエルトリコ...
結局、1975年に独裁政権を布いていたフランコが世を去り、1978年に新しい憲法が制定されるまで、カタロニアは自分たちの言葉を公用語と定めることができなかったのです...カザルスは1973年に亡くなっていますから、結局、故郷が自由になる様子を生きて目の当たりにすることができませんでした...
喜びに満ちて神を讃えるはずの小鳥たちは、スペインでは、自由な大空に向かって羽ばたきながら、平和を、平和を...と歌わなくてはならなかったのです...


ピカソの『ゲルニカ』もそうですが、20世紀は、スペインにとっては苦難の世紀でした...抑圧と苦しみの中で、ただ、音楽だけが、自由を歌う...
カザルスの『鳥の歌』は、そんな悲しみの苦悩の歌でもあるのです...
そして、同時に、それは希望の歌でもある...
ベートーヴェン、バッハ...スピーチでふれられている偉大な音楽家たちは、地上の苦しみ、絶望、愚かさを突き抜けて、永遠の生命を作品に表しているからです...それが、音楽の一番奥深くに横たわる、魂の領域です...

さて、『鳥の歌』はもともとはカザルスの故郷、カタロニアの民謡です。

こちらが、カタロニア民謡『鳥の歌』の合唱版ですね...

こよなきお祝いの夜、
至高の光がこの世に誕生したことを知り
小鳥たちは歌う
世の光を讃えながら、甘美な声で歌う...
鳥の中の王である鷲は
高く空に舞い上がり
見事な歌を聴かせながら、告げる
イエスが生まれた、われわれすべてを罪から救い
喜びを与えるために...
......

旋律も、歌詞も、とても美しい...

さて、パブロ・カザルスの『鳥の歌』を採り上げましたが、せっかくですから、ここで、あまり知られていないカザルスの姿を...

カザルスは、チェリストとして有名ですが、はじめにも書きましたとおり、指揮者としても活躍し、作曲家としても優れた作品を残しています...
これは、その中の一つ...


パブロ・カザルス:『おお、すべての人々よ...』(『4つのモテット』から)

道行く人よ、心して 目を留めよ、
よく見よ
これほどの痛みがあったろうか
わたしを責めるこの痛みほどの...

出典は、『旧約聖書』の『エレミアの哀歌』です... 痛切な音楽です...
カタロニアを愛し、素朴な信仰を愛したカザルスも、やはり20世紀の人間です...この苦悩は、二つの戦争を経験し、分断し、闘争に満ちた時代を生きた人間の絶望を反映しています...

もう一つ、こちらも...


カザルス:『めでたし、モンセラートの聖母...』

天の元后、あわれみのおん母、...
わたしたちのいのち、よろこび、のぞみなるマリア。
わたしたちイヴの子、さすらいの旅人は、あなたにむかって叫びます。
この涙の谷で悲しみなげきつつ、あなたを慕い仰ぎます。
わたしたちのためにとりなし給うおん母よ、
あわれみの眼を、つねにわたしたちに注いでください。
わたしたちのさすらいの旅が終わる日に、あなたの御子イエズスを
眼のあたりわたしたちに示してください。
いつくしみ、恵み、幸いあふれる乙女マリアよ...

ここで歌われている「モンセラートの聖母」というのは、バルセロナから北西、聖地モンセラット山の中腹に建つ、ベネデクト派の大聖堂に安置されている、有名な「黒い聖母」ですね...
詩を書いたのは、「十字軍」設立に奔走したアデマール・ド・モンテイユ(Adhemar de Monteil(~1098)...「十字軍」の士気高揚のために書かれたものだと言います...

最後に、こちら...
カザルスの残したモテットの中でも、これが一番有名です...とても美しい作品...

出典は、『旧約聖書』の『雅歌』です。

カザルス:『私は黒い...』

イェルサレムのおとめたちよ...
わたしは黒いけれども愛らしい
それ故、王はわたしをお選びになり
みずから、お部屋にお連れくださる

王は言います
「愛する人よ、さあ、出ておいで
 ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった
 花は地に咲きいで、この里にも
 刈入れのときがやって来る
 ハレルヤ...

