「蝶がムカデに惚れ 何で惚れたと問うたなら おアシが多いのに惚れました」……これは、浪曲なんだそうです。
そうなのかぁ。都都逸かと思ったけれど、そうではないんだな。そもそも酔っぱらったら、調子のいいことを口にする人って、いたんですね。何だかのどかでいいなあ。それが昭和の初めのことだったなんて、ついこの間のことです。百年は経ってませんよ。でも、遠い遠い昔の感じがします。
石灰爺さん(いしばいじさん)と呼ばれる人がいたそうです。どこにいたかって?
この切通し、和歌山街道の珍布峠(めずらしとうげ)のすぐ近くに小屋を建てて住んでいたそうです。
とはいっても、いろんな人も通るし、世間体もあるし、少し外れたところにでもいたのかな。
山から水は流れて来るし、山はみんなの所有だろうし、あとは食べ物さえあれば、生活はできたでしょう。勝手に住み付いてもらうのは面倒でもあり、迷惑なことでもあったでしょう。でも、昔はそういう人たちがたくさんいたようです。
このおじいさんは、山から石を取ってきて、焼いたか、砕いたかして、石灰という売り物にしたんだそうです。それなりに技能が必要だったのかもしれません。石を見る力とか、製法とか、特別な技術があったんでしょうね。
おじいさんは、町まで30分足らずで行ける峠近くに住み、石灰を作り、それで食べ物を手に入れていた。石灰は何に使うのか? 工業的なものではないし、何に使うのかと思ったら、それは農業用で、肥料・土地改良に役立てたのかもしれません。石灰を必要とする農業の形態があったんですね。
この切通しの道、これを作る時、コツコツ砕いて、どうにか道にしたと思うんですけど、どうしてそんなしんどいことをしたのか、今となっては分かりません。
この石は何という石なんでしょう。すぐに分からないのが私の辛いところだけど、近くでは石灰石も取れたらしいのです。何しろ、中央構造線の上ですから、いろんな地層がむき出しになっているし、おじいさんはそういうところを見つけた。
でも、それがなくなったら、新たに石灰石が取れるところを求めて新天地を探さねばならなかったでしょう。小屋はそのままにして、必要最小限のものを携え、街道を西へ行ったか、東へ行ったかしたのかな。住所不定の特殊技能者だったんですね。
それは昭和の初めの出来事だそうで、地元の人たちは峠のところにそんな人が住んでいたというのを言い伝えとして受け継いできたようです。
確かに、たったの30分の道のりの中で、馬に水を飲ませたところ、行き倒れがいたというところ、義経と静御前が道行きしたところと、いくつかたて看がありました。それらを地域の歴史として残そうという地元の心意気を感じることができました。
中世ではなくて、つい百年足らずの昔にも、地元では語り草のおじいさんがいた。そうした旅人は、地域に落ち着くことなく、またどこかへ旅立っていったようです。昔の日本はそうした旅する人々を抱える社会でもあったんですね。
今は住むところを持たない人々を「ホームレス」と差別的に見てしまうところがあるけれど、昔はそれも社会の一つの面として受け入れているところがあったのかなあ。いや、区別的なところはあったでしょうか。
地元の人たちとしては、不思議なおじいさんがいて、のんきに生きてるように見えたけれど、中世から近代まで、一つ所に住み続けずに、あちらこちらを移動する人たちを目にしていた。
酔ったらつまらない歌をみんなに聞かせたというけれど、つまらないなりに昔の人々の息吹が感じられて、少しだけそういうのに憧れてしまいます。
とはいえ、ひとりで山の中に暮らし、すべてを自分で賄わねばならず、生活手段がなくなれば、新しいところ、たぶん、山間の人が住まないようなところで、自分の特殊技能を生かして生活する、それは大変なことでした。そして、それはやがて自分自身が行き倒れることを予想しての生き方でした。
自分が死んでしまったら、あとはどうにもならないわけだから、財産も要らないし、何も持たなくていいのだけれど、お葬式も必要ないのだけれど、でも、それは少し覚悟の要ることでした。
サンカという人たちがいた。というのは昔聞いたことがありましたけど、実際にそういう人たちがいて、見たことがあるという人の話は聞いたことがありません。私が気づいたころには、そういう人々はいなくなっていました。
寒い冬、凍えそうな峠、ひとり暮らしの旅するお爺さんは、何を思っていたんでしょう。とにかく、どんな風にして生きていくか、自分は何をしたいか、何が楽しいのか、この寒さをどう乗り切るか、あれこれ考えてたでしょうね。