歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




小仏峠を無事に越えて、相模最初の宿場町・小原宿へと入ります。
小原宿は規模は小さいながらも、小仏峠を控えた重要な宿場でした。
峠を越えたてきた旅人は、ホッとしてひと休みでもしたのでしょうか。また、これから峠へ向かう者は、宿場の東にそびえる峠を見上げて、気を引き締めたことでしょう。

天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」による小原宿の概略は次の通りです。

・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・問屋場…1ヶ所
・旅籠…7軒
・宿場の家数…61軒
・宿場の人口…275人

西に連なる与瀬宿と合宿で、小原宿からは与瀬宿を通り越し吉野宿まで継ぎ立て、与瀬宿は小原宿を越えて小仏宿まで継ぎ立てる、いわゆる片継ぎの宿場でした。
「与瀬村の内、小原村」と江戸時代の記録にあるように、西隣の与瀬宿とは「同じ村の内」的な扱いだったのでしょうか。距離的にも17町(1.9キロ)程でした。
最寄りの駅、JR相模湖駅辺りはまさに与瀬宿です。
残念ながら明治28(1895)年の大火で、宿場の家並みは灰燼に帰してしまったとのこと。それでもその後再建された家屋が、宿場町の雰囲気を今に伝えています。

【小原宿・底沢】


小仏峠を下った辺りは底沢という地名のようです。江戸時代の地誌、「新編相模国風土記稿」にも底澤の名が記録されているので、古い地名なのでしょうね。小仏峠から降りてくると、底沢というネーミングに思わず納得してしまいます。

【小原宿・底沢辺り】


まだしばらくは山間といった感じの道が続きます。

【JR小仏トンネル出口付近】


底沢を歩いていると、小仏トンネルを抜けてすぐのJRの線路を真下に見下ろすことができます。鉄道の開通は、それまでの峠越えから旅を一変させたんだろうなぁ…という思いに浸れるスポットです。この区間(八王子-上野原間)に鉄道が開通したのは明治34(1901)年のことです。

【小原宿・底沢付近の眺望】


写真の左側にはJRの線路、右上の高架は中央道。
徒歩→鉄道→自動車と、旅の形はどんどん変わっていきます。

【小原宿・美女谷】


中央道の下を潜ってしばらく歩くと、道が左右に分岐しています。
この一帯が
「昔から美女が多いことから、遂に地名にまでなった」
と記されている、美女谷です。
甲州街道は左へ。右に進むと明治時代に開かれた美女谷温泉です。

【美女谷と照手姫】


ここ美女谷は、歌舞伎や浄瑠璃で有名な(…私はよく知りませんが…)、照手姫の生まれた場所と伝わります。
絶世の美女と言われる照手姫は、小栗判官という武士と恋仲になりますが、いろいろあって判官は毒殺されます。判官は照手姫の必死の祈りが通じたのか、遊行上人によって蘇生し、ふたりは仲良く暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
こんな感じらしいです。

そう言えば東海道を歩いた時、藤沢宿かどこかで、この話にまつわるものを見かけたよね…なんて話にもなりました。

【美女谷橋】


美女谷橋を渡って甲州街道を進みます。
照手姫の他に、この地出身の美女と言えば紺屋高尾がいます。吉原で5代目高尾太夫を襲名した花魁で、江戸の紺屋に身請けされたため紺屋高尾と呼ばれます。のち、彼女が作る手ぬぐいは、江戸の遊び人たちの間で大流行した…ということです。

【馬頭観音】


中央道の高架下、側壁の上にあります。明治16(1883)年に建立されました。うっかりしていると見落としてしまいそうです。

【小原宿・板橋の碑】


馬頭観音に向かって左側に建っている碑。
江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」の小原宿の稿に、宿内の橋の記述として、長さ7間、幅2間の板橋が紹介されています。東の千木良(ちぎら)村との境の渓流に架かっていたとありますので、この板橋の碑は、その橋(の跡)を示したものなのでしょうか?