 


人を「見抜く」ということ...

2016-08-14 18:15:25 | 宗教

 Facebookでの、2年前のシェアですが、とても難しい問題です...@KishayComputer1   

کێشەی کۆمپیوتە

 

シェアさせていただいたもとのSachio Nagatomeさんは、こんなコメントを入れています...

*****

インドではボロを纏(まと)った若い娘が、乳飲み子を抱いて悲壮な顔で手を伸ばして来る事があります。つい心を動かされて財布を取り出す人もいますが、赤ん坊は一日20ルピー(当時)のレンタル、家には健康な旦那もいて貯金もあったなどというふざけた話も。その一方で、僅かなお金がその人の絶望的な人生に明かりを灯すという事もまたあるのです。ハイラカン ババジは物乞いに出逢うと、お金を正確に数えて、ある方にはびっくりする程の金額を、別の人にはその晩の食事にありつける程度のお金を、また他の奴はぶん殴って追い払ったそうですが「全てを観透す力」を持たない我々としては、勘に頼るしかありませんね...

*****

 

「良い実を結ぶ麦」と「悪い実を結ぶ麦」を選り分けることは、至難の業です。 最後は、結局「勘」に頼るほかはありません。

しかし、「勘」というものは、実は働かせることがとても難しいものです。 目の前にある物事を、厳しく、鋭くさまざまな方向から観察し、経験と知識を総動員して推論をめぐらせ、どうしても論理的には決定できない問題点に行き着く... そこで、「勘にしたがって」決断する... このときに、本当に「勘にしたがって」決めることができるのか...

私たちは、頭をフル稼働させればさせるほど、論理を詰めていけば詰めていくほど、無意識な囚われ、自覚しない欲望、それまでの人生の歩みによって定まってきた常識、思考の制約...そういったものに縛られていってしまうのです。 何も考えずに、「さっと」決めれば何事もないようなことでも、考えれば考えるほど、身動きができなくなる...こんな経験は、誰もがすると思います。 こうした時に、いくら自分ががんじがらめになっていても、「さっと」頭の中の「ぐるぐるまわり」を断ち切って、何事もなかったように決めることができる人は、「勘にしたがって」と言うことができる人です。 そうでない人は、考えに考えて、自分を縛りに縛って、いざ、決断という時に、「勘」を働かせているようで、実は決めかねて、ただ、適当に決めているだけになっているかもしれません。

「本物」の勘というのは、よく「答えの方が私たちを手招きする」「答えが、自分を呼んでいる」...というものとして説明されます。

決断の方から私たちに呼びかけてくるのではなく、自縄自縛で追い詰められて、ただ、困って適当に決める...これは「勘」ではないのです。少なくとも、良い形で発揮された「勘」ではない。 To be...or Not to be....二者択一の選択の先端にさらされた時、解決がその二つしか思いつかない...その瞬間に、この二者択一というフレームに呪縛されていないかどうか、根本的に考える力が働く...それが「勘」の正体なのかもしれません。

もちろん、本当の「二者択一」に直面することはあるのですが、自分の心が、何ものかに呪縛された状態では、「勘」も生きては来ないのではないか... これは、じっくりと考えるべきことです... クリップの提起する問題から、ずれてしまいましたが...

NB.Sachio Nagatomeさん から、引用文中の訂正依頼を受けましたので、***内の引用文に、一部修正を加えました(月20ルピー → 一日20ルピー)。

 

さて、もう一つ、


優しすぎる青年を描いたタイの生命保険のCM動画が泣ける...

「いいな」を届けるWebメディア - FEELY(フィーリー)

 

こちらは、対になるようなクリップです...

