くるゝ迄見るとも。あくよあるまじうこそ。また雲ゐ桜といふもあり。後醍醐のみかどの。この花を御覧(ごらん)じて。
新葉集「こゝにても雲ゐのさくら咲にけり。たゞかりそめの宿とおもふに。
とよませ給ひしも。
世々をへてむかひの山の花の名にのこるくもゐのあとはふりにき。
新葉集「こゝにても雲ゐのさくら咲にけり。たゞかりそめの宿とおもふに。
とよませ給ひしも。
世々をへてむかひの山の花の名にのこるくもゐのあとはふりにき。
ずっと夜まで見続けたとしても、飽きる時はないほどの様子です。このモコモコした様子を「雲がのんびりしているようなサクラ(雲ゐ桜)」と呼ぶこともあるそうです。
後醍醐天皇さまが、この吉野の桜をご覧になって、新葉集にある歌で、
この吉野の里でも雲ゐ桜が咲いている。都では私たちが天の上にいたのかもしれないのだが、今はこんな山里に住み、こちらのサクラを見ることになった。ほんの一時だけいるつもりでいたのだけれど、これから私たちはどのようなサクラを見ることなのか。
と歌を詠まれています。それでは私も、
何年も昔に都の人々が山々を見て、雲がのんびりしているようなサクラだとしみじみされたというサクラがあって、それを私たちは見させてもらっているのだけれど、今となっては昔の出来事でもあり、名前と歴史だけが残り、時間の経過を思わないではいられないのです。
という歌を詠んでみました。
さてざわうだうにまうづ。御(み)とばりかゝげさせて見奉れば。いともいとも大きなる御像(みかた)の。いかれるみかほして。かた御足(みあし)さゝげて。いみしうおそろしきさまして立ち給へる。三(み)はしらおはする。たゞ同じ御(おおん)やうにて。けぢめ見え給はず。
さて、蔵王堂にお参りしました。とばりを上げてもらってお堂の中の像を見させていただきました。
そうすると、とても大きな神様がおられて、怒った顔をされています。片方の足をうんと高く蹴り上げたままの姿勢で、とても恐ろしい様子で立っておられます。三つの像が並んでいて、みな同じようなお顔とご様子で、見分けがつかないのでした。
堂はみなみむきにて。たても横も十丈あまりありとぞ。作りざまいとふるく見ゆ。まへに桜を四隅(よすみ)にうゑたる所あり。四本桜といふとかや。
そのかたつかたに。くろがねのいと大きなる物の。鍋などいふもののさまして。かけそこなはれたるが。うちおかれたるを。何ぞととへば。むかし塔の九輪(くりん)のやけ落ちたるが。かくて残れるなりといふ。口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど。おしはかられぬ。
そのかたつかたに。くろがねのいと大きなる物の。鍋などいふもののさまして。かけそこなはれたるが。うちおかれたるを。何ぞととへば。むかし塔の九輪(くりん)のやけ落ちたるが。かくて残れるなりといふ。口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど。おしはかられぬ。
お堂は南向きに建てられていて、縦も横も三十メートルほどはありそうです。作られた感じはとても古くて見えます。お堂の前に桜を四隅に植えたところがあった四本桜というようでした。
そのすみっこに、鉄でできた大きなお鍋のようなものが重ねておかれてありました。これは何ですかと訊ねてみますと、昔こちらにあった塔が焼け落ちて、そのてっぺんの九輪が残っているのだということでした。かなり大きな九輪で、その塔がどれほどの大きさであったのかがしのばれる大きなものでした。
★ 東大寺の大仏殿の東側にもそのてっぺんにあったとされる九輪の復元物があります。昔、東大寺には東西に二つの七重の塔があったというお話ですが、それが無くなって久しいし、復元しようという話もないし、せめて九輪だけでもということで飾られてたのかな。
東大寺の九輪(相輪)は、1970大阪万博の古河ハビリオン(七重の塔)のてっぺんにあったものを移設したものだそうです。確かに、そういう話を聞いたことがありました。忘れてたけど、そうでしたね。
堂のかたはらより西へ。石のはし(階)をすこしくだれば。すなはち実城寺(じつじょうじ)なり。本尊のひだりのかたに後醍醐の天皇(みかど)。右に後村上の院の。御ゐはいと申す物たゝせ給へり。
この寺も。前のかぎり蔵王堂のかたにつゞきて。後ろも左も右も。みなややくだれる谷なり。されどかのよし水院よりは。やゝ程ひろし。
この寺も。前のかぎり蔵王堂のかたにつゞきて。後ろも左も右も。みなややくだれる谷なり。されどかのよし水院よりは。やゝ程ひろし。
蔵王堂の西側に階段を下りてみますと、実城寺という塔頭になるようです。その本堂の左の方には後醍醐天皇さまの、右には後村上上皇さまの、ご位牌と言われるものがありました。
このお寺も、蔵王堂につながる正面はよいのですが、このお寺の後ろも左右も深い谷になっています。こうした山のてっぺんを利用した建物ですので、手狭なところではあったでしょう。都と同じようにはいきません。けれども、先ほど見た吉水院よりは広いかもしれません。
この所は。かりそめながら。五十年あまりの春秋をへて。三代(みよ)の帝(みかど)【後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇】のすませ給ひし。
御行宮(おおんかりみや)の跡なりと申すは。いかゞあらん。ことたがへるやうなれど。をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし。今は堂も何も。つくりあらためて。そのかみのなごりならねど。なほめでたく。こゝろにくきさま。こと所には似ず。このてらを出でて。もとの道にかへり。
御行宮(おおんかりみや)の跡なりと申すは。いかゞあらん。ことたがへるやうなれど。をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし。今は堂も何も。つくりあらためて。そのかみのなごりならねど。なほめでたく。こゝろにくきさま。こと所には似ず。このてらを出でて。もとの道にかへり。
こうしたお寺は、かりそめのものとして(すぐに都に凱旋する)いたものの、五十年の歳月が経過し、三代の天皇様、すなわち後醍醐・後村上・後亀山天皇が住まわれたところです。
一時だけの御所というのは、本当なのか、もっと別の御所があったような気もするくらい、頼りない建物です。とはいうものの、ここらあたりを生活の場所とされたのは確かのようです。今はお堂やら、建物も作り替えられたりして、当時のままというのではないようです。
それでも、三代の都であり、御所でもあったのだと思うと、ただの場所ではないような気がしてまいります。そうした思いを抱いて、お寺をあとにして宿に戻ることにしました。