★ 「史記」と「論語」から拾い読みしてみます。
1.出会い
孔子さんが経書を学んでいたとき、季子(きし)が士を宴会に招いていたそうです。孔子さんもそこへ顔を出してみました。季子の家臣である陽虎(ようこ)は言います。
「季氏は士(有能な人材)を招いているのである。おまえのような小僧を招いているのではない。」
と門前払いでした。それで、孔子さんは退席します。これは十七歳のときの出会いですが、あまりいい出会いではありません。
2.お決まりの追放劇
季桓子(きかんし 魯の実力者)の寵臣(ちょうしん)に仲梁懐(ちゅうりょうかい)という者がいました。同じく家臣の陽虎と仲たがいして、陽虎は仲梁懐を追放しようとします。……いつもの権力争いですね。公山不狃(こうざんふちゅう)がそれを止めました。陽虎さんの仲間でもまともなアドバイスをする人があったんですね。
それから、ますます仲梁懐は調子に乗ってしまい、とうとう陽虎は仲梁懐を捕えます。ご主人の季桓子は怒り、陽虎は主君も捕えますが、仲直りして主人だけは釈放したそうです。下克上ですね。秩序が乱れています。
陽虎はますます主君の季氏を軽んじるようになり、季氏もまた、主君の魯公に対して僭越(せんえつ)であり、陪臣(ばいしん)が国政を荷(にな)っていた。魯は大夫から下々に至るまで、みな上を侵し、正道から離れてしまった。
だから、無秩序な国でまともな政治が行われる可能性は低く、孔子さんは仕官せず、隠退して詩・書・礼・楽を修めていました。弟子はますます多くなり、遠方からも至り、教えの輪がどんどん広がっていきます。
定公の八年、公山不狃は主君の季氏と仲違いし、陽虎とともに乱を起こして、三桓(桓公の子孫である孟孫・叔孫・季孫の三氏)を廃し、陽虎がもとから親しかった庶子を立てようとした。……本来は直系の人がトップであるべきなのですが、言うことを聞かないトップを除いて、自分の言いなりになる主人を立てようとしたわけですね。これもよくあるカイライ政権みたいなものです。
陽虎は主人の季桓子を捕えたが、桓子は偽って逃亡に成功する。翌年、陽虎は権力争いに敗れて斉に出奔(しっゅぽん)します。このとき、孔子さんは五十歳になっていました。
出会いから三十三年が経過しています。歴史としてはあっという間だけれど、人の人生としても、悪いキャラの人は、若いときも年を取ってからも同じですから、ずっと陽虎さんはイジワルの人だったんでしょう。とにかく孔子さんはあまり好きではありませんでした。
3.孔子さんの遭難
秩序の乱れた魯の国にいても、自分の力を発揮するところはありませんでした。かくして孔子さんの十数年に及ぶ旅が始まります。たまたま匡(きょう)という国を通り過ぎました。
弟子の顔刻(がんこく)が御者をつとめていて、鞭で指し示して言います。
「先年、ここに私が参りましたときは、あの城壁の欠けたところからはいったのです。」
……顔刻は、以前、魯の陽虎にしたがって匡に来たことがあったのです。よりによって陽虎の御者だったとは間が悪い!
匡人(きょうひと)がこれを聞いて、魯の乱暴者の陽虎が来たと勘違いしたそうです。陽虎はかつて匡人に乱暴をはたらいていたのだそうです。
そこで、匡人は孔子さんを留めました。バツが悪いことに孔子さんの風貌が陽虎に似ていたのだそうです。大嫌いなヤツと間違われるなんて、アンラッキーです。
抑留(よくりゅう)されること五日、はぐれていた弟子の顔淵さんが遅れてやってきます。
先生は言います。「わしは、そなたが難に遭って、もう死んだと思っていたのですよ。」
「先生がご在世ですのに、私がどうして無謀に死んだりいたしましょう。」
匡人は孔子さんを捕らえて、ますます烈しく苦しめました。弟子たちは先生がどうなるのか心配しました。
すると、先生は言います。
「周の文王はすでに亡くなられたが、その制定された文化は、私のこの身に伝わっているではないですか。天がこの文化を滅ぼそうとしているのなら、文王のずっと後世に生きる私が、この文化に関わることはできないでしょう。私がこの文化に関わることができたのは、天がこの文化を滅ぼそうとしていないからなのですよ。そうだとすれば、この文化を伝える私を、匡人がどうすることができるでしょうか。」
孔子さんは、従者を衛にやって、その大夫のネイ武子の臣下にさせ、その力で匡を去ることができそうです。
この仕組み、イマイチわかりにくいですけど、匡という国に影響力のある衛の実力者の力で、匡の人々を抑えたという政治的な駆け引きということですね。
ということは、あまり先生のおっしゃるように周の文化の力によって解放されたのではなくて、政治的な駆け引きという気がしますが、それもありですね。
これだけでは、イマイチ孔子さんと陽虎との関係がわかりません。「論語」をもう少し読まないとわからないかもしれません。それは明日にします。
とにかく、陽虎という人物は、ヒトクセも、フタクセもある、何だかよくわからない乱暴者なのは確かです。よくもまあ、そんなヤツが権力を握ったもんですね。いやそんなヤツこそ権力を握りたがるものなのかもしれない。
私たちは、用心して、そういう上昇志向の権力者から、一歩下がって、適当な距離をおいてつきあわないといけないのに、孔子さんは、たまたま風貌が似ていた。それで間違われてしまいました。それで、司馬遷さんもなんとも対照的なよく似た2人を取り上げているようです。