哲学者西田幾多郎の弟子で、禅の世界に身を投じ、「禅者」と呼ぶにふさわしい一生を送ったものの、出家をすることもなく、終生自らを「哲学者です」と名乗り続けた、久松真一という人がいます。 この人の思想は、きわめて独自なものであるがゆえに、論旨は明確であるにもかかわらず、なかなか理解されませんでした。

久松は、スタイルとしては、その用語の定義までさかのぼって吟味し尽くした厳格な哲学用語を用い、論理的にもきっちりとした論文を書き続けた人ですが、その論文によって描き出そうとした世界は、禅の世界...禅の感覚、禅の直感の世界です。ですから、非論理の世界を、論理的にゴツゴツと書いていくという、一見、無駄にしか見えないような、一種異様な努力を払い続けた人です。

この人の凄さはさておき、この久松に、こんなエピソードがあります... 弟子の誰かが、久松に「先生、~さんは、どんな人でも、顔を見たら、どんな人か百発百中でわかって、当ててしまうそうですよ...」と言ったそうです。 久松はそれに対してこう答えたと言います...

   その人が、相手の顔を見て、その人を見抜くというのならば、それはきわめて浅薄なものです...」

先ほどのクリップと、このクリップを合わせてみる時、なぜかこのエピソードが頭に浮かびました...

「顔を見て...」というのは、さまざまな情報を収集して、「判断」をする作業です。その人の服装、雰囲気、物腰、人相、言葉遣い、話題...それと経験を照らし合わせて、どんな人物か判断をする...知識と経験則がものを言う世界です。

確かに、そうであるならば、それは「浅薄」かもしれません。少なくとも、犀利ではあるかもしれないけれども、「深い」とは言えない...

しかし、「顔を見て」が、そんな判断ではなくて、経験則も、知識も関係なく、ぱっとわかる...直感の世界であれば、また違ってきます。それがもし、ぴったりと相手に的中しているのであれば、その働きは、魂と魂、こころとこころがダイレクトに触れあい、共鳴する瞬間です。 これは、宗教の世界の醍醐味です...禅ならば、拈華微笑...以心伝心の世界。弘法大師と恵果阿闍梨、法然と親鸞...イエスとペテロもそうですね...

   そんなことは、稀なことでしかない...

もちろんその通りです。時と処、そして人を選ぶ...

また、こんな話もあります... 曹洞宗の巨匠、原田祖岳師は、臨済禅と曹洞禅の両方を修められ、素晴らしいお弟子さんを数多く打ち出され、すべてにわたってずば抜けた方でしたが、「よく人にだまされた...」といいます。

禅の師弟関係は、文字通り、電光石火、以心伝心の世界ですので、弟子のことを心の底の底まで見抜けなければ、師匠は務まりません。しかし、同時に、よく人にだまされる人だった... これは、師がどうのこうのという問題ではないのです... 師の凄さは、疑うべくもないのです。だからこそ、この、だまされるところが尊い...そこまで言っては、言い過ぎでしょうか... 私は、そこにも宗教の醍醐味を感じるのです...


なぜ犬の寿命は人間よりも短いのか?...愛犬との別れに臨んで...

2016-08-13 17:31:18 | 宗教

 

はじめに、こちらを...


*「なぜ犬の寿命は人間よりも短いのだろう?」大親友だった愛犬がこの世を去った時、少年が語った感動の答え」...

『カラパイア』:2014年06月13日

 

2年前のシェアですが、そのときのもとの記事が削除されてしまいましたので、別のソースから同じものを...


**********


これはとても大切なことを教えてくれています... わたしたちの一生は何のためにあるのか...?

それは、学ぶため...一生をかけて、一人一人が学ぶべきことを学ぶため...


「教育としての人生」という主題は、実は宗教の世界の主題です...


例えば... わたしたちは、何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、学ぶべきものを学び、その学びが達成されたとき、涅槃に入る...わたしたちは、この一生をかけて学ばなくてはならない...

あるいは、いつかこの世が終わり、神の裁きがおりるとき、神の御心にかなう者であるように...わたしたちはこの一生をかけて学ばなくてはならない...


