芭蕉さんの取り合わせを研究しようと、角川文庫の全句集を取り出しました。
とりあえず、夏から入って見ようと少しだけ読んでみました。「おくのほそ道」の句のいくつかが、私に呼びかけてくれました。
ああ、私はこういう世界を忘れていたんだ。つい、めんどくさくって、日々の生活に追われていて、振り返ることができないでいた、愉快な世界がありました。
「おくのほそ道」も早く読まなきゃいけない! あとしばらくしたら、梅雨も終わるし(あと1ヶ月はつづくかな?)、平泉や象潟を芭蕉さんと旅したいじゃないですか。
それはまた、今度やることにして、せっかくだから、夏の月の句を取り上げてみたいと思います。
須磨に遊びに行かれたそうです。風流ですね。でも、いい作品を作らなきゃいけないから、プレッシャーはあるだろうな。そして、次の句が作られました。
月はあれど留主(るす)のやうなり須磨の夏
月は出ていても、夏の須磨では主人の留守を訪ねたようでもどかしい。
そうか、須磨は月見の名所なんだそうです。夏に訪ねる所ではなかったのか。でも、旅をするのが半分仕事でもある芭蕉さんは、こちらを訪れました。43歳でバリバリの旅人です。健脚ですから、いくらでも歩けたでしょう。
でも、せっかくの須磨の浦、見渡す限りの海、静かな月、穏やかな夕べ、旅の空、それでも、情趣を究めなきゃいけないアーチストとしては、ただ旅の気分に浸るわけにはいかなかったんです。
まるで、主人のいないところにノコノコとやってきてしまって、場違いな、一緒に何かしようというイベントも行われない、もったいない感じがしたというのです。
そう、国立競技場を新設したって、お客さんは来られないのです。あれと同じで、何だか気まずい。だったら、このギャップを取り上げるしかなかった。それが「留主のやうなり」だったんですね。
あともうひとつ、
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
これはその旅の続きで、明石に泊まったときの作品なんだそうです。
明石といえばタコで、タコといえば、タコツボ漁で、夜にせっかく寝床を見つけたと思ったタコは、朝には取り上げられてしまうようです。
それで、タコの運命をはかない夏の夢に見立てたんですね。
何だかかわいそうではあるけれど、でも、タコも私たちも同じような運命にあるみたいで、ヌクヌクと夢を見ている時が一番楽しいけれど、それもそんなに長くは続かないし、サッと運命がやってくるかもしれない。
それくらいに命を見つめた作品なんだなという気がします。
その生き物たちの運命を、お月さまはクールに見つめておられる。それが自然というものでしょうか。お日様は、そんなことはお構いなしなんだけど、お月さまは見てくださっている。
今夜はお月さまは出ますか? たぶん、無理だし、あとしばらくしたら、雨も降るでしょう。お昼くらいに太陽光線が降り注いだのも意外な感じでした。