1.出会い
孔子さんが経書を学んでいたとき、季子(きし)が士を宴会に招いていたそうです。孔子さんもそこへ顔を出してみました。季子の家臣である陽虎(ようこ)は言います。
「季氏は士(有能な人材)を招いているのである。おまえのような小僧を招いているのではない。」
と門前払いでした。それで、孔子さんは退席します。これは十七歳のときの出会いですが、あまりいい出会いではありません。
2.お決まりの追放劇
季桓子(きかんし 魯の実力者)の寵臣(ちょうしん)に仲梁懐(ちゅうりょうかい)という者がいました。同じく家臣の陽虎と仲たがいして、陽虎は仲梁懐を追放しようとします。……いつもの権力争いですね。公山不狃(こうざんふちゅう)がそれを止めました。陽虎さんの仲間でもまともなアドバイスをする人があったんですね。
それから、ますます仲梁懐は調子に乗ってしまい、とうとう陽虎は仲梁懐を捕えます。ご主人の季桓子は怒り、陽虎は主君も捕えますが、仲直りして主人だけは釈放したそうです。下克上ですね。秩序が乱れています。
陽虎はますます主君の季氏を軽んじるようになり、季氏もまた、主君の魯公に対して僭越(せんえつ)であり、陪臣(ばいしん)が国政を荷(にな)っていた。魯は大夫から下々に至るまで、みな上を侵し、正道から離れてしまった。
だから、無秩序な国でまともな政治が行われる可能性は低く、孔子さんは仕官せず、隠退して詩・書・礼・楽を修めていました。弟子はますます多くなり、遠方からも至り、教えの輪がどんどん広がっていきます。
定公の八年、公山不狃は主君の季氏と仲違いし、陽虎とともに乱を起こして、三桓(桓公の子孫である孟孫・叔孫・季孫の三氏)を廃し、陽虎がもとから親しかった庶子を立てようとした。……本来は直系の人がトップであるべきなのですが、言うことを聞かないトップを除いて、自分の言いなりになる主人を立てようとしたわけですね。これもよくあるカイライ政権みたいなものです。
陽虎は主人の季桓子を捕えたが、桓子は偽って逃亡に成功する。翌年、陽虎は権力争いに敗れて斉に出奔(しっゅぽん)します。このとき、孔子さんは五十歳になっていました。
出会いから三十三年が経過しています。歴史としてはあっという間だけれど、人の人生としても、悪いキャラの人は、若いときも年を取ってからも同じですから、ずっと陽虎さんはイジワルの人だったんでしょう。とにかく孔子さんはあまり好きではありませんでした。
3.孔子さんの遭難
秩序の乱れた魯の国にいても、自分の力を発揮するところはありませんでした。かくして孔子さんの十数年に及ぶ旅が始まります。たまたま匡(きょう)という国を通り過ぎました。
弟子の顔刻(がんこく)が御者をつとめていて、鞭で指し示して言います。
「先年、ここに私が参りましたときは、あの城壁の欠けたところからはいったのです。」
……顔刻は、以前、魯の陽虎にしたがって匡に来たことがあったのです。よりによって陽虎の御者だったとは間が悪い!
匡人(きょうひと)がこれを聞いて、魯の乱暴者の陽虎が来たと勘違いしたそうです。陽虎はかつて匡人に乱暴をはたらいていたのだそうです。
そこで、匡人は孔子さんを留めました。バツが悪いことに孔子さんの風貌が陽虎に似ていたのだそうです。大嫌いなヤツと間違われるなんて、アンラッキーです。
抑留(よくりゅう)されること五日、はぐれていた弟子の顔淵さんが遅れてやってきます。
先生は言います。「わしは、そなたが難に遭って、もう死んだと思っていたのですよ。」
「先生がご在世ですのに、私がどうして無謀に死んだりいたしましょう。」
匡人は孔子さんを捕らえて、ますます烈しく苦しめました。弟子たちは先生がどうなるのか心配しました。
すると、先生は言います。
「周の文王はすでに亡くなられたが、その制定された文化は、私のこの身に伝わっているではないですか。天がこの文化を滅ぼそうとしているのなら、文王のずっと後世に生きる私が、この文化に関わることはできないでしょう。私がこの文化に関わることができたのは、天がこの文化を滅ぼそうとしていないからなのですよ。そうだとすれば、この文化を伝える私を、匡人がどうすることができるでしょうか。」
孔子さんは、従者を衛にやって、その大夫のネイ武子の臣下にさせ、その力で匡を去ることができそうです。
この仕組み、イマイチわかりにくいですけど、匡という国に影響力のある衛の実力者の力で、匡の人々を抑えたという政治的な駆け引きということですね。
ということは、あまり先生のおっしゃるように周の文化の力によって解放されたのではなくて、政治的な駆け引きという気がしますが、それもありですね。
これだけでは、イマイチ孔子さんと陽虎との関係がわかりません。「論語」をもう少し読まないとわからないかもしれません。それは明日にします。
とにかく、陽虎という人物は、ヒトクセも、フタクセもある、何だかよくわからない乱暴者なのは確かです。よくもまあ、そんなヤツが権力を握ったもんですね。いやそんなヤツこそ権力を握りたがるものなのかもしれない。
私たちは、用心して、そういう上昇志向の権力者から、一歩下がって、適当な距離をおいてつきあわないといけないのに、孔子さんは、たまたま風貌が似ていた。それで間違われてしまいました。それで、司馬遷さんもなんとも対照的なよく似た2人を取り上げているようです。