こうした考えは、一見それほど珍しくも、難しくもないように思われるかもしれませんが、そうでもないのです。


もしも、この少年がここで答えているままであるならば、わたしたちは「長生き」をする必要はない。

長さでは、人生は測れないし、幸福も不幸も測れない。 むしろ、良く、早く学んだ者は、早くこの世を去る... ましてや、金銭的な豊かさや社会的な成功では測れません... 理屈で、「そういう考えもある...」という問題ではないのです。


「学ぶ」とは、自分自身がその学びを通じて「変わる」ことです。

ただ「知る」ということと、「学ぶ」ということの違いは、そこにあります。ただ「知る」というだけでは、わたしたちはなかなか「変わる」ことができません。

ですから、確かにこの子が言うとおりです...犬たちは「最初から知っている」。初めから、そういうものとして、そのように生きているのですから...迷うこともなく、そのように生きる。

「犬喰い」と言いますが、犬はあのように一心不乱に食べることによって、その恵みの喜びを、無心に、全身で、そうだと自覚することなしに表現しているのです。


一方、人間は優れた頭脳を持つ...だから「知る」ことと「学ぶ」ことが分かれてしまう。

「知識」と「実践」、「心」と「行動」が別々のものであることができる... そして、「実践」するべきではないようなことも、「知識」として知ることができるからこそ、誤ったことを知り、信じ、愚かなことを考え、迷わなくてもいいものに迷ったりする...

だからわたしたちは「知った」ものを改めて「学び」、そして自分自身のもの、自分自身の行動、自分自身の生き方として骨肉化しなくてはなりません。その時には、「知識」とは違う「智慧」がいる。

この智慧がなければ、何を知り、学ぶべきか...これがわからなくなる。

人を愛することよりも、優越し、支配することを学び、幸せにすることよりも、不幸になることを学びかねない... それでは、その「学ぶべきもの」とは一体何か?

この少年の答えは、その一端を的確に言い当てています...


もちろん、答えはこれだけではありません。 少年のこの答えは、人間が生きていく間に経験しなくてはならないさまざまな苦しみ、悩み、矛盾の多くを想定してはいないし、想像すらしていないのです。だからこそ、本質的なことをズバリと衝く鋭さがあるのですが、それだけで長く苦しい人生を生き抜いていくことはできないのです。

そして、人生の苦しみと悩みをを経験した大人には、大人の答えがある。

大人になるあいだにこの子は、この時の自分の答えだけでは解決できない人生の難問に曝され、再び、三度、繰り返しこの問いにかえってくることだと思います。


この物語を読んだとき、私の頭には絵本の傑作『百万回生きた猫』が思い浮かびました。

猫は、なぜ百万回も生きなくてはならなかったのか...

百万回も生きなくてはならなかったというのは、つまりは百万回も死ななくてはならなかったことでもあるのです。

そのつどそのつどの生の中で、この猫は本当に「生きた」と言えるのでしょうか?

大切なことを学ぶために、わたしたちはこの世に生を享けるのであるのならば、この猫はその「大切なこと」を知っているのか? 学んでいるのか?  その「大切なこと」を知らないで、本当に「生きた」と言うことができるのか?  この少年の答えは、この童話を考える上でも、示唆を与えてくれるものです...


ともあれ、大人には大人の答えがある... 問題は、何もわたしたちよりも先に旅立つ、愛する犬や猫たちだけではないのです...わたしたち自身も含めた、生命の問題です。だから、大人にとっては、これは宿題なのです。

 


amazon:『お坊さん便』の是非について、全日本仏教会の対応は...

2016-08-12 22:36:24 | 宗教

"お坊さん便"の中止求める全日本仏教会に批判殺到「対案も出さずに批判するのか」 

     朝日新聞デジタル  |  執筆者: 佐藤秀男                                                                      

 

この問題については、簡単に結論を出すことができません。しかし、大切な点を少し...