【小原の一里塚跡】


日本橋から15番目の一里塚です。この辺りの甲州街道は、中央道の開通により随分と破壊され消滅していて、一里塚も今は痕跡などは残っていないとのことです。

【底沢橋】


底沢橋に出ます。ここで駒木野宿の入口で分かれた国道20号線と合流します。
左へ行けば、江戸時代の千良木村。小原宿へは右折して西へ進みます。

【底沢橋から西へ】


底沢橋から西へ向かいます。まだ山間といった景色が続きます。相模湖はすぐそこのようです。

【小原宿中心付近】


山間の景色が一変して、突然、周囲が開けて町に出たような感じを受けるのがこの辺り。底沢橋から5、6分のところです。いよいよ、小原宿の中心に入るようです。


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標高548メートルの小仏峠頂上で昼食をとった私たち。パワーも回復したところで、泥濘に足を取られながらも、小原宿へ向けて再び歩き出します。
峠道を下る前に、頂上での観光スポットをもう幾つかご紹介。

【明治天皇小仏峠御小休所趾及御野立所碑】


明治天皇が小仏峠を越えたのは、明治13(1880)年6月17日のこと。小仏宿から板輿で頂上に到着したのが9時45分。小休止の後、出発したのが10時15分。僅か30分足らずの休息だったそうです。
板輿で峠越えか…ちょっと怖い気がしますが…。

【三条実美の歌碑】


明治時代前期に活躍した太政大臣・三条実美が、高尾山の薬王院で詠んだとされる歌の碑。明治天皇の碑の左側に建っています。

「来てみれば こかひはた織いとまなし 
甲斐のたび路の 野のべやまのべ」

八王子の養蚕業の繁栄ぶりを詠んだ歌のようです。

【高尾山道標】


寛政7(1795)年建立の道標。

【昔は国境、今は県境】


峠の頂上は江戸時代には武蔵の国と相模の国の国境でした。
今は東京都と神奈川県の県境。これから神奈川県相模原市へと入ります(もう入りました、かな)。標識にも相模原市と記されています。

それでは、峠の後半戦、下り坂へと向かいましょう。

【小仏峠・下り坂1】


道の途中、こういった案内が随所に出ています。

【小仏峠・下り坂2】


下り坂なので、ついついスピードが出てしまいがちですが、枯葉や石が濡れていて滑りやすいので、慎重に進んでいきます。

【小仏峠・下り坂3】


切通しのような、土の壁の間を下っていくような感じです。足元も木の根や石などでつまずきやすいので要注意です。

【中峠の茶屋跡辺り】


しばらく進むと、道の両端が野原のように開けた場所に出ます。大きな鉄塔が建っているこの辺りに、かつて中峠茶屋があったとのこと。とくに痕跡は見当たりませんでした。この茶屋がいつのものなのか、調べてみましたがはっきりしません。この道が街道として機能していた江戸から明治時代前半くらいでしょうか?
私たちも、ちょっとここで小休止です。

【小仏峠・下り坂4】


再び坂を下り始めます。
ところで、小仏宿方面から登るのと、小原宿方面から登るのと、どちらがよりきつかったのでしょうか?
事前に、あるネットの記事を読んでみたら、小原宿から登る方が楽、ということが書いてありましたが、どちらかというと小原宿からの方が辛いんじゃない?というのが旅の仲間の一致した見解でした。
もちろん、じゃあ、反対側から登って確かめてみようか?などと言い出す、元気のある輩はいませんでしたが…。

