「一言芳談抄」という仏教系の説話集があるそうです。うちにはたまたまありますが、例によって私は読んでなくて、新古本となっています。なにしろウチに来て30何年経っているんですから、十分古本ですね。
実は、中学の頃、小林秀雄さんの「無常といふこと」を読み、わけがわからなくて、文春文庫も買ったのに、わからなくて、そのままになってしまったんですね。いやはや……。
或るひと云(いわ)く、比叡(ひえ)の御社(みやしろ)に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師(じゅうぜんじ)の御前(ごぜん)にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、
とてもかくとも候(そうろう)、なうなう(のうのう)とうたひけり。
その心を人にしひ問はれて云(いわ)く、生死(しょうじ)無常(むじょう)の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候(そうろう)。なう後世(ごせ)をたすけたまへと申すなり、云々(うんぬん)。
とてもかくとも候(そうろう)、なうなう(のうのう)とうたひけり。
その心を人にしひ問はれて云(いわ)く、生死(しょうじ)無常(むじょう)の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候(そうろう)。なう後世(ごせ)をたすけたまへと申すなり、云々(うんぬん)。
比叡の御社とは、比叡山王権現で、比叡山の麓に共存共栄の神社がありました。そこにいつわって巫女(みこ)のふりをした若い女房がいたそうです。
十禅師という神社があって、そこの社殿の中で、彼女は突然に歌い出すのです。
夜がすっかり更けて、人々は寝静まっています。ポンポン、トー、ポンポン、鼓をこぎみよく打ちすえています。そしてキレイな声で歌います。
「どうでもこうでも、そんなことはいいのです、ねえねえ神様、聞いていただけますか」
何度も何度も彼女は繰り返します。その声は比叡の森に響き渡ります。まるで女狐が人をたぶらかしているのではないか、そんな感じの歌声です。でも、本人は、人がなんと聞こうとおかまいなしで、とにかく歌わずにはいられなかった。
翌朝になって、人からどうして昨日というか、今朝というか、あんなに夜に歌い続けたんですかと、彼女は尋ねられます。
「生死は無常ということを思いますと、この世のことは、どうでもこうでもいいのですよ。ですから、どうぞあの世のことは、どうぞ神様よろしくお願いします。お助けてくださいね! そういうふうに申しあげていたのです。」と、彼女は答えたそうです。
この文章が、突然、小林秀雄さんの頭の中によみがえってきた。まるでそれが自分のこと、彼女の歌が聞こえる、そんな気がした。というようなことが書かれていたんじゃなかったかなあ。
私も、十分日々は無常です。何もできていないのに、どんどん月日だけは過ぎていくし、無為の日々に自分で悶々としている。無常貧乏だったりする。
そうさ、オイラは無常だ。流されるまま、何もできない、トッチャンボーヤだ!(だれもそんなことは思わないでしょうけど、単なる自覚です)
だけど、それでもこの毎日を、疲れないように、穏やかに生きていきたいのに、何だか疲れてしまう。パッとしないのです。やたら眠い。
眠いのなら、眠いだけ寝てみろ! 勉強したいなら、したいだけ勉強まみれになってみろ! 遊びたいなら、思い切り遊べ! とにかくとことん何でもやってみろ!
中世のえらいお坊さんが言っておられましたっけ! 悲しむことはない。みんな平等に無常なのだから、その無常を楽しめばいいのです。
口で言うのはカンタンだけど、それがムズカシイ。つい中途半端になってしまうんですね。
明日から、せいぜいトコトンを追求してみます。気分はトコトン! やれるだけ頑張ろう。
★ とてもかくてもそうろう! 思い切り歌いたいのに、歌えないのはどうしてなんだろう。それも自分の在り方だと自覚して、中途半端も自分と受け入れて、あれこれまわりと調整して、そんな自分なりに納得しながらやっていくことにします。
とりあえず、体を鍛えなくては!(2018.6.23記)