まず、誤解を覚悟で敢えてざっくりと言えば、この問題に関しての、僧侶の側からの反論は本来は「宗教の論理」であり「信仰の論理」に基づいていて、反対にアマゾンの『お坊さん便』の背景にあるのは「世俗社会の論理」...究極的には「経済の論理」だからです。両者は、全く異なった原理です。つまり、ここでの問題は噛み合っていない原理どうしの衝突なのです。

イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に...」と言いましたが、私たちの誰もが、この世界、いわゆる「娑婆世界」つまりは「世俗の世界」に身を置いている以上、純粋な「神のものは神に...」は成り立たないのです。ですから、僧職にある者が世俗の営みに邁進しながら「神のものは...」と主張しても、そこにある明らかな偽善を、誰も見逃したりはしません。

仏教の「布施行」の基本は「見返りを求めない」ということですから、「法事」つまり「法施(ほうせ:仏法を授ける布施の行)」は本来、対価を求めるサービス業とは本質的な意味づけが異なります。
しかし、僧侶もこの世界に身を置き、身過ぎ世過ぎを重ねていかなければならないですから、法施に対する金銭的な謝礼を生活の資にしていかねばならないという経緯があります。
それでも僧侶は、奇麗事と言われようとも、法要に臨む際には謝礼のためではなく、何よりもまず出家沙門としての本分・本懐を果たすために、全身全霊で取り組もうと努力しなければなりませんし、実際にそうした努力を見えないところで積み重ねている僧侶を私はたくさん知っています。

ここで大切なことは、そうした僧侶達の真摯な思いや覚悟は、たとえその人その人の内面的な真実としては確かだとしても、同時にその行為は、社会的な眼差しからはまた違った論理のもとに解釈されうるし、実際解釈されるのだ、ということです。
真心からの宗教的な動機によって行われる行為であっても、現実の社会の中で何らかの形を取るならば、その瞬間にそれは世俗の論理の網の目にキャッチされることになります。行為するもの自身は、ひたすらに無私の行為を突き詰めていくとしても、そこに労力が払われ、何らかの働きかけがなされたのであれば、それは労働として算定可能であるし、算定されることを止めることができないのです。
たとえば、無私の行為ということを貫徹するために、敢えてあらゆる対価を拒絶する人があったとしても、それはただ「対価を拒絶している」だけであって、その人の行為を「相場でいえばいくら」と算定されることまで回避することはできないのです。ここで、イオンによるお布施の値段表の問題が起きてきますし、今回の『お坊さん便』の問題が起きてきます。個人個人の意思とは関係なく、社会はあらゆる行為を「算定」し経済的な観点に従って値段表をつけて処理することができるのです。
そして、こうした算定が社会的に当たり前である、とされた段階で、「見返りを求めない行為」という宗教の側の論理は、消し飛んでしまいます。
「見返りを求めない」というのは、単純に謝礼を受け取らない、ということではなく、そもそも金銭的なやりとりとは異なった論理の上のことなのだ、ということだからです。

この問題は、もっと大きな社会のあり方の変化に影響されています...
現代の社会は「情報化」という強力なツールを手に入れました。
「情報化」というツールは、物や人、出来事や観念、理念、信用...何でも情報として処理可能な形式に変換していきます。
そして、情報として処理することができれば、あらゆる物事を「数量化」し「算定可能」なものにすることができます。その威力は絶大です。結果として、世界中のあらゆるものに、値段をつけ、その「価値」を算定することができるようになりました。物だけではなく、頭の中にあるアイデアにも、値段をつけることができる。世界中のあらゆる地域の様々な労働も、文化を異にし、価値観を全く違えたさまざまな社会における労働も、「時給にしていくら...」という物差しで共通の場で論ずることができるようになりました。
地球全体は「情報」のネットワークの中に置かれ、その情報という物差しは、物であろうと人であろうと、アイデア(観念)であろうと才能や創造性、はたまた一人の人間の人生であろうと、その価値を算定することができるのです。つまり、「どれだけの経済的な効果を生み出すことができるか...」という物差しを使えば、何でも数量化でき、金銭の単位でその価値を算定できるのです。
金銭によって算定できる強みは、要するに金銭を使えば、何でも実現できる、ということなのです。お金さえ払えば、本来は金銭的な「対価」という思想には基づいていない「布施行」この場合は「法施」である「法事」まで、思いのままにできるのです。
真摯な僧侶達がいくら抵抗しようとも、そうした僧侶達自身ですら、この現実社会の中で生きているわけですから、一方においては金銭の論理の中で生きています。この「生活」という金銭の論理の側から浸食されるならば、最終的な結果は眼に見えています。