【小仏峠・下り坂5】


そのうちに、道路を走る車の音が聞こえてくるようになります。谷間に反響しているような感じです。
麓も近し!と、元気になってきます。

【小仏峠を越えました】


ついに麓に到着しました。
頂上を出発してから約40分でした。
登りも下りも、もっと時間がかかるかと思っていたので、ちょっと予想外でした。

【小原宿を目指します】


無事、難所の小仏峠を越えました。
時間的には大したことなかったのですが、足元の悪さには要注意です。とくに石ころと濡れた枯葉。山道に慣れている人にとっては何でもないのでしょうけれど…。
勾配は小原宿から登る方がきついと感じました。実際はどうなのでしょうか?
小仏峠と箱根八里、やはり天下の険と言われるだけあって、箱根の方がスケールが大きいですね。規模が全然違うといったらそれまでですが…。
では、小仏峠は楽勝だったのか?というと、けしてそんなことはありません。きっと明日は足がパンパンに張って、筋肉痛に苦しむんだろうなぁ…というのは、この段階で火を見るよりも明らかなのでした。


ま、何はともあれ無事に峠を越えて、あとはゆっくりと小原宿を目指します。案内標識のガイド通り、相模湖駅方面へと向かいます。


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「小仏宿より峠の上までは凡そ17町ほどもあるべし。絶頂に民家4、5軒あり、この所はすなわち武相の堺なり」
「昇降2里。絶頂は往来を挟みて国境なり。ここに茶店2、3軒あり。古えより名産と号して、赤飯を製す。行旅の貴賤かならず憩ふ」

【小仏峠登り口・一里塚跡】


いよいよ小仏峠に挑みます。
頂上まで約1.8キロ、峠を下るまでだと4キロの行程ということでしょうか。
以前、旅の仲間で東海道を歩いた際に、天下の険・箱根を越えた経験があるとはいえ、やはり普段の運動不足が否めない我々、身も心も引き締めてかかります。

駐車場から登っていきますが、この辺りに、日本橋から14番目の小仏の一里塚があったと言われています。今は痕跡などありません。

【水準点標石】


登り始めてすぐのところにあります。
水準点とは、測量されたその土地の標高のことで、その地点に標石を置いたようです。地図製作の基準点として使われたのでしょうね。

【水準点の案内板】


帰ってからネットで調べたところ、ここの水準点は明治20(1887)年頃、甲州街道の道筋が変更になった際に廃止された…とあります。

【小仏峠・登り道1】


冷たい湧き水。コップも備えられているので、さあ、飲んでください…ということですね。夏場は一服の涼、とても美味しく感じることかと。ただし、この日は冷たい水で喉を潤すという雰囲気ではありませんでした。

【小仏峠・登り道2】


雪は残っているものの、歩くにはとくに障害とはなりませんでした。そうは言っても、道に積もった枯葉が濡れていて滑るのと、案外、石ころが多くて歩きにくかったです。

【小仏峠・登り道3】


ずいぶん古い時代に舗装した部分でしょうか。でも基本はやはり舗装なしの山道です。

【小仏峠・登り道4】


昔の峠道はこんな感じだったのかな?と想像させるような山道。草木が覆いかぶさってくる中、頂上を目指します。

【小仏峠・頂上1】


駒木野宿・荒井のバス停から2時間15分、峠下の駐車場から山道を登ること30分。
突然左手に視界が開けました。小仏峠頂上に到着です!
もっと時間がかかったのかと思いましたが、駐車場から30分だったのですね。
結構、必死に歩きました。アレ?膝ガ、ワラッテイルゾ…。

【小仏峠・頂上2】


頂上では、陣馬山や城山へ向かう、あるいはそこから来たハイカーたちがひと休みしていました。私たちと逆方面(小原宿方面)から登ってきた人たちもいるようでした。
それにしても…頂上の泥濘はすごい。くるぶしまでズブッとはまってしまうような、そんな感じです。泥田の中を歩くようです。

【小仏峠・頂上3】


古い石仏。

小仏の地名の由来にはいくつか説があるようです。
1.峠に石地蔵があったから
2.奈良時代の僧・行基が寺を建て、小さな仏を安置したから
3.付近で小さな大日如来像が出現し、これを祀ったから

