『罪の壁』 ウィンストン・グレアム著 三角和代・訳 新潮文庫 2023年(原著は1955年刊)
とても面白い読書でした。
今年新刊の ミステリー要素の強い小説なので、謎解きにふれる感想は避けたいと思いますが、 この小説は犯人を追い詰めるというサスペンスのほかに、 いろいろと考え、楽しめる、奥深い読み方ができる小説でした。
感想を書くために必要な人物のあらましだけ書きますと…
主人公フィリップのもとに兄死亡の報せがとどく。 原子力の科学者から考古学者に転身した知性も人格も優れた兄のことを、フィリップはずっと尊敬して生きてきた。 その兄の死…
兄は考古学の調査のためインドネシアに赴いていた。 その地で、海難事故で船を失い一文無しになった男に出会う。 学者ではないが広範な知識と知性をもつその男と意気投合した兄は、彼を助手として雇い発掘調査をつづける。 そして二人で帰国の途上、オランダの運河で兄は死体となって発見された。 同行したはずの男は行方しれず。 警察は兄の死因は自殺だと言う。 そして、兄のポケットには女からと思われる手紙が入っていた…
フィリップは兄が自殺したという説明を納得できなかった。 常に最善と理想を追求した兄。。 たとえどんな災難、どんな困難に巻き込まれようとも、兄は自分で命を絶つようなことはしないはず…
自殺か、他殺か、事故か。。
こうしてフィリップによる真相解明の旅がはじまるのですが…
最初に「いろいろと考え、楽しめる」と書いた理由は、、 兄の死の謎をさぐるミステリー小説のスリルとともに、 恋愛小説の揺れ動く心理描写があり、 それから小説の舞台がオランダからイタリアへ、風光明媚なカプリ島やアマルフィ、青の洞窟といった視覚面でも想像力を刺激され、、 さらにはその地でフィリップが出会う有閑知識人たちのあいだで繰り広げられる哲学的会話に頭をひねったり、 考え込んだり。。
やがて物語の核心は、 善と悪、、 罪を犯すことと罪を自覚することのモラルの問題、、 友情と裏切り、、 そういった人間のこころの問題に至ります。。
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読み進むうちに、、 そして読み終わって、、(内容はぜんぜん違いますが…) 夏目漱石の『こころ』を思い出してしまいました。
(これから書くことは『罪の壁』とは関係がないけれども、 まったく関係がないわけでもないと思うのでご了承を…)
『こころ』ではふたつの〈死〉があります。 ひとつは学生時代のKの死。 もうひとつはこれから死ぬと予告される先生の死。
先生は、過去にKを裏切った罪をずっと感じていて、そのことを〈私〉に告白して自死を予告するわけですが、、 もちろん友を裏切った先生は罪深いです。。 では裏切られたKはなぜ死んだのだろう、、 友を想って身を引いた? それとも弱さ? 絶望? あるいは 復讐…?
Kはなぜ襖一枚へだてた先生の隣の部屋で死んだのか。。 それだけ切羽詰まっていたという事かもしれないけれども、 Kは自分の死を先生にかならず知って欲しかったはず、 その意図は? その意味は?
一方の先生もまた、〈私〉に遺書を残す。 罪の意識に苛まれ、 罪ほろぼしの死ならば、なぜもっと前に独りで死ななかったのか。 〈私〉と出会っていなければ先生は死ねなかった? 先生を慕い尊敬する〈私〉へ、死という永久の刻印をのこすというそのことは、新たな裏切り、新たな罪ではないの…?
誰かの命を奪うという明らかな罪、
みずから生命を絶つという これもまた罪、
贖罪という死で誰かのこころに永遠の傷痕を刻みつけるという それも罪か?
おそらく、 読む人によってさまざまな読み取り方をするだろうと思います。 その読み取り方にも その人のこころの有り様、 善悪の捉え方や 理想や価値観の違い、、 そういったものが反映されるはず…
、、 漱石の『こころ』を思い浮かべたのは、 (ストーリーは全く違うけれども)その読後感とおなじようにいろいろな読み取り方がウィンストン・グレアムの『罪の壁』にも出来ると思ったからです。
罪とはなにか…
友に対して 真に善であるということはどういうことか…
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少し堅苦しい書き方になってしまいましたが、 映画のように面白い小説です。 「太陽がいっぱい」みたいに きらきらした海と美しい人々のようすも楽しめますし。。 50年代有閑知識人の、ハイレベルだけど腹の探り合いみたいな会話も読みどころ…
大型犬をはべらせていた 老マダムが魅力的だったなぁ…