阪神の日本一になるのを見ていて、遅くなってしまいました。今日はあと一時間しかありません。だから、簡単に書いておきたいのですが、ブータンの仏教について五木寛之さんからこんなことを教えてもらいました。
この日、訪ねた農家の仏壇で興味ぶかかったのは、位牌というものが見当たらないことだった。ここにも、日本とブータンの仏教のちがいがよく現れている。
ブータンでは、人が死ぬと四十九日後に輪廻転生して、次の人生を送ることになると信じられている。もちろん、人間に生まれ変わるとはかぎらず、つぎは牛や犬に生まれてくるかもしれない。そのへんを飛んでいるスズメかもしれないし、あるいはゴキブリかもしれない。
何だか、五木さんのお得意の少しホラが入っている感じもするんだけど、本当にそうだとしたら、それはもうすべての生命を大事にするし、蚊一匹殺せなくなりますね。すべてが家族なのかもしれない。それくらい徹底した輪廻転生世界観があったら、生きるものすべてを愛する感覚が生まれてくると思うんだけど、残念ながらそれはブータンだけの世界観なのかもしれない。
輪廻転生を信じているため、ブータン人は先祖供養ということをしない。先祖は生まれ変わってこの世にいるのだから、先祖を供養するということ自体,彼らにとっては意味を持たないのだ。自分の家族が没した場合も同じである。
こんなに死から自由であるのは、少しだけ羨ましい。そんなに死は遠くにあるものではなくて、自分のまわり全てが死んだあとに転生したものたちだと考えられたら、それはもうお墓は必要なくなりますね。
ブータン人はわが子の位牌も墓もつくらない。その代わりに、子供が亡くなってから四十九日後に、よりよい人生をスタートさせることを祈る。その後は、また生きてこの世のどこかに戻ってきているのだから、もはや死者ではない。そのため、死者の霊をなぐさせる必要はない、ということになる。
でも、仏壇はあるし、仏間にはいろんな人や絵が飾られ、祈りの場としての空間は家の中にあるという。火葬した遺灰は山中の聖地にまくのだともいう。
ものすごく自然に帰っていくという感じのある「死」になっているようです。それくらいサッパリしていられたら、私たちももう少し気が楽に自然に帰ろうなんて思えるかなあ。
もうコテコテの日本の仏教世界を生きてますから、死というものが怖くて、できれば遠ざけたいという気持ちで一杯なんですけど、もう少し自然になろうよ、という提案は、肩の力を抜いて、リラックスさせてくれるものでもありますね。そういうのをみんなで信じ合えたら、そういう世界に生きていられたら、私も別の死生観が持てたかもしれない。
いやいや、まだこれから、私も自分なりの死生観みたいなのを見つけたい気もします。それができれば、いいんだけど、人間ができてないから、身につかないかもしれないし、簡単ではないですね。