このお地蔵様は、地名の由来になったお地蔵様ではないでしょうが、こんな感じだったのかなぁ…と想像してみるのもいいのでは。

【小仏峠・頂上4】


さて、ここでお昼です。
名物の赤飯を出してくれる茶店も今はなし。
そんなわけで、旅の仲間Mさんがおもむろにリュックから取り出したのは、アウトドア用の簡易コンロ。そしてWさんが高尾駅前のコンビニから担いできた水(2L)を沸かします。これでおにぎりとカップラーメンのランチセットの出来上がり。
こういう場所で食べるおにぎりとカップラーメン、格別ですね~。在りし日の赤飯にも負けず劣らずです。
ランチ後にはコーヒーまで付いて、寒かったこの日、とても嬉しかったのでした。
昔の旅人も、ここで眼下の景色を楽しみながら、名物の赤飯とお茶で一息入れたのでしょう。峠道は今よりもずっと条件が悪かったでしょうし、しかも草鞋。昔の旅人が、ここで一服するときの安堵の表情が目に浮かぶようです。

さ、エネルギーが充填されたところで、再び歩き始めましょう。今度は頂上から小原宿を目指して下り坂です。
実は、下り坂のほうがきついのでは?と、密かに私は心配していたのですが、さて、どんなものだったのかはあらためて。


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駒木野宿を出て、西に連なる小仏宿に入ります。

「甲州道中宿村大概帳」によると、天保14(1843)年の小仏宿は、

・本陣…なし
・脇本陣…なし
・問屋場…1ヶ所
・旅籠…11軒
・宿内の家数…58軒
・宿内の人口…252人

データだけ見ると小さな宿場ですが、西に小仏峠があり、旅人はここで休憩をとることが多かったたため、幕末から明治にかけては茶店が出るなど、結構な賑わいだったといいます。
駒木野宿と合宿で、毎月1日から15日まで小仏宿が宿駅業務を勤めました。
旅籠は比較的大きな農家が兼業していたようです。
宿から峠の頂上までは、約17町(約1.8キロ)程と、「新編武蔵風土記稿」には記されています。

【小仏宿・東の入口辺り】


JRの赤レンガのガード下を潜ると小仏宿に入る、とガイドブックにあります。宿の中心はもう少し西へ歩いたところのようですが、ま、とりあえずは小仏宿に入ったとしましょう。

【小仏宿・JRと並行する甲州街道】


JR中央本線を左手に見ながら進みます。結構間近なところを電車が走り抜けていきます。

【小仏宿・街道沿いの自然】


「副業として炭を焼き、薪をとり、鳥や獣を獲って暮らしている」(「新編武蔵風土記稿」)
この地に豊かな水田はやはり無理そうです。今、私たちは自然に癒される~なんて呑気なことを思ってしまいますが、当時の生活は厳しいものだったに違いありません。

【三度屋跡】


小仏宿の中心地に到着です。
この辺りに旅籠「三度屋」があったといいます。
三度屋は三度飛脚(江戸と甲府を月に3度往復した町飛脚)の定宿だったそうです。
高札場が東側にあったといいます。
写真だと奥の方(西)、旅籠屋「鈴木藤右衛門」は名主を勤め、明治天皇が甲州街道を行幸された際には小休止をされたとこと。ガイドブックによると、その記念碑があるはずですが見つけられませんでした。残念。
宿場の西側に問屋場があったそうです。
すべて、この辺りに集中していたのでしょうね。
それにしても、宿場の痕跡を残すものは何もありませんでした。

【小仏バス停】


高尾駅方面からのバスはここが終点。折り返していきます。
バス停の横に公衆トイレがありますが(普通レベル(?)にきれいです)、ここを過ぎると小原宿にたどり着くまでトイレはありません。結構、重要なポイントですのでお忘れなく!

