『論語』の最後の方に、突然いろんな伝説の王様たちのことばが採録されている章段があります。改めて確認しておこう、みたいな意図があったのでしょうか。
何人も出てきますが、ひとりの王様だけ取り上げます。
古代の伝説の王様の堯さんが、次の王様に選出した舜さんに言います。
「まことにその中を執(と)れ。四海困窮(しかいこんきゅう)。天禄(てんろく)永く終えん。」〈堯曰〉
君は今こそ王様になるべき時が来ました。まことにそのよき中ほどを守りなさい。四海(世界全体)はみんな苦しみに満ちている。天の恵みの永久につづくことを心がけなさい。
舜さんは、次に選出した王候補の禹(う)さんにも同じことを言ったのですよ。というのが『論語』に書かれています。
ということは、お弟子さんたちが、孔子先生のことばとして記録したはずです。「君たち、古代の王様がこんなことを言われたというのを、ちゃんと心に刻んでおきなさい。私は、いろいろと過去の聖王たちのことばというのを調べていて、これらのことばに出会ったのです。
だから、それをそのまま君たちに伝えるのです。よろしいですか?」と言われて、弟子たちもしっかり記憶したことでしょう。
愚かな弟子としては、「先生、〈中を執る〉って、どんなことですか、お教えいただきたいのですが、よろしいでしょうか」と、しつこく聞きたくなりますね。
でも、それは割とシンプルなことなのかもしれない。過激なことではなくて、利己的なことではなくて、利用できるものはこき使うことでもなくて、みんなの話を聞き、あまり踏み込まず、踏み込まないけど、相手の立場になって考え、何かいいアイデアがあったら、それを提案したり、人々から取れるものはとことん奪い、少しだけ分配し、ありがたみをつけ、さも「してあげたんだよ」みたいな顔をしない、もっと当たり前のことを政治において行う。
もちろん、戦争はしない。その前にちゃんと交渉し、その前に、その好戦的な国が、あえて自分たちの国に攻め入りたくなくさせる、しっかり団結し、行政と人々がある程度の信頼関係で結ばれ、できればそのまま平安に暮らしたいと思えるような、なかなか難しいんだけど、いつもバランスを取りながら政治をしていく。かた寄ったりしない。みんながそれぞれの立場が守れる、そういうのが「中」というバランスじゃないかな。
簡単にはできないのです。
52【中を執れ】……公平、公明正大、うそ偽りのない、バランスをとりながら、みんなを見ていくこと。
これだけでは弟子としては不安です。先生にもっと教わらなくてはならないのです。
先生、「中」って、何ですか? 「中庸」ということばもお聞きしたと思うんですけど、もう少し教えてくださいませ。
もっともっと教えを乞うしかないですよ。でも、そんなに簡単に伝わるものでもなくて、日々の生活の中から学ばなきゃいけないことなんだろうな。
私にはできないことです。私はなんてったって、落第生ですから、先生のおられる空間にはとてもいられない気がする。ああ、そのグータラなところから直さなくちゃいけないのにな。