「出家」は「家を出る」から出家です。
ここで言う「家」とは娑婆世界であり、世間のことです。
もちろん、すでに言いましたとおり、生きている限りは誰もが社会の中で生きていく...それはすなわち、世間の中で生かして貰うということですから、世間から隔絶した、という意味での「出世間(しゅっせけん)」というのは成立しません。
「出家」というのは、そうではなく、「世間の法」「世間の論理」を柱として生きていくのではなく、「出世間の法」たとえば仏教徒ならば「仏法」を生き方の柱として生きていくということにほかなりません。世間の法、世間の論理を排除するのではなく、世間の論理に従ってこの身を生かしながら、自分自身は生き方の根本を出世間の法の上に置く、ということなのです。ですから、出家であっても、この身のある限り、世間の法の中で、世間の法とともに、世間の法に寄り添って生きていくのです。そうしながら、自分自身は出家沙門として、仏法を自分の信念の柱として生きていくように努めていくのです。それが、僧侶の僧侶としての修行の一生なのです。

さて、前書きが長くなりましたが、ここで、この記事の問題です...
全日本仏教会が激しい非難を浴びたのは、「世間の法」に対して「出世間の法」を対立軸として正面からぶつけてきたからです。

「出世間の法」は、僧侶が自らの信念として、自らの内面の問題として自分自身で引き受けるべき事柄です。だから一番の問題は、そうした、本来はまず第一に僧侶自身の決意と覚悟の問題であるはずのものを、僧侶自身の内面的な格闘と対峙抜きに、いきなり世間に向かって声高に振り回したところにあるのです。

有り体に言えば、こういうことになります...

僧侶だって生活はある...だから、出家とはいっても世俗の法の中にくるまれて生きていく...いや、生かして貰っている。しかし、自分は出家沙門という生き方を選んだのであるから、自分自身の内面に深く厳しく問いかけ、生き方の根本においては「仏法」を自分の信念の柱に置く...法事は、法施だ。自分は、法施をしっかりと行っているであろうか...自分の法事は、しっかりとした法施になっているであろうか...そうした自分は、世間法だけではなく、出世間の法をも自分の日常の信念としてしっかりと維持しているであろうか...その上で、アマゾンからの法事の依頼を考える...受けるべきか、受けないべきか...受けるならば、どう受けるべきか...

要するに、これはまず第一に僧侶自身がこの『お坊さん便』に対して態度を明確にするべきことなのです。それは一人一人の僧侶の信念と覚悟の問題です。
全日本仏教会は、僧侶自身の覚悟と信念の問題を棚上げにして、ただ形式的な「出世間の論理」を社会に向かって、つまりは世間に向かって叫んだのです。これは、そもそも筋がが違うことなのです。
本来のあり方は、僧侶に向かって、「世間の法」と「出世間の法」「との関わりをもう一度しっかりと我がこととして考えよ、その上でこうした社会の動向に対して真摯に向き合え、と要求するべきだったのです。

「出世間の法」を支えるのは、僧侶一人一人の覚悟と信念以外にはありません。「出世間の法」とは、僧侶一人一人が内面に於いて真摯に引き受けるところにしか存在しないのです。
ただ、出家したら、身分的に、あるいは職業上僧侶であったら、自動的にそうしたものを身に纏うことができるようなものではないですし、ましてやそうした論理を、世間に向かって振り回し、「守ってくれ」と要求するようなものではないのです...