【浅川神社】


街道左側にある小さな神社です。
ガイドブックによると、境内の湧き水が、八王子市民とは切っても切れない縁の浅川の源流とのこと。八王子市民の私としては、それは確認せねば!と探してみたのですが、結局わかりませんでした。これまた残念。

【宝珠寺】


浅川神社のお隣は宝珠寺。
開山は奈良時代の行基上人と伝わる臨済宗の古いお寺です。山号は小仏山。
このお寺、見どころがたくさんありますので、ちょっと寄り道を。

【宝珠寺・馬頭観音】


参道前にある馬頭観音。弘化4(1847)年の建立です。

【宝珠寺・カゴノキ】


参道を登っていくと左手にあります。
東京都の天然記念物に指定されている大樹で、樹皮がはがれて鹿の背のように斑模様に見えることから「鹿子(かこ)の木」と呼ばれます。カゴノキは鹿子の木が訛って発音されたものだとか。高さは23メートル、確かに見上げるような大木でした。

【宝珠寺・常夜燈】


本堂から奥の方へ進むと、三度飛脚たちが奉納した常夜燈が残っています。文久2(1862)年のものです。
ここ宝珠寺は三度飛脚の定宿である旅籠、三度屋の青木氏の菩提寺とのこと。その縁での奉納です。

【小仏峠を目指しての道中1】


宝珠寺をあとにして、いよいよ小仏峠へと向かいます。
この辺り、登山客もちらほらといますが、甲州街道を進んで小仏峠を越えて行くのか、それとも高尾山の他の観光スポットを目指すのか、どちらでしょうか?

【小仏峠を目指しての道中2】


景信山への分岐点。
その昔、山頂に小仏関が置かれていた時代(戦国時代でしょうか)、そこを守備した横地景信という武将の名をとって景信山と呼んだとか。
景信山は、このあたりの最高峰(727メートル)です。

【小仏峠を目指しての道中3】


下方に、登ってきた道が見えます。峠道といった雰囲気になってきました。

【小仏峠を目指しての道中4】


そして到着。
ここが小仏峠?いえいえ、違います。ここから先が本当の意味での峠越えの道です。
駐車場になっていますが、ここまでが舗装道路で、ここから先がいよいよ本格的な山道。

小仏宿を出て、いざ、小仏峠へ!


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11月26日。
東京で11月としては観測史上初の積雪を記録した日から2日後。
いざ、往かん!駒木野宿から難所小仏峠を越えて小原宿へ!!

そんなわけで、峠道のコンディションは大丈夫だろうか?と不安を抱えながら、今年最後の甲州街道歩く旅の開催となりました。

9時に高尾駅に集合。旅の仲間はいつもの4人です。
昼食・飲み物を調達して(途中、コンビニなんてありません)、タクシーで前回の終着地点、駒木野宿へと向かいます。タクシーでも1000円程度だったので、旅の仲間4人で割れば、バスに乗ったのと、そう運賃に違いはありませんでした。

【荒井バス停】


スタート地点は前回の続き、駒木野宿内、荒井のバス停。10時ちょうどでした。
荒井は江戸時代には新井と表記され、家屋26軒の集落だったと記録されています。

【荒井の石仏石塔】


荒井のバス停前。
左から庚申の塔、お地蔵様、戦没者供養塔。庚申の塔は宝永3(1706)年の建立とのこと。真ん中のお地蔵様も古い時代に建てられた感じでした。

【駒木野の一里塚辺り】


荒井バス停付近に江戸から13番目の一里塚があったらしいです。
この辺りから西側が上宿になるようですが、なんの案内も痕跡も見当たらないので、ガイドブックなどから推測するばかり…。

【蛇滝旅籠】


蛇滝茶屋とか蛇滝小屋とか、あるいは蛇滝の行者宿とか、ガイドブックや資料によって呼び名がいろいろ。
江戸後期には「ふじや新兵衛」という旅籠で、蛇滝信仰の講中の定宿だったとのこと。今でも建物を管理されている方がいて、時折、板戸を開けて風を通しているようです。
蛇滝は、高尾山中に江戸時代に整備された滝行の道場で、命を助けられた白蛇の化身という伝説が残っています。

【蛇滝旅籠の講札(はね札)】


軒下に掛かっている講札。75枚あるそうです。

【蛇滝への道標】


蛇滝旅籠の傍らに建てられた道標。
読み取りにくいのですが、
「上行講 是より蛇滝まで八丁」
と、刻まれているそうです。

【圏央道】


蛇滝旅籠をあとにして歩き出すと、ほどなく頭上を圏央道が横切ります。なんだか不思議な眺めでした。

【甲州街道と高尾山道の分岐点】


左折すると、高尾山、蛇滝へと向かいます。
甲州街道は、そのまま直進していきます。だいぶ山奥に来たなぁ…という感じがします。

【高尾山への道標】


高尾山への分岐点に建っています(上の写真の左端)。
建立されたのは享和3(1803)年。
「是より高尾山道」
と、刻まれています。

【甲州街道と中央道】


道端に前々日の雪が残っていたものの、道路状態は普通でした。最悪、積雪の中を進むのか…なんて覚悟していたので。
前方には中央道が見えます。下から見上げると、随分と高いところを車は走っているんですね。

【高尾の幸】


道端の畑では、柿や柚子、大根、サトイモ、梅干し(!)などなど、山の幸を売っていました。100円だって。安いですよね~。私は買いませんでしたが、旅の仲間は家族へのお土産に、とのことでした。

【摺指辺り】


摺指と書いて「するさし」と読みます。もちろん、私は読めませんでしたとも。「○指」という地名は、昔、焼畑を行っていた地域にみられるそうです。江戸後期、32軒の家があったと記録されています。
この辺りが駒木野宿と小仏宿の境界…という記事もありましたが、よくわかりません…。

【常林寺】


曹洞宗のお寺です。
ガイドブックによると、南朝側の小山氏の子孫、峰尾氏が開いたお寺とのこと。
この辺り、峰尾さんという苗字が多いそうです。江戸後期の記録によると、この地の民家32軒はすべて峰尾姓である…だって。

【小山神社】


常林寺のすぐそば、街道からちょっとだけ中央道寄りに入ったところにあります。
室町時代、下野国の小山氏が足利氏に討伐された際、一族の者がこの地に落ち延びて建てた神社で、当初は峰尾明神と称したとのこと。江戸時代の記録には小山明神と記されています。
この小山神社といい、常林寺といい、峰尾姓といい、平家の落人伝説のように、この辺り一帯は小山一族・峰尾氏の隠れ里のような感じだったのでしょうか。

【木下沢橋】


木下沢と書いて「こげさわ」と読みます。
江戸時代の地誌「武蔵名所図会」に、木下沢川と小仏川がこの橋の下で合流して流れていく…と記されています。また、この辺りで川を渡って奥に入っていくと、昔、鉱石を採掘していた古い穴があったとも記されていますが、この書物が書かれた当時、すでに廃坑となっていたそうです。
「何百年前に朽ちたのか、知る人はいない」(「武蔵名勝図会」)

【木下沢橋辺りの甲州街道】


さらに山奥めいてきました。
気温もあがらず、指先が冷たかったです(耐えられないほどではありませんでしたが)。
川からは湯気(川霧かな?)がたつほどでした。

【小仏宿入り口】


ガイドブックによると、このJRの赤レンガを潜ると小仏宿とのこと。案内板くらいあってもいいのにね。
それにしても、この赤レンガも古そうですね。中央線開通時のものでしょうか。

ということで、駒木野宿はなんとなく終わってしまって、武蔵国最後の宿場、小仏宿に